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第百十二話:冤家路窄

冤家路窄——狭い世の中、出会うべきではない者同士が、なぜか巡り合う。

聖都トリドは、黒山の人だかりだ。


王都のような戦争のために造られた灰色の城壁とは違い、トリドの城壁は色鮮やかな聖画で覆われている。


陽光が降り注ぎ、街全体が虹に包まれているようだ。


城門は大きく開かれ、人の流れと馬車が自由に往来し、両側には銀白の鎧を身に着けた教皇護衛隊の兵士が一人ずつ立ち、時折通りすがりの顔見知りに頷いて挨拶している。


来て正解だった。


ウリエルは冷やした果汁を売る屋台の横に立っていた。


屋台の主人は何か魔法を使えるらしく、作った果汁に手をかざすと、たちまちキンキンに冷える。


これが異世界の正しい姿だ。


見知らぬ街、見知らぬ通り、見知らぬ空気の匂い。


自由。完全な、純粋な、一点の混じり気もない自由。


彼は普通の宿屋を見つけて入り、カウンター越しの主人にシングルルームはあるかと聞いた。


主人が宿帳をめくり、観光シーズンで中級の部屋しか残っていないと言った。一日金貨四枚。




ウリエルの眉がピクッと動いた。


この値段は王都ではそこそこ良い宿に泊まれる額だ。


観光シーズンの物価は強盗も同然だ。


だが思い直した。


せっかく来たんだ。ケチケチしていたら王都で受けた精神的ダメージに申し訳が立たない。


彼はポンと三日分の宿代を払い、階段を上がって自分の部屋に入った。



部屋に入るなり、荷物をベッドに放り投げ、靴を蹴飛ばして脱ぎ、そのままドスンと倒れ込んで五分間横になった。


それからガバッと飛び起きた。


寝てどうする、まだ夕方じゃないか。初日の夜から宿に引きこもるのは勿体無すぎる。




聖都大聖堂はトリドのど真ん中に鎮座している。


ウリエルが遠くにそのシルエットを見つけた時、自然と歩みが遅くなった。


この建築物の規模は王都で見たどんな宮殿とも違う。


何十メートルもの巨大なステンドグラスの窓、大小さまざまなドームが交互に並んでいる。


大聖堂の前の広場には薄灰色の石板が敷かれ、石板には無数の名前が刻まれていた。


数メートルおきに誰かが膝をついてその刻み跡を指で撫でている。


広場の両側には教皇護衛隊が一列に並び、整然とした足取りで往復しながら巡回している。


観光客と信者が彼らの前を通りすぎても、まばたき一つしない。


ウリエルは広場の周りをぶらぶらしながら、通りすがりの人々の会話の断片を拾い聞きした。


子供を抱えた女が連れに話しかけている。


「子供が大きくなったら、絶対に勇者への道に参加させるわ。一番を取れば教皇直々に謁見できるんですって」


隣で商人風の男が口を挟んだ。


去年の一番はたしか北方から来た冒険者だったとかで、教皇が彼を次の勇者の有力候補と見込んでいるとも言った。


ウリエルは聞き終えて、ふと疑問が湧いた。


(国王と教皇、どっちが偉いんだろう。帰ったら調べないと)



長旅の疲れに夜の散策が加わり、宿に戻った時にはウリエルは睡魔と戦っていた。


上着を椅子の背もたれに掛け、さっと洗顔を済ませてベッドに倒れ込んだ。


うとうとしながら眠りに落ちる寸前、脳内で勝手に明日の段取りがデタラメに組み上がり始めた。


スイカを食べる、スペアリブを食べる、栗を食べる、魔女の名前を三回呼んではいけない。




翌朝、ウリエルはパッと目を開けて周囲を見回した。


ベッドの足元に布団を畳んで起床を待っている人はいない。


書き机の横に銀髪の女が座って本を読んでいるわけでもない。


部屋のドアはしっかり閉まり、ドアの隙間から廊下の灯りが漏れてくることも、朝食の香りが流れてくることもない。


魔力の波動を確認した。


転送門の残留痕跡なし。輝光級エーテル反応の残光もなし。


母さんは今回本当についてこなかった。


ここには自分一人しかいない。


最高だ。


ウリエルは布団を蹴り飛ばし、上機嫌で鼻歌を歌いながら身支度を始めた。


一人で温泉!


隣の浴槽から母さんが突然顔を出して「お湯は熱くない? ママが背中流してあげる」と言ってくる心配もない!




ウリエルはガイドブックに載っていたルートに沿って進んだが、名の通った温泉は軒並み同じ小さな木の札を掲げていた。


チョークで書かれた文字。


「満員、受付停止中」


字体は様々だが意味は全て同じだ。


来るな、空きはない。


一軒の看板の下から中を覗いてみると、フロントには長蛇の列ができていて、予約していたのにまだ待たされると店員に大声で詰め寄っている客が何人かいた。


ウリエルは空気を読んでその場を退き、さらに奥まった路地へと潜っていった。


作戦は明確だ。大きい店がダメなら小さい店を探す。


路地裏に知る人ぞ知る掘り出し物があるのと同じで、目立たない温泉の方が体験が良い場合もある。


曲がりくねった路地を歩いていくと、間口の極めて小さな温泉屋を見つけた。


看板は手書きの木の板で、入り口の鴨居に掛けてある。


月が温泉に浸かっているイラストと、両端には、どこからどう見ても『シナモロール』にしか見えない、大きな耳の白い生き物が二匹描かれている。


画力は大したことないが、可愛さは本物だ。


内装は清潔感があり、入り口に鉢植えが二つ並んでいる。


悪くなさそうだ。




ドアを押して入ると、ドアの風鈴がりんりんと鳴った。


フロントにはポニーテールの小柄な女の子が立っていた。


十六、七歳ぐらいで、この店の紺色の作業エプロンを身に着けている。


彼女の前には開いた教科書と書き込みでびっしりの下書きが広げられていて、いかにも「休暇中にアルバイトをしている学生」といった雰囲気だった。


風鈴の音に顔を上げた彼女は、反射的に「いらっしゃいませ」と言いかけて声が詰まった。


ウリエルの顔を少しの間ぼんやりと見つめてから、その困惑をすっと飲み込み、営業スマイルを貼り直した。


ウリエルは自分自身に目をやった。


普通の上着、普通のシャツ、普通の黒髪茶色の瞳の背景キャラ顔。


何を見て固まったんだ。


(まさか、俺がイケメンすぎたか?)


深く考えるのはやめにした。


フロントに歩み寄って直接切り出す。


「貸し切りはできますか?」


女の子が瞬きした。


「貸し切りですか?」


「温泉を一人で独占するやつです」


ウリエルの考えはシンプルだ。


今の財力なら、この規模の温泉を貸し切るぐらい問題ない。


知らないおじさんたちと芋洗い状態で浸かるのはごめんだ。


女の子は手元の記録帳をめくり、すぐに値段を提示した。


「貸し切りは金貨十二枚になります」


ウリエルは口をへの字に曲げた。


十二金貨。


昨夜の中級宿三泊分より高い。


今の彼には確かに不足はないが、今回の遠出に持ってきたのは千金貨に満たない小遣いだけだ。


これは正真正銘のへそくりだ。


「何かサービスはありますか?」


まず確認しておこうと思った。


女の子はとても手際よく説明した。


「貸し切りには専用の休憩室が一室ついています。昼食か夕食、どちらかお選びいただけます。ご要望に合わせて休憩室にお届けすることも可能です。貸し切りは夜八時まで、その間は他のお客様は入りません。専用の温泉浴槽もありますので、プライバシーについてはご安心ください」




ああ、温泉旅館方式か。


浴槽だけ貸して終わりじゃなく、休憩室と一食つきで十二金貨なら、まあ許容範囲だ。


女の子はテキパキとウリエルの会計を処理し、領収書を発行し、休憩室の鍵と清潔なバスタオルを手渡し、カウンターの下から真新しい男性用浴衣を取り出してカウンターに置いた。


「お飲み物は事前にご注文いただけますか? アイスミルク、氷水、地元産の果実酒がございます」


「全部ください」


ウリエルは鍵とタオルを受け取り、少し考えてから付け足した。


「ミルクはさらに二杯」


用意された浴衣に着替えるのは後回しにして、服を脱ぎ捨てると、ウリエルは脱衣所の反対側にある温泉浴槽への引き戸を開けた。


温泉浴槽は広くはないが、デザインが面白い。


池の形が三日月形だった。


バスタオルを横の棚に掛け、入水の準備をして、まず足で温度を確かめた。


湯加減は絶妙で、足を差し込んだ瞬間、温かさが足から膝、腿へとじわじわと上ってきた。


ウリエルは長く息を吐いて、体をするりと湯の中に滑り込ませ、胸より上だけを湯面に出した。



これが人生というものだ。


ウリエルが静かに浸かっていると、女の子がそっと引き戸を開けてトレイを持って入ってきた。


飲み物を数杯、手が届く位置に池の縁に並べ、一言も言わずに引き下がった。




引き戸がそっと閉まる音がした。


ウリエルは手を伸ばしてミルクのカップを取り、一口飲んだ。


ひんやりとした甘い乳の味と温泉の温もりが、口の中と肌の上で同時に広がる。


彼は満足げなため息を漏らした。


(最高すぎる。このまま茹で上がっても構わない)


ウリエルが久しぶりの静寂を堪能していると、足音が聞こえた。


湿った石板の上を素足で歩く、細かい音。


それから、水音。

誰かが湯に入ってきた。


ウリエルは目を開け、眉を寄せた。


ミルクのカップを置き、声を潜めて呟いた。


「何だ、貸し切りじゃなかったのか。詐欺か」


温泉の湯気は濃くも薄くもなく、池の向こう端の細部をちょうどいい具合に薄いヴェールで包んでいた。


かろうじて人影が見えるだけだ。


相手は池に他の人間がいることには全く気づいていないようだった。


たぶんウリエルが顔の半分まで湯に沈めていて、湯面からは黒い小さな塊のようにしか見えず、池の縁の石の影と区別がつかないせいだろう。



ウリエルは立ち上がってフロントに状況を確認しに行こうとした。


ゆっくりと体を起こし、湯気を通して何気なく対岸へ目を向けた。




女だった。


茶色の髪だった。


湯気の向こうに見えるその色は、セラフィーナの髪の色と同じだった。


髪型も同じに見えた。


(マジかよ)




【第百十二話・終】

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