第十二話:やっぱり学校には行かないといけない
ルミナたちを見送って、やれやれ……と思いきや。
ママに言われて気づいてしまったのです。自分が学校に行く年齢だということに。
異世界に来てまで学校に通うことになるとは。学生の宿命からは逃れられないようです(笑)。
そんなわけで、今回は入学に向けた、ちょっとドタバタな日常回です。
目を覚ました時、台所の方からはもう聞き慣れた包丁の音がしていた。
とん、とん、とん——
ゆっくりとしたリズム。
豆腐を切っている音だ。
ウリエルは寝返りを打って、天井を眺めて、ぼんやりした。
起きたくなかった。
でも、ママの起こし方を思い出したら、自分から起き上がって顔を洗いに行った。
朝食が並んだタイミングで、ガラティーナが向かいに座った。
ウリエルが目玉焼きを箸で取りながら、視界の端でそれを確認した。
両手を膝の上で重ねて。
背筋を一本の棒のように伸ばして。
表情は、国家の重大事を発表する前のような、真剣なものだった。
この座り方。
この顔。
(……また何かある)
「ウリちゃん、ママちょっと話があるんだけど」
「どうぞ」
「学校の話」
ウリエルの手が、一瞬止まった。
箸を置いて、頷いた。
「……あー」
彼は言った。
「やっぱり行くんだな、学校」
この世界の学校は十二歳から入学して、十五歳で卒業する。
ずっと前から知っていた。
ただ、後回しにして深く考えてこなかっただけだ。
ガラティーナが目を細めた。
「知ってたの?」
「大体は」
彼は器を持ち上げて、目玉焼きと一緒に粥を掻き込みながら、頭をフル回転させた。
入学、寄宿か通学か、科目、魔力測定の有無……
(待って)
食べる手が止まった。
「ママ」
ゆっくりと器を置いた。
「一つ聞いていい」
「なあに?」
ガラティーナが首を傾けた。
銀色の髪がさらりと流れて、頬の横に垂れた。
「ルミナたちって」
ウリエルは彼女の目を見た。
「学校に行ったんじゃないのか」
「……うん、たぶんそうだと思うけど」
ガラティーナは少し考えてから、指先を顎に当てた。
「そんな気がする」
その不確かさが声ににじんでいた。
「じゃあ俺は」
ウリエルの声が微かに裏返った。
「なんで一緒に行かなかったんだ」
ガラティーナの目が、ぱちっと瞬いた。
静寂が、一瞬だけ部屋を満たした。
それから彼女はゆっくりと口を開いた。
あたりまえのことを、あたりまえの声で。
「あの時ママねぇ、悲しかったのよぉ。三人とも行っちゃって、心がぽっかり空いちゃってぇ」
「それに——」
彼女の目に、ウリエルには読めない何かが浮かんだ。
「それにね——ウリちゃんのお嫁さんがいなくなっちゃったからぁ、心配でねぇ。うっかり忘れてたんだけどぉ、でも今からでも全然間に合うわよねぇ」
ウリエルは石化した。
向かいの顔を見た。
「私、何も悪いことしてません」
全力で主張している顔だった。
口を開いた。
また閉じた。
(……ママ)
(あんたの頭の中では、お嫁さんと進学、どっちの優先度が高いんだよ。ちょっと気になってきたぞ)
(いや、まあ、友達がいなくなって寂しかっただけか。気にしなくていい)
「ママも悪いと思ってるから」
ガラティーナが続けた。
声に、申し訳なさが混じった。
「ごめんね、ウリちゃん」
「いいよ」
ウリエルは口に粥を運んだ。
「先に食べる」
食後、ウリエルは縁側に一人で座って、本腰を入れて考えた。
学校。
行くなら、行く。
でも先に確認することがある。
寄宿か通学か。学費の計算。入学試験の内容。魔力の要件。一斉測定があるかどうか。
こういうことは、直接聞きに行った方が早い。
立ち上がって、衣の裾を整えた。
それから、気づいた。
ままは連れて行けない。
連れて行きたくないわけじゃない。
ただ、ガラティーナが情報収集についてきた場合、二つの可能性がある。
一、全て順調。母と子、仲良く話を聞いて帰宅。
二、道中で何かが起きる。情報は一欠片も集まらず、代わりに新しい厄介事が山積みになる。
どっちが高いかなんて、考えるまでもなかった。
「ママ」
居間に戻ると、ガラティーナが衣類を整理しているところだった。
「ちょっと外を回ってくる」
「いいよ」
顔を上げた。
「お菓子持っていくぅ?」
「いらない」
「お腹空いたら何か買うのよぉ」
「わかってる」
「道に気をつけて——」
「わかった、ママ」
ウリエルは上着を羽織って、扉を押し開けた。
町は、普段歩く範囲より少し広く感じた。
ウリエルは大通りをゆっくりと歩きながら、人通りの一番多い角に目を付けた。
雑貨を売っているおじいさんに声をかけて、世間話から始め、話の流れを子供の進学へとさりげなく誘導した。
おじいさんは話好きで、麻紐を整えながら、あれこれと語ってくれた。
お茶一杯分の時間で、必要な情報は大体揃った。
今は国全体の学校が、ほぼ全て寄宿制になっているらしい。
学院の拡張に伴い、魔力修練の進度を統一管理するために寄宿制に切り替えたとのことだった。
「つまり」
ウリエルは考え込んだ。
(時代が悪かったな)
(でも寄宿か。ママは大丈夫か?)
沈黙した。
ガラティーナが一人で居間に座って、散らかった物をぼんやり眺めている姿が浮かんだ。
(……忙しくしてた方がいいだろ。忙しい方が)
おじいさんに礼を言って、立ち去ろうとした時——前の方で、何か音がした。
ウリエルは顔を上げた。
街道沿いの空き地。
一人の少年が、後ろ手に組んで、見下ろすように立っていた。
周囲と比べて少なくとも二ランク上の仕立ての衣服を着ていた。
その後ろに、同じくらいの年頃の者が四、五人、半円を作っていた。
囲まれているのは、一回り小さな子供だった。
俯いて、肩を縮めて、何かをぎゅっと握りしめていた。
ウリエルの視線が、その集団の衣服の生地と紋様の上でしばらく止まった。
(貴族か)
次に、囲まれている子供を見た。
服は古いが、洗ってあった。
それ以外に目立つものは、なかった。
ウリエルは歩みを続けた。
(俺の問題じゃない。行こう。もしかしたら将来同じ学院になるかもしれないし、余計な口を出すと後で気まずい)
五歩、歩いた。
止まった。
(……)
(あの子、ルミナたちと同じくらいの歳だな)
踵を返した。
両手をポケットに突っ込んで、その集団の後ろへ向かって真っ直ぐ歩いた。
「この通り」
ウリエルは人だかりの端に立って、何でもなさそうに言った。
「わりと広いよな」
貴族の少年が振り返って、一瞥した。
「は?」
「だから、通してほしいんだけど」
ウリエルは彼に視線を固定した。
至極当然の顔で。
「そんなに人が固まってると、俺が通れない」
取り巻きの一人が声を上げた。
人を見下すような粘ついた口調だった。
「こっちが誰だか知って言ってんの? 引っ込んでろよ」
「知らない」
ウリエルは言った。
「別に知りたくもないし」
集団の中で、誰かが息を呑んだ。
貴族の少年の顔色が変わった。
「やんのか?」
「ないよ」
ウリエルは答えた。
「解散してくれれば、それでいい」
「……」
「うるさい」
取り巻きの一人が前に出てきた。
手を伸ばして、ウリエルの肩めがけて押してきた。
大した力ではなかった。
人数を頼りにした、試すような押し方だった。
ウリエルは反射的に受け流した。
相手の手の動きに沿わせて、力を前に送り返した。
力を使ったつもりは、なかった。
本当に、なかった。
毎日の鍛錬で使うくらいの力で、むしろ相手が子供だから少し抑えたくらいだった。
でも、その取り巻きは——
飛んだ。
二メートル近く吹き飛んで、通り沿いの荷台にがっちりとぶつかった。
荷台ごと、ひっくり返った。
周囲が、一秒間、完全に凍った。
貴族の少年がひっくり返った荷台を見た。
それからウリエルを見た。
口が動いたが、声が出なかった。
周囲からいっせいに息を呑む音がした。
ウリエルはその場に立ったまま、自分の手を見下ろした。
それから四方を見回した。
(……)
(えっ、何事? まさかどっかの達人が俺を助けてくれたのか?)
取り巻きたちが互いに顔を見合わせた。
彼らも所詮は子供だ。
貴族の少年に引っ付いていれば安心、というだけで、自分がいじめられたくなかっただけだ。
この状況を見て、最初の一人が後ずさりを始めた。
そのまま、蜘蛛の子を散らすように全員が逃げた。
荷台に突っ込んだ取り巻きも、痛みをこらえて這い上がると、泣きべそをかきながら一目散に逃げ出した。その逃げ足の速さたるや、さっき荷台がひっくり返った勢いよりもよほど見事なものだった。
貴族の少年が最後に残った。
逃げる前にウリエルをちらと見た。
ウリエルは追いかけなかった。
振り返って、囲まれていた子供を見た。
その子はじっとこちらを見ていた。
口が動いた。
「ありがとう」と言ったように見えた。
それからこちらも一目散に走り去った。
ウリエルが何か言おうとした時には、もういなかった。
荷台の主が立ち上がって、怒鳴り始めていた。
周囲のざわめきが一気に戻ってきた。
ウリエルはふと周りを見渡して、はっとした。
(まずい、このままじゃ弁償させられる)
ウリエルも逃げた。
しばらく走ってから振り返った。
子供はついてきていなかった。
達人の姿も、どこにも見当たらなかった。
(……やっぱり、この世界、いい人の方が多いんだな)
ウリエルは首をすくめて、歩き続けた。
今日集めた情報は、十分だった。
(つまり、寄宿になるわけか)
理屈の上では、学校に行けばままの毎日の縁談トークから逃げられる。
まだ結婚なんて遠すぎる話だが。
そう考えた次の瞬間に浮かんだのは——
ガラティーナが一人で夕食を適当に済ませる姿だった。
「……はあ」
ウリエルは小さく舌打ちして、家に向けて歩き出した。
【第十二話・終】
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