第百四話:主人公専用イベント
数時間前、十倍速でウリエルを追いかけた歴戦の円頭虎が、今は母さんの膝でお腹を見せている。
手を出せば、爪が弾ける。母さんが握る。まるで幼稚園の先生だ。
ウリエルはもう一杯スープをすくって飲み、首を傾けてみかんちゃんを一瞥した。
猫はガラティーナの膝の上に丸まって前足を舐めている。
ピンク色の舌が出たり引っ込んだりして、さっき生きた人間の手に穴を開けそうになったことに全く自覚がない。
「母さん、これどうやって懐かせたの?」
ウリエルはその丸々とした頭を指さし、興味津々に尋ねた。
「残高ペイ箱の時みたいに、一回ボコボコにしたの?」
ガラティーナは首を傾げた。
頭のてっぺんで一本の毛が突然跳ね上がった。
ウリエルの視線も突然その毛に吸い寄せられた。
(うわ、アホ毛)
「違うわよぉ」
ガラティーナは猫を懐に寄せた。
みかんちゃんは協力的に身を翻してお腹を見せて撫でさせた。
「ママがこの子を拾った時ねぇ、他の魔獣と戦った直後で、重傷を負って道端に倒れて可哀想だったの。それでママが治療してあげて、ご飯もあげたら、この子が勝手に懐いてついてきたのよ。すーっごく簡単だったわぁ」
ウリエルは頷いた。
路上で重傷の魔獣に出会い、救いの手を差し伸べ、恩義を感じた魔獣が自ら押し掛けてくる。実に王道で突っ込みどころのない魔獣テイムのプロセスだ。
実行者が輝光級の勇者であることを考えれば、このプロセスは素朴とすら言える。
「でもね、一つ良くないことがあるの」
ガラティーナの口調に少し困惑が滲んだ。
人差し指でみかんちゃんの鼻先を突いた。
「普通の冒険者はまだこの子を怖がるみたい。たまに度胸のある人がこの子と遊んでくれるんだけど、この子が嬉しくなっちゃうと、にゃんにゃんパンチで軽く叩いちゃって——それで人が飛んでっちゃうの」
ウリエルの頭の中に一つの映像が浮かんだ。
嬉々として猫を撫でに近寄った冒険者が、次の瞬間には投石機で発射されたように木々の梢を越えて飛び、岩壁に埋まって掘り出せなくなる。
この瞬間、ウリエルの顔面は完全に崩壊した。
「でもウリちゃん安心してね」
ガラティーナは彼の心を読んだように、口調が軽快になった。
「みかんちゃんは今賢くなって、弱すぎる人は叩かないようになったの。ちゃんと軽く叩くことも覚えたから」
ウリエルは「軽く叩かれる」ところだった自分の手を見下ろし、表情は苦笑と絶望の中間にあった。
(じゃあ俺は喜ぶべきなのか? こいつさっき俺を叩こうとしたんだぞ。この基準だと、俺って一発くらいじゃ死なない認定されたってこと?)
みかんちゃんは爪を舐める動作を止めて、丸い目で彼を一瞥し、極めて適当に「にゃあ」と一声鳴いた。
その声は決して大きくはなかったが、ガランとした洞窟の広間ではやけに澄んで響いた。
すぐに、遠くのテントから軽微な布の擦れる音が聞こえ、テント越しにセラフィーナの声が聞こえてきた。
「ウリエルさん……何か物音が聞こえませんでした?」
ウリエルはびくっと震えて、最低限まで抑えた声、ほぼ口の形だけでガラティーナに高速で囁いた。
「音を立てないで」
それからコホンと咳払いをした。
「聞こえませんよ! 夢でも見たんじゃないですか? 僕はずっと外に座ってますけど、何の音もありません」
いかにも見張り中に声をかけられた人間の、ごく自然な反応を装った。
言い終わった瞬間、ウリエルの背中に冷や汗が流れた。
セラフィーナのあの極めて厳密な性格なら、次の瞬間にテントのファスナーを開けて実地調査に出てくるかもしれない。
彼は慌てて振り返り、母さんに早く隠れるよう指示しようとした。
石の上には誰もいなかった。
みかんちゃんもいない。
母さんとあの円頭虎はまるで煙のように消え去り、猫の毛一本すら残っていなかった。
彼女がさっき座っていた石の表面の温度すら冷めていて、まるで最初から誰も来なかったようだった。
ウリエルは振り返った姿勢のまま、その場で呆然とした。
(……天然ボケって言うけど、こういう時は誰よりも早く隠れるんだな)
テントの方向から追及の声は聞こえなかった。
セラフィーナは寝返りを打ってまた眠ったか、単純に「夢で聞き間違えた」という説明を受け入れたのだろう。
洞窟のホールは再び静かになった。
ウリエルがほっと息をついた瞬間、耳元に突然温かい吐息が伝わり、極めて微細な囁き声が伴った。
「ウリちゃん、帰る?」
ガラティーナの声が耳元で直接響いた。
「ママが今連れて帰ってあげて、明日の朝また時間通りにここに送ってあげる。お家で柔らかいベッドで寝た方がいいでしょ? ここじゃよく眠れないもの」
ウリエルは空気に向かって手を振った。
「いらない」
「じゃあママが寝かしつけてあげようか?」
その声はまた反対側の耳に飛んできた。
諦めの悪さは保険の営業並みだが、相談するような口調だった。
「こういう場所で眠れないと、明日元気が出ないわよ。ウリちゃん、ママの寝る前のお話、久しぶりに聞きたくない? ママがここで寝かしつけてあげようか?」
ウリエルは宙に向かってバタバタと手を振り始めた。
舞う頻度と幅が徐々に大きくなり、見えない蚊を追い払う交通整理のおじさんのようだった。
「早く帰ってよ。明日には帰るから。おやすみ」
空気が二秒沈黙した。
子供がここまで言ったら、母親も素直に従うしかなかった。
その声が急に柔らかくなって、少しだけ、でもとても安心した笑みが滲んだ。
「分かったわぁ。ウリちゃん、おやすみなさいぃ」
半空に再び金色の光を放つ楕円形の扉が浮かび上がった。
光の扉が無音で開いて、また半秒以内に急速に収縮、閉鎖し、ぽんっという音とともに消えた。
洞窟のホールは完全に静かになった。
ウリエルは石のベンチに座り直し、跳ねる炎を見つめてしばらくぼんやりした。
頭の中でさっきの会話を再生して、激しく太ももを叩いた。
母さんにいつこの円頭虎を手なずけたのか聞くのを忘れた。
みかんちゃんのあの熟練した様子を見ると、母さんが昔聖剣を持って魔王を斬りまくっていた勇者時代まで遡るんだろう。
彼はあくびをして、立ち上がって二つ目のテントの前に歩いて行った。
幕を開けて中に潜り込むと、寝袋はすでに敷いてあって、防湿マットは平らに敷かれ、太陽で乾かした清潔な匂いが漂っていた。
彼は靴を蹴り飛ばして、頭から寝袋に突っ込み、心地よく横になった。
両手を頭の後ろに枕にして、テントの天井の帆布を見つめてぼんやりした。
この一日の映像が走馬灯のように頭の中で再生された。
まず木の洞に潜って逃げて、崖の上で綱渡りをやって、今は地下に野宿している。
どの局面も予想外で、どの予想外も最後には不思議と無事に着地した。
結構面白かった。
本当に冒険者をやっているという実感があった。
やっぱりこれが異世界のあるべき姿だ。
学校に通い始めた途端にテロに巻き込まれるような馬鹿げた展開があるわけない。
彼は寝袋の中で寝返りを打って、目を閉じた。
頭の中にさっきの冒険とは全く無関係な、別の次元の問題が浮かんだ。
初めて同年代の美少女と、若い男女二人きりで荒野で遭難したというのに——二つのテントで別々に、外で一晩を過ごすなんて。
焚き火の傍らで手を繋いで心情を吐露するとか、テント越しに心の内を語り合う夜話とか、最も基本的なシーンすらなかった。
ラブコメに出てくるような展開は何一つなかった。
二人の会話内容は採集素材、錬金原理、魔獣等級、見張り当番、虫除け粉の撒き方で占められていた。
ウリエルは重いため息をついて、目を閉じて、自分に最終結論を言い渡した。
開き直った心境の中に、少しの自嘲と。
「やっぱり俺は主人公じゃないんだな。だって俺にはチートもないし、超強い実力もないし」
特にみかんちゃんのことを思い出すと、この結論はいよいよ決定的なものになった。
(俺には魔獣を手なずける機会すらない——)
ウリエルは悲しみと理不尽さのあまり、苦虫を噛み潰したような顔になった。
よく考えれば。
母さんこそが真の異世界主人公だ。
若い頃は勇者をやって、道中で魔獣を拾って仲間にした。
その後は『追放系』のシナリオを経験した。
さらにその後自分を拾って、子育て生活を始めた。
この経歴、どう見てもなろう系主人公のド直球テンプレじゃないか。
そこまで考えて、彼は寝返りを打って、深い眠りに落ちた。
【第百四話・終】
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