第十九話:愛の鉄拳
この第十九話、それはまさしく“実力を見せつける回”である。ただし、その見せ方が少々特殊だ。雷光の如き必殺技もなければ、天変地異の大魔法もない。あるのは、巨竜の眉間に叩き込む愛の鉄拳と、できたタンコブを揉んで消す手際の良さ。威風堂々たる赤き巨竜を、まるで駄々をこねる幼児のように叱りつけ、あげく反省させる——この一連の流れを目の当たりにして、息子のツッコミは完全に機能停止。
龍吼が山谷を転がって、梢の鳥たちが一斉にばさばさと飛び去った。
ウリエルはテントの中で、その音を聞いた。
咀嚼する手が一瞬だけ止まった。
山の下から、鍋の中をかき回すような怒号と悲鳴が届いてくる。
時間を見積もった。
手に持っていたものをそっと置いて、立ち上がり、幕を持ち上げて、龍の方をちらりと見た。
母さんの背中は、もうだいぶ向こうにある。
四方を見渡した。
人の群れはあちこちに散り散りで、みな我先にと逃げている。
こちらに目を向けている人間は、いない。
ウリエルはテントの幕をそっと押さえて、静かに後をつけた。
特に目的はない。
ただ、ふと思い立っただけだ——こんなに長い付き合いなのに、母さんが本気で動くところを、一度もちゃんと見たことがない。
せっかくの機会だった。
彼は少し歩いて、散り散りに逃げる人混みを避けた。その連中が下からパニックになって駆け上がってきたのか、それとも上から逃げ降りてきたのかなど、見分ける気にもならなかった。そして視界が開けつつも目立たない場所を見つけ、暗躍者のように観察を始めた。
木の陰に身を隠して、息を整えた。
あの赤い巨龍は、頭を低くしていた。
縦長に収縮した瞳孔が、真下に立つ小さな人影を、真っ直ぐ見下ろしている。
ティナはそこに立っていた。
スカートの裾が、龍の息吹が作る気流に柔らかくなびいている。
顔を上げて、人間の目で真っ向から龍の目と睨み合い——まるで博物館の展示物を眺めているような表情だった。
龍が何かを感じ取った。
喉の奥で低い震鳴が鳴った。
そして——
轟。
龍吼が喉奥から破裂した。
遠くに隠れているウリエルにも、気圧の波が押し寄せてきた。
鼓膜に、はっきりとした衝撃がある。
周辺のお椀ほどの太さの木が二本、気流に横薙ぎにされてぱきんと折れ、葉を引きずりながら土の中に倒れ込んだ。
目を細めた。
舞い上がる葉と砂埃の向こうに、ティナを探した。
制服のスカートが、暴風に高々とめくれ上がっていた。
銀色の髪が、乱れて顔の半分を覆っていた。
気流の余威が完全に引いたとき——ティナはただ、ひどく気楽な手つきで、耳元に垂れてきた髪を一筋、すっと直した。
それだけだった。
そして、真剣な顔で口を開いた。
「大きな声を出すのは、いけないことよ」
木の後ろで、ウリエルが固まった。
「そういうの、悪い子だもの」
ティナの声は、ご飯の時間にスプーンでお茶碗をがんがん叩いている子どもを宥めるような、柔らかい語調だった。
「……」
龍は頭を低くしたまま、彼女を見つめて、動かない。
その表情は、たぶんウリエルと同じだったと思う。
(こいつ……何を言ってるんだ)
「それに、」
精神が崩れそうになるほどの威圧を完全に無視して、ティナは両手でバツ印を作り、周囲にぐるりと見せた。
「みんなに、もうだいぶ迷惑をかけてしまったじゃない。いい子だから、早くここから離れてくれない?」
山脊の上。
空の大半を占拠した赤い巨龍が、仰ぎ見る銀髪の少女と、無言で見つめ合っている。
ウリエルは折れた木が転がる林の中に立って、その光景を見て、声をあげようとして——喉が詰まった。
(母さん、あなた今、何をしているんだ)
(あいつのことも子どもだと思って宥める気かよ!?)
龍に、聞く耳は当然なかった。
低く唸り、口の端から気流を漏らした。
足元の岩が震動で数塊に砕けた。
前足を一本持ち上げた。
爪の先が弧光を引いて、下方のティナ目がけて押し下ろされてくる。
ティナは避ける気配もなく、降ってくる爪を一瞥しただけで、また龍の目に視線を戻した。
人差し指を一本、すっと立てた。
温かいが、しかし一切の反論を許さない口調で——最後通牒を下した。
「三つ、数えるわよ」
遠くで、ウリエルが木の幹をつかんでいた指で、ぼきっと枝を折った。
慌てて隣の太い幹をつかみ直した。
あわや転倒だった。
(母さん)
(その「三つ数える」は——十歳未満の子ども専用の戦術です)
「一」
「二」
龍爪が空気を引き裂く鋭い風ごと押し下ろされてくる。
止まる気配はない。
むしろ速くなった。
生臭い風が、渦を巻きながら押し寄せてくる。
ウリエルは木の後ろで、息を止めた。
(早く避けて! 魔法障壁でも何でもいい! 母さん!)
「三」
言い終わった瞬間、ティナが跳んだ。
跳び上がる瞬間——ウリエルは思った。
次は何か豪快な魔法か、あるいは勇者らしい天空を裂く一閃か、と。
彼が実際に見たのは、こうだった。
ティナは龍爪の指の隙間をすり抜け、空中で半回転した。
降り下ろされる爪の勢いを足場に一蹴りして、龍の頭と同じ高さまで跳ね上がった。
右手を握り締めた。
拳に薄い赤のオーラが纏わせ。
それを、龍の眉間に、まっすぐ、叩き込んだ。
ゴンッ!
鈍い。
純物理の一撃。
拳骨と龍鱗が接触した点から、目に見える衝撃波が爆発的に広がった。
頭上の雲が数個、弾き飛ばされたように見えた。
ティナは地面に舞い降りた。
跳ぶ前とまったく同じ姿勢で、着地した。
ギャンッ!!
さっきまで威風堂々としていた赤い巨龍が、この世の終わりのような悲鳴をあげた。
まるで道端で尻尾を踏まれた野良犬のような、惨めな悲鳴だった。
二百トンの巨体がよろよろと後退して、後ろ足が山脊に深い溝を数本えぐりながら——最後に、ドン、と。
すっかりいじけた二百トンの巨漢のように、尊厳のかけらもなく地べたに尻餅をついた。
ウリエルは木の幹の握力を少し強めた。
龍の頭の一点を、じっと見つめた。
その絶対に壊れないはずの龍鱗の上に、あり得ないスピードで赤くテカテカと光る巨大なタンコブが隆起し、赤い鱗の中でやけに目立っていた。
そのタンコブを、三秒、凝視した。
顎がいつの間にか外れていた。
用意していたツッコミが、全部、静かになった。
どこから入ればいいか、もう分からない。
(これ……このすばの世界じゃん……)
巨龍は頭を押さえるようにして、喉の奥で掠れた呻きを漏らした。
猛獣特有の獰猛さが、いつの間にかどこかへ消えていた。
ティナはその前に立ったまま、腰に手を当てて、顎を上げて、ひどく厳粛な顔をしていた。
「分かってる?」
彼女は言った。
「みんなに、どれだけ迷惑をかけたか」
当然、龍が人語で返事をするわけもない。
だが、姿勢を変えて、頭を垂れて、ふせた。
その体勢を、ウリエルはどこかの動物で見たことがある。
飼い主に叱られた後の、首をすくめて、本当に反省しているのか演技なのかよく分からない、あの姿勢だ。
「ちゃんと反省するのよ」
ティナは言った。
「いいわね」
龍は低頭したまま、動かなかった。
ウリエルは山腹からその光景を見て、ゆっくりと手を幹から離した。
落ちていた顎を、そっと戻した。
(たぶん、殺されるのが怖くて従ってるだけだ)
(本当に聞いてるわけじゃない。死にたくないから、演技してる)
(……ある意味、この龍は相当に状況判断が早い)
何かを言い終えて、ティナは腰に当てていた手を離した。
手を持ち上げた。
手のひらを上に向けた。
掌から何かがじんわりと溢れ出て、龍の頭の方向へ、静かに流れていった。
あのタンコブが、目に見える速度で、みるみる引いていく。
やがて完全に消えた。
鱗も元通り平らになった。
何も起きなかったかのように。
ウリエルはその場所をしばらく見つめた後、ゆっくりと目線を戻した。
ティナはまた腰に手を当てて、龍の目を見上げた。
声が、さっきより柔らかくなった。
「いいわ、帰りなさい」
「帰ったら、ちゃんと反省するのよ」
「次は、こういうことをしてはダメ」
巨龍は伏した頭を、二秒間、彼女に向けた。
それから双翼を広げた。
気流が木々を波のようにうねらせた。
岩が舞い上がり、落ちた。
轟音の中、赤い巨大な影が地を離れて、遠い空へ消えていった。
どんどん小さくなって、やがて雲の向こうに溶けて、影すら見えなくなった。
山脊に、埃がゆっくりと落ちていった。
折れた木はまだ横たわっていた。
岩はまだ砕けていた。
でも龍はいなかった。
爪跡と、地面を走る深浅さまざまな亀裂だけが、あれが幻じゃなかったと証明していた。
ティナはその中央に立って、スカートに飛んできた石のかけらを軽く払った。
それから振り向いて、こちらを見た。
視線が、木陰に隠れているウリエルに、迷いなく刺さった。
「ウリちゃん」
彼女は言った。
「さっき、ついて来ちゃダメって言ったのに」
「……」
ウリエルはポケットから手を出した。
一瞬、言葉に詰まった。
それから口を開いた。
「母さん、さっきの拳」
「うん?」
「普通の一発、だったの?」
ティナは少し考えた。
「ちょっとだけ力を使ったかな」
彼女は説明した。
「痛い目を見せたかっただけで、死なせるつもりはなかったから」
「……そう」
人語というのは、母さんが使うと別の意味になる気がしてならない。
遠くにまだ逃げ惑う人の群れが見えた。
視線を戻した。
「じゃあ……あのタンコブ、なんで治したの?」
「だって、絶対に証拠を残さないでって言ったでしょ、」
ティナは彼のもとへ歩み寄り、言わんばかりの褒めてほしそうな顔で、堂々と言い放った。
「ママの完璧な仕事っぷり、安心したでしょ?」
「考えてみて。あんな大きなタンコブを作ったまま飛んでいったら、絶対に変だって思われるじゃない。だから揉んで消してあげたの。そしたら、あの子が自分で飛んで行ったように見えるでしょ。完璧じゃない?」
完璧。
完璧。
クソほど完璧だ。
完璧どころか、もはや完璧そのものだ。
物理的制圧から証拠隠滅まで、完璧な一連の流れが成立してしまっている。
ただ——そもそもの「見られてはいけない」という注文は、そういうレベルの話じゃ、なかったんだが!!
「戻って何か食べよう」
彼は完全に抵抗を諦め、悟りを開いた人間特有の虚脱した声で言った。
「冷めてる」
「うん」
ティナは軽く歩み寄ってきて、彼の頭にそっと手を乗せた。わしゃ、と一度だけ撫でた。
「びっくりしなかった?」
「してない」
「ならよかった」
彼女はくるりと向きを変えて、歩き始めた。
スカートが山風に細かく揺れていた。
来た時と何も変わらない歩き方だった。
何も起きなかったかのような。
ウリエルはその後ろをついて歩いた。
頭を少し下げたまま、さっきの——タンコブが消えていく場面が、まだ目の裏にある。
一拳でタンコブを作り、ひと揉みで消し、腰に手を当てて見送る。
全部、子どもを宥める語調で。
深く息を吸い込んで、残っていたツッコミを全部、黙ってのみ込んだ。
いいや。
とっくに慣れた。
【第十九話・終】
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