表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/68

第十九話:愛の鉄拳

この第十九話、それはまさしく“実力を見せつける回”である。ただし、その見せ方が少々特殊だ。雷光の如き必殺技もなければ、天変地異の大魔法もない。あるのは、巨竜の眉間に叩き込む愛の鉄拳と、できたタンコブを揉んで消す手際の良さ。威風堂々たる赤き巨竜を、まるで駄々をこねる幼児のように叱りつけ、あげく反省させる——この一連の流れを目の当たりにして、息子のツッコミは完全に機能停止。

龍吼が山谷を転がって、梢の鳥たちが一斉にばさばさと飛び去った。


ウリエルはテントの中で、その音を聞いた。

咀嚼する手が一瞬だけ止まった。

山の下から、鍋の中をかき回すような怒号と悲鳴が届いてくる。


時間を見積もった。

手に持っていたものをそっと置いて、立ち上がり、幕を持ち上げて、龍の方をちらりと見た。

母さんの背中は、もうだいぶ向こうにある。


四方を見渡した。

人の群れはあちこちに散り散りで、みな我先にと逃げている。

こちらに目を向けている人間は、いない。


ウリエルはテントの幕をそっと押さえて、静かに後をつけた。


特に目的はない。

ただ、ふと思い立っただけだ——こんなに長い付き合いなのに、母さんが本気で動くところを、一度もちゃんと見たことがない。


せっかくの機会だった。




彼は少し歩いて、散り散りに逃げる人混みを避けた。その連中が下からパニックになって駆け上がってきたのか、それとも上から逃げ降りてきたのかなど、見分ける気にもならなかった。そして視界が開けつつも目立たない場所を見つけ、暗躍者のように観察を始めた。

木の陰に身を隠して、息を整えた。


あの赤い巨龍は、頭を低くしていた。

縦長に収縮した瞳孔が、真下に立つ小さな人影を、真っ直ぐ見下ろしている。


ティナはそこに立っていた。

スカートの裾が、龍の息吹が作る気流に柔らかくなびいている。

顔を上げて、人間の目で真っ向から龍の目と睨み合い——まるで博物館の展示物を眺めているような表情だった。


龍が何かを感じ取った。

喉の奥で低い震鳴が鳴った。


そして——


轟。


龍吼が喉奥から破裂した。

遠くに隠れているウリエルにも、気圧の波が押し寄せてきた。

鼓膜に、はっきりとした衝撃がある。

周辺のお椀ほどの太さの木が二本、気流に横薙ぎにされてぱきんと折れ、葉を引きずりながら土の中に倒れ込んだ。


目を細めた。

舞い上がる葉と砂埃の向こうに、ティナを探した。


制服のスカートが、暴風に高々とめくれ上がっていた。

銀色の髪が、乱れて顔の半分を覆っていた。


気流の余威が完全に引いたとき——ティナはただ、ひどく気楽な手つきで、耳元に垂れてきた髪を一筋、すっと直した。


それだけだった。


そして、真剣な顔で口を開いた。


「大きな声を出すのは、いけないことよ」


木の後ろで、ウリエルが固まった。


「そういうの、悪い子だもの」


ティナの声は、ご飯の時間にスプーンでお茶碗をがんがん叩いている子どもを宥めるような、柔らかい語調だった。


「……」


龍は頭を低くしたまま、彼女を見つめて、動かない。

その表情は、たぶんウリエルと同じだったと思う。


(こいつ……何を言ってるんだ)


「それに、」


精神が崩れそうになるほどの威圧を完全に無視して、ティナは両手でバツ印を作り、周囲にぐるりと見せた。


「みんなに、もうだいぶ迷惑をかけてしまったじゃない。いい子だから、早くここから離れてくれない?」




山脊の上。

空の大半を占拠した赤い巨龍が、仰ぎ見る銀髪の少女と、無言で見つめ合っている。


ウリエルは折れた木が転がる林の中に立って、その光景を見て、声をあげようとして——喉が詰まった。


(母さん、あなた今、何をしているんだ)

(あいつのことも子どもだと思って宥める気かよ!?)


龍に、聞く耳は当然なかった。


低く唸り、口の端から気流を漏らした。

足元の岩が震動で数塊に砕けた。

前足を一本持ち上げた。

爪の先が弧光を引いて、下方のティナ目がけて押し下ろされてくる。


ティナは避ける気配もなく、降ってくる爪を一瞥しただけで、また龍の目に視線を戻した。

人差し指を一本、すっと立てた。


温かいが、しかし一切の反論を許さない口調で——最後通牒を下した。


「三つ、数えるわよ」


遠くで、ウリエルが木の幹をつかんでいた指で、ぼきっと枝を折った。

慌てて隣の太い幹をつかみ直した。

あわや転倒だった。


(母さん)

(その「三つ数える」は——十歳未満の子ども専用の戦術です)


「一」


「二」


龍爪が空気を引き裂く鋭い風ごと押し下ろされてくる。

止まる気配はない。

むしろ速くなった。

生臭い風が、渦を巻きながら押し寄せてくる。


ウリエルは木の後ろで、息を止めた。


(早く避けて! 魔法障壁でも何でもいい! 母さん!)


「三」


言い終わった瞬間、ティナが跳んだ。




跳び上がる瞬間——ウリエルは思った。

次は何か豪快な魔法か、あるいは勇者らしい天空を裂く一閃か、と。


彼が実際に見たのは、こうだった。


ティナは龍爪の指の隙間をすり抜け、空中で半回転した。

降り下ろされる爪の勢いを足場に一蹴りして、龍の頭と同じ高さまで跳ね上がった。

右手を握り締めた。

拳に薄い赤のオーラが纏わせ。

それを、龍の眉間に、まっすぐ、叩き込んだ。


ゴンッ!


鈍い。

純物理の一撃。

拳骨と龍鱗が接触した点から、目に見える衝撃波が爆発的に広がった。

頭上の雲が数個、弾き飛ばされたように見えた。


ティナは地面に舞い降りた。

跳ぶ前とまったく同じ姿勢で、着地した。


ギャンッ!!


さっきまで威風堂々としていた赤い巨龍が、この世の終わりのような悲鳴をあげた。

まるで道端で尻尾を踏まれた野良犬のような、惨めな悲鳴だった。

二百トンの巨体がよろよろと後退して、後ろ足が山脊に深い溝を数本えぐりながら——最後に、ドン、と。

すっかりいじけた二百トンの巨漢のように、尊厳のかけらもなく地べたに尻餅をついた。


ウリエルは木の幹の握力を少し強めた。

龍の頭の一点を、じっと見つめた。


その絶対に壊れないはずの龍鱗の上に、あり得ないスピードで赤くテカテカと光る巨大なタンコブが隆起し、赤い鱗の中でやけに目立っていた。


そのタンコブを、三秒、凝視した。


顎がいつの間にか外れていた。

用意していたツッコミが、全部、静かになった。

どこから入ればいいか、もう分からない。


(これ……このすばの世界じゃん……)




巨龍は頭を押さえるようにして、喉の奥で掠れた呻きを漏らした。

猛獣特有の獰猛さが、いつの間にかどこかへ消えていた。


ティナはその前に立ったまま、腰に手を当てて、顎を上げて、ひどく厳粛な顔をしていた。


「分かってる?」


彼女は言った。


「みんなに、どれだけ迷惑をかけたか」


当然、龍が人語で返事をするわけもない。

だが、姿勢を変えて、頭を垂れて、ふせた。

その体勢を、ウリエルはどこかの動物で見たことがある。

飼い主に叱られた後の、首をすくめて、本当に反省しているのか演技なのかよく分からない、あの姿勢だ。


「ちゃんと反省するのよ」


ティナは言った。


「いいわね」


龍は低頭したまま、動かなかった。


ウリエルは山腹からその光景を見て、ゆっくりと手を幹から離した。

落ちていた顎を、そっと戻した。


(たぶん、殺されるのが怖くて従ってるだけだ)

(本当に聞いてるわけじゃない。死にたくないから、演技してる)

(……ある意味、この龍は相当に状況判断が早い)




何かを言い終えて、ティナは腰に当てていた手を離した。


手を持ち上げた。

手のひらを上に向けた。

掌から何かがじんわりと溢れ出て、龍の頭の方向へ、静かに流れていった。


あのタンコブが、目に見える速度で、みるみる引いていく。

やがて完全に消えた。

鱗も元通り平らになった。

何も起きなかったかのように。


ウリエルはその場所をしばらく見つめた後、ゆっくりと目線を戻した。


ティナはまた腰に手を当てて、龍の目を見上げた。

声が、さっきより柔らかくなった。


「いいわ、帰りなさい」

「帰ったら、ちゃんと反省するのよ」

「次は、こういうことをしてはダメ」


巨龍は伏した頭を、二秒間、彼女に向けた。

それから双翼を広げた。

気流が木々を波のようにうねらせた。

岩が舞い上がり、落ちた。


轟音の中、赤い巨大な影が地を離れて、遠い空へ消えていった。

どんどん小さくなって、やがて雲の向こうに溶けて、影すら見えなくなった。


山脊に、埃がゆっくりと落ちていった。


折れた木はまだ横たわっていた。

岩はまだ砕けていた。

でも龍はいなかった。

爪跡と、地面を走る深浅さまざまな亀裂だけが、あれが幻じゃなかったと証明していた。




ティナはその中央に立って、スカートに飛んできた石のかけらを軽く払った。

それから振り向いて、こちらを見た。

視線が、木陰に隠れているウリエルに、迷いなく刺さった。


「ウリちゃん」


彼女は言った。


「さっき、ついて来ちゃダメって言ったのに」


「……」


ウリエルはポケットから手を出した。

一瞬、言葉に詰まった。

それから口を開いた。


「母さん、さっきの拳」


「うん?」


「普通の一発、だったの?」


ティナは少し考えた。


「ちょっとだけ力を使ったかな」


彼女は説明した。


「痛い目を見せたかっただけで、死なせるつもりはなかったから」


「……そう」


人語というのは、母さんが使うと別の意味になる気がしてならない。

遠くにまだ逃げ惑う人の群れが見えた。

視線を戻した。


「じゃあ……あのタンコブ、なんで治したの?」


「だって、絶対に証拠を残さないでって言ったでしょ、」


ティナは彼のもとへ歩み寄り、言わんばかりの褒めてほしそうな顔で、堂々と言い放った。


「ママの完璧な仕事っぷり、安心したでしょ?」


「考えてみて。あんな大きなタンコブを作ったまま飛んでいったら、絶対に変だって思われるじゃない。だから揉んで消してあげたの。そしたら、あの子が自分で飛んで行ったように見えるでしょ。完璧じゃない?」


完璧。


完璧。

クソほど完璧だ。

完璧どころか、もはや完璧そのものだ。

物理的制圧から証拠隠滅まで、完璧な一連の流れが成立してしまっている。


ただ——そもそもの「見られてはいけない」という注文は、そういうレベルの話じゃ、なかったんだが!!


「戻って何か食べよう」


彼は完全に抵抗を諦め、悟りを開いた人間特有の虚脱した声で言った。


「冷めてる」


「うん」


ティナは軽く歩み寄ってきて、彼の頭にそっと手を乗せた。わしゃ、と一度だけ撫でた。

「びっくりしなかった?」


「してない」


「ならよかった」


彼女はくるりと向きを変えて、歩き始めた。

スカートが山風に細かく揺れていた。

来た時と何も変わらない歩き方だった。

何も起きなかったかのような。


ウリエルはその後ろをついて歩いた。

頭を少し下げたまま、さっきの——タンコブが消えていく場面が、まだ目の裏にある。


一拳でタンコブを作り、ひと揉みで消し、腰に手を当てて見送る。

全部、子どもを宥める語調で。


深く息を吸い込んで、残っていたツッコミを全部、黙ってのみ込んだ。


いいや。

とっくに慣れた。




【第十九話・終】

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


もし「面白い!」「続きが気になる!」「笑った!」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!


ブックマークの登録も、ぜひよろしくお願いいたします! 次回もよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ