第百話:不気味なキャンプ
テントは二つ。どちらも空っぽ。
寝袋はきれいに丸められ、私物ひとつ残っていない。
まるで、最初からそこに用意されていたかのように。
二人は用心深く岩の裂け目に足を踏み入れた。
ウリエルはセラフィーナの後ろをついていき、肩が岩壁を擦るたびに、上着がざりざりと音を立てた。
わずかな天光が消えると同時に、内部は完全な暗闇に包まれた。
暗闇が四方八方から圧し迫り、目を開けていても閉じていても、何も変わらない。
セラフィーナはウエストポーチから手のひらサイズのランタンを取り出した。
マナをほんの少し注ぎ込むと、ランタンは柔らかな暖色の光輪を放ち、四、五メートル先まで照らし出した。
彼女はランタンをベルトの金具に掛け、そのまま先頭を歩き続けた。
裂け目の内部は入り口こそ極めて狭く、人一人がやっと通れるほどだったが、数十歩進むと急に視界が開けた。
幅は二、三人が並んで歩けるくらいに広がっている。
ウリエルはセラフィーナの右斜め後方、半歩だけ下がった位置を維持しながら、彼女の肩越しに前を見渡した。
ランタンの光が両側の岩壁を照らすと、壁面にはところどころ湿った反射光が閃き、廃坑道を思わせる人工的な掘削跡がうっすらと残っていた。
辺りは異常なほど静かで、よくいるはずの洞窟生物の気配すら、何一つない。
ゆるやかなカーブを曲がったところで、セラフィーナがふいに立ち止まった。
ウリエルは危うく後頭部に突っ込みそうになったが、ぎりぎりで踏みとどまった。
眼前に、鮮やかな光の煌めき。
岩壁に鉱石の結晶が一面に嵌め込まれていた。
密集して並んだ結晶たちにランタンの微光が当たると、淡い青と銀白が入り混じった冷たい輝きが乱反射した。
ランタンの炎がわずかに揺れるたびに、結晶も呼応するように明滅し、まるで岩壁に埋め込まれた小さな星空のようだった。
セラフィーナはベルトからランタンを外し、振り返ってウリエルの前に差し出した。
ウリエルは訳も分からないままランタンの柄を受け取った。
「何で俺に?」
セラフィーナは答えず、ランタンを彼の手に押し付けて、まっすぐ結晶の方へ向かった。
岩壁の前にしゃがみ込み、ウエストポーチから小刀と空きビンを取り出す。
一つ目の結晶を慎重に外しながら、彼女は口を開いた。
「ウリエルさん、これが何か分かりますか?」
ウリエルはランタンを持って二歩近づき、結晶をじっと見た。
「採集するやつ?」
「違います」
刃先を結晶と岩壁の隙間に差し込んで、そっと一押し。親指大の結晶が綺麗に剥がれ落ちた。
「採集リストには入っていません。出会い自体が運任せの貴重なものです。錬金の工程でごく微量の粉末を加えると、薬液の純度を格段に高められる。上級薬剤を作る時には、絶対に外せない材料です」
「へぇ」
ウリエルはランタンを反対の手に持ち替え、目を輝かせた。
「じゃあこれ全部掘り出したら、いくらになる?」
セラフィーナが口にした数字は、王都の大通りに店を一軒丸ごと買えるような額だった。
ウリエルは眉を少し上げたが、それ以上の反応はしなかった。
(残高ペイ箱による金銭感覚の拷問を経てきた今では、これくらいの数字じゃ動じない)
セラフィーナは彼の反応を気に留める様子もなく、取り出した三、四個の小さな結晶をガラスビンに収め、手に付いた石粉を払って、そのまま立ち上がった。
ウリエルはランタンを持ったまま、その場に固まった。
「ちょっと待って。それだけしか掘らないの? もっと取れば?」
「自分で使う分があれば十分です」
セラフィーナの語調はひどく実務的だった。
「全部持って行けばお金にはなりますけど、使わなければただの在庫です。必要な人に残しておきましょう」
言い終えると、彼女はそのまま前に歩き出した。
ウリエルは二歩で追いついて並んだ。
横から彼女の顔を見ると、その目の奥に、ほとんど気づけないほど小さな柔らかさが宿っているのが分かった。
「色々と遠回りしましたけど」
セラフィーナは前を見たまま、ふと口を開いた。
「あなたのおかげでここまで来られた、というのはありますね」
ウリエルは彼女の顔をじっと見た。
「笑ってる」
セラフィーナの足は止まらなかった。
表情も変わらなかった。
ただ口の端のその小さな弧が消えなかった。
静かなままで、そこにあり続けた。
「学院でもいつも笑顔じゃないですか」
彼女は頭をわずかに反対側へ傾けた。
「ウリエルさん、普段は全然——」
「今のは違う」
ウリエルが割り込んだ。語調に迷いはない。
「学院でのあの笑いは営業用です。今のは、本物でしょ」
二秒、空気が止まった。
セラフィーナは振り返ってウリエルを見た。
口の端の弧はそのまま残っている。
ただ、彼女特有のジト目の奥に、好奇とも審査ともつかない光が一層加わっていた。
「そういう曖昧なことを言って、ウリエルさん、もしかして今夜の二人きりに向けて、私を口説こうとしてます?」
ウリエルの表情が固まった。
「ち、違う違う、そういう意味じゃない。ただ初めて見た笑い方だったから、つい——」
「そうですか」
セラフィーナは淡々と続けた。
「実は学院で聞いたことがあって。ウリエルさんの性的指向について、どうやら……」
ウリエルは思いきり目を剥いて、自分の胸をバシッと叩いた。
「デマだ! 完全なデマ! 股間の欲望に脳みそを支配されるような真似は絶対にしない!」
セラフィーナは小さく頷いた。
「では、そのままでいてください」
二人はランタンの光を頼りに探索を続けた。
少し急な下り坂を進むと、裂け目はいったん再び狭くなり、カーブを曲がった先でまた広がった。
二人が足を踏み入れたのは、広い洞窟ホールだった。
これまで通ってきたどこよりも広く、足音が軽い残響を連れてくる。
地面は平らで、瓦礫もほとんどない。空気がよく通り、どこかから微風が吹いてくる気配がした。
ウリエルはランタンを高く掲げて辺りを見渡し、横になれそうな場所を探した。
ホールは広いが、目に入るのは岩肌ばかりだ。
干し草どころか、少し柔らかいコケ地すら見当たらない。
隅に壁際でもたれて夜を明かすのも不可能ではないが、横になれるに越したことはない。
左方向を確認していると、セラフィーナの足が急に止まった。
ウリエルは横を向いた。
「どうした?」
セラフィーナは手を上げ、右前方を指差した。
「あちらを見てください」
ウリエルが指の方向を辿った。
ランタンの照射範囲には限りがあり、二、三十メートル先のホールの奥は、ちょうど光と闇の境界線上に引っかかっていた。
目を細めると、二つのシルエットがうっすら見えた。
円錐形で、人の腰くらいの高さ。並んで寄り添うように立っていて、表面は帆布特有のくすんだ質感をしている。
二張りのテント。
しかも、どこかで見たような型だった。
こんな場所にあるのは、明らかにおかしい。
むしろ少し、怖い。
ウリエルとセラフィーナは一秒間、顔を見合わせた。
セラフィーナが足を踏み出した。
ウリエルが彼女の腕を掴んだ。
「待って」
小声で言う。
「俺が先に確認する。万が一、ヤバい人たちだったら困る」
セラフィーナは頷き、ウリエルの手からランタンを受け取って、数歩前に歩み寄り、彼を照らせる位置に立った。
ウリエルは足音を殺しながら、少しずつテントに近づいた。
五歩手前まで来て、ようやくキャンプ全体の様子が分かった。
まず、簡易の焼き台。
鉄の棒を格子状に組んだものを、四隅を石で底上げして作ったもの。下には燃え尽きた炭の灰が残っていた。
その隣には、石を三つ組んで乗せた鉄鍋があった。
蓋がわずかに斜めになったまま、ちゃんと閉まっていない。
その鍋は、活発に燃えている焚き火の上に掛かっていた。
鍋の横には平たい石が一つ。
高さも形も、まるで誰かが意図して椅子として運んできたように、ちょうどいい。
念入りに選ばれた位置だった。
ウリエルは焼き台の前で立ち止まり、咳払いして、恐る恐る声を上げた。
「すみません、誰かいますか? 俺たち学院の学生で、ここで迷ってしまって」
ホールには反響だけが戻ってくる。
誰も答えない。
もう一度呼んだ。
「あの——誰かいますか?」
洞窟の静寂が彼の言葉を丸ごと飲み込んだ。
テントの帆布が微風に静かに押されて揺れた。
それ以外は、何も動かない。
ウリエルは振り返ってセラフィーナに手招きした。
それから最初のテントに向かい、中を確認しようとした。
いくつかのケースを想定していた。
冒険者が変死している。
持ち主がどこかへ出かけてテントだけ残っている。
あるいはもっと最悪なことに、テントの中に人がいて、すでに——
鉄鍋の横を通り過ぎた時、視界の端に何かが映った。
同時に、濃厚な香りが鍋の縁から漂い出してきた。
蓋がきっちり閉まっていない。
ウリエルは鼻を利かせながら、試しに蓋を持ち上げた。
ジャガイモとスペアリブの煮込みだった。
こってりとした肉の香りがどっと広がり、スープがぐつぐつと泡を立てていた。
腐敗臭はない。変な臭いもない。余熱すら抜けていない。
完全に、できたてだった。
これは彼が一番好きな料理だった。
背中を冷たい何かが這い上がってきたような気がした。
生存本能がけたたましい警報を鳴らしている。
ウリエルはバタンと乱暴に蓋を閉めると、弾かれたように最初のテントへ駆け込み、入口の布を勢いよく両側に捲り上げた。
テントの中は、からっぽだった。
人の影一つない。
寝袋は角にきっちり丸めて置かれ、防湿シートは不気味なほど綺麗に整頓されていた。
居心地のいい生活感が、むしろ背筋を粟立たせた。
振り返って二つ目のテントへ。布を捲る。
全く同じだった。
寝袋は丸まっている。装備は定位置にある。地面に砂粒一つ落ちていない。
二張りとも荷物がない。私物がない。食べ残しがない。生活の痕跡がない。
キャンプはまるで、今まさに用意されたかのようだった。
あるいは——
最初から、二人のために準備されていたかのように。
【第百話・終】
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