第百十三話:売り言葉に買い言葉
最後のその一言は、完全にロリコンの発言である。
断言しよう。十七歳を「老けてる」と言える男は、この世界にただ一人しかいない。
ウリエルはそっと体を沈め、鼻から上だけを湯面に出した。
沼地の端でじっと獲物を待つワニのように。
さっき立ち上がった時の水音は大きくもなく小さくもなく、対岸の人影が少し動いたように見えたが、振り向かなかった。
よし。まだチャンスはある。
ウリエルは少しずつ岸へと移動し始めた。
まず片手を水面下で静かに動かし、指先で池の縁の出っ張った石を掴んで、水の浮力を借りながら体を横に半メートルずらした。
もう一方の手が続き、同じ動作を繰り返す。
水面はほぼ揺れない。
顎が通った場所にだけ細い波紋が二重に広がったが、半メートルも広がらないうちに温泉自身の湧き上がりに飲み込まれた。
池の縁の石段が目の前にある。
バスタオルが丁寧に畳まれて一番上の段に置いてある。
(あそこまで辿り着けば——)
ゆっくりと体を起こした。
今回は水の落ちる音が小さかった。
問題は、這い上がるその一瞬だけだ。
その瞬間、盛大な水音が避けられなかった。
ポコポコという静かな温泉の中で、これは図書館で椅子を思い切り引きずるのと同じだ。
背後で別の気配がした。
誰かが振り向いた。
ウリエルはバスタオルをサッと体に巻きつけて振り返った。
どこからか吹き込んだ一陣の風が、二人の間に漂う湯気を一角だけ払いのけた。
セラフィーナが体を横に向けてこちらを見ていた。
片手を池の縁に置き、もう一方の腕を胸の前に横に当てて、隠すべき場所をちょうど隠している。
空気がその瞬間に止まった。
屋根で結露した水滴だけが、池に落ちて澄んだ音を立てた。
「ぽたり」
一番恐ろしいのは、この突然空気が凍りつく瞬間だ。
死んだ魚の目はまだ完全に起動していなかったが、もうロード中だ。
「ウリエルさん」
セラフィーナの声は全く起伏がなく、残響さえ乗せていた。
「何か違法なことをされていますか?」
今の自分の状況はどう見ても説明しにくい。
バスタオルを巻いたばかりで、しかも池に背を向けたところで現行犯のように呼び止められた。
どこから見ても女湯に忍び込んで捕まった不審者だ。
だが実際は違う。
彼は正々堂々と金貨十二枚を払って貸し切りにした、れっきとした客だ。
頭の中で使える言い訳を全て高速で検索した。
フロントの子に責任を押し付ける? ダメだ、品がない。
自分も被害者だと言う? 言い訳にしか聞こえない。
今すぐ逃げる? それこそ本当に不法侵入になる。
「違法じゃないです。金貨十二枚払って貸し切りにしました。フロントの子が受け取ってます。信じないなら呼んできて確認してください」
セラフィーナはしばらく彼を見つめ、それから軽く手を振った。
意味は明らかだ。
ウリエルは素直に向き直り、背後で盛大な水音がするのを聞き、「もういいです」と言われてから振り返ると、セラフィーナもバスタオルを巻き終わっていた。
彼女は引き戸のそばに歩いて行き、戸枠に掛かった細い紐を引いた。
慣れた手つきだった。
遠くでかすかな鈴の音がした。
たぶんフロントを呼ぶ仕組みだろう。
引き戸が開いた時のアルバイト店員の顔には、なんとも複雑な表情が浮かんでいた。
「あの……セラフィーナ様、お二人は……その……他に何かご入用でしょうか?」
セラフィーナが口を開いた。
「この方は貸し切りにされましたか?」
「はい、このお客様がいらした時に貸し切りとおっしゃったので、そのまま手続きをいたしました」
女の子は話すにつれて早口になり、声が小さくなっていった。
エプロンのポケットの中で、指が今にも結び目になりそうなくらい絡まっている。
「何かございましたか? 私は何も聞いていませんし、お二人はどうぞ続けて——」
「『続けて』って何ですか。貸し切りにしたのに、なんで彼女が入ってくるんですか」
ウリエルは呆れてツッコミを入れ、思わず声のトーンも上がった。
「え? お二人はカップルじゃないんですか?」
女の子がぽかんとウリエルを見た。
三人同時に沈黙した。
セラフィーナがウリエルに言った。
「私はここの常連です。たぶん、私がいつも出る時に払うからだと思います」
「申し訳ございません!」
女の子は二人に向かって九十度近いお辞儀をした。
「私てっきり、このお客様が貸し切りにされたのはセラフィーナ様と一緒に——だって以前彼氏がいるとおっしゃっていたし、学院でも噂に——」
ウリエルは手を上げて制止した。
もう喋らなくていい。
言えば言うほど収拾がつかなくなる。
今回の勘違いの全容はだいたい組み立てられた。
セラフィーナはこの店の常連で「後払い」の習慣がある。
アルバイトの子も第一学院の生徒で、セラフィーナとウリエルの「カップル関係」を知っている——別れたことは公表されていないし、学院を離れればそういう情報は広まらない。
だから彼が貸し切りを申し込んだ瞬間、この子は自動的に「彼氏が先に場を用意して彼女の到着を待つロマンチックな展開」を脳内補完した。
事情は明らかだ。
すれ違い。偶然。
学費を稼ぐためにアルバイトをしている女子学生が勝手に描いたラブシーンだ。
セラフィーナが言った。
「割り勘にしましょう」
アルバイトの子は赤い顔で謝って、そそくさと退場した。
話がついたのを見て、セラフィーナはまた池の縁まで歩いてきた。
バスタオルを外して畳んで石段に置き、再び温泉に浸かって、背中を池の壁に預けた。
まだ浸かり続けるつもりらしい。
ウリエルは岸でバスタオルを巻いたまま立っていた。
髪の毛からまだ水が滴り落ちている。
表情は困惑と警戒の中間あたりにある。
(割り勘にすれば済む問題か? なんで帰らないんだ。なんでまだ浸かってるんだ。俺が先に出るのを待ってるのか? いや、それはあいつらしくない)
彼は裏を読み始めた。
一、セラフィーナは王都に戻ってからまたあの百合執着系の姉に目をつけられて、また盾として使う気だ。
だがここは聖都だ。王都じゃない。
エステラはいない。
可能性は低い。
二、家には別れを報告していなくて、今あのアルバイトの子の手前、カップルのキャラを維持し続ける必要がある。
前彼氏と割り勘で温泉という情報が学院に漏れたら、確かに聞こえが悪い。
三、そもそも何も考えていない。
ただ途中で邪魔されて腹が立つから最後まで浸かりたいだけだ。
どのケースにしても、先に口を開いたのは向こうだ。「割り勘にしましょう」と。
ウリエルは何となく居心地が悪かった。
向こうが先に言ったのに、今さら「俺は帰る」と言うのも変だ。
割り勘にしたのにそれはどう精算するんだ。
彼女はこっちの反応を深読みしないか。
ウリエルは黙ってバスタオルを腰から外し、適当に放り投げた。
そして上がった時とは全く違う素早い動作で、再び温泉にするりと滑り込んだ。
三日月型の池の自分の側に背をもたせて、対岸のセラフィーナと湯気と生温かい水を挟んで向かい合い、また平和共存の形に戻った。
「トリドには何しに来たんですか」
セラフィーナの声が湯気の向こうから漂ってきた。
「勇者への道の資格はないはずですよね」
「勇者への道? 観光イベントのこと?」
ウリエルは後頭部を池壁に預けて、湯気がかった空を見上げた。
「俺はただの観光です。資格がないなら——連れて行ってくれませんか」
セラフィーナが黙った。
その短い沈黙の中で、ウリエルは湯気を貫いて自分に照準を合わせてくる死んだ魚の目の視線をはっきりと感じた。
「ヒモ力が高いですね」
「ありがとうございます」
セラフィーナは「ヒモ」の話題をそれ以上掘り下げなかった。
「勇者への道は王国の各学院が共同で主催する選抜活動です。各学院が優秀な学生を推薦して、指定の会場に入った後、魔法陣が個人の実力を測定して、測定結果に応じて実力が近い英霊を相棒として召喚します」
ウリエルは片眉を上げた。
「前に雨林で採ってた材料、作ってた薬剤——それのためだったんですね」
「覚えていたんですね」
セラフィーナの口調はほんのわずかに意外そうだったが、ウリエルはもう散々やり取りをしてきたから分かる。
こういう時は褒め言葉じゃない。
さりげなく刃を刺してくるやつだ。
聞こえなかったふりをした。
「選手と英霊がペアを組んで戦い、最後に残った組が優勝者です」
セラフィーナが続けた。
「って、これ聖杯戦争じゃないですか」
ウリエルが独り言を漏らし、すぐに問題に気がついた。
「でも不公平じゃないですか。強い選手が高ランクの英霊を引いたら、二人で無双して終わりじゃないですか。雑魚を散らすように10人抜きできるでしょう」
「その通りです。最初の数回は弱い組が対策を考えました。内々に同盟を組んで、多対一の戦術で最強の組を包囲するやり方です。でも回を重ねるにつれて選手間の実力差が広がって、数で押す戦略も完全に通じなくなりました」
セラフィーナが続けた。
「だから今年から制度が変わりました。召喚される英霊の実力が自分に近いのは同じです。でも選手同士で組んで戦うのではなく、選手が自分の英霊と戦います。自分で召喚した英霊と、自分で戦う」
ウリエルは合点がいった。
召喚された存在の実力が自分と近いなら、毎試合が一対一の真剣勝負だ。
頼れる味方もいない、いじれる雑魚もいない。
問われるのは総合力だ。
戦闘技術、咄嗟の判断力、自分の能力への理解の深さ。
なかなかよく考えられた改正だ。
「じゃあ試合を見に行って、みんな応援しちゃいますね」
そう言ってウリエルは目を閉じた。
しばらくの間、長い沈黙が続いた。
お互い何も言わず、ただ温泉のポコポコという音と、時折どちらかが手を伸ばして飲み物を取る水音だけが響いた。
三日月型の池はそこそこの広さで、二人がそれぞれ反対側に陣取ると、互いの顔がちょうど湯気の薄いヴェールの向こう側に隠れた。
奇妙な、それでいてこの街と同じくらい見知らぬ、静けさだった。
そのうちウリエルは頭がのぼせてきたのを感じた。
浸かりすぎた。
彼は池の壁に手をついて立ち上がり、今度はセラフィーナの反応を確認しなかった。
放り投げたバスタオルを拾って腰に巻き、湯気の向こうへ横向きに声をかけた。
「じゃあ半額、後で口座に振り込んでください」
「はい」
引き戸を開けて、片足をすでに脱衣所に踏み込んだところで、背後からもう一言が流れてきた。
「ウリエルさん、紳士的ですね。正人君子すぎて、逆に趣味を疑われますよ」
ウリエルは敷居の上で足を止めた。
戸枠を掴んで、ちらりと池の中のセラフィーナを振り向いた。
少女はまだ池壁にもたれていて、湯気が周りに漂って、表情はよく見えない。
以前なら、こういう一言を聞いても呆れてスルーし、そのまま退場するしかなかった。
今は違う。
レンタル彼氏の契約はもう終わっている。
顧客関係を維持する必要もない。
イメージ管理を考える必要もない。
俺は自由だ。
温泉に浸かりながらまだ言葉のナイフを刺してくる元依頼人に対して、今の自分はどう返すべきか。
セラフィーナはたぶん、以前と同じように呆れた顔をして黙って退場すると思っているだろう。
違う。
「帰ってください。あなた、老けてますよ」
「はははははははは!」
言い切ったまま振り返りもせずに引き戸を抜け、笑い声だけを浴場の廊下に残した。
廊下に響いて、やけに威勢良く聞こえた。
まさに『高笑いして立ち去る』の体現である。
温泉池の中で、セラフィーナは振り向いた。
表情に珍しくはっきりとした間が生まれた。
首をわずかに傾け、何が何だか分からないという顔をした。
(おばさん? 誰がおばさん? 私が? 十七歳が? あいつ今、私のこと老けてるって言ったか?)
「……あの人、何を言っているんですか」
【第百十三話・終】
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