第九十九話:地形殺し
「安全な場所を見つけて夜を明かしましょう」
こうして二人は、望まぬ形で“野外泊”に突入する。
円頭虎の咆哮が耳を劈いた。だが、ウリエルは視線を逸らさなかった。
巨大な円頭虎を見据えたまま、脳をフル回転させていた。
(実力はバレてはならない。セラフィーナに見られてはならない。疑わせてはならない)
(たかが金級の円頭虎一匹、問題ない。速攻で片付ければ、スライディング一発の話だ)
「俺が引き付ける!」
彼は顔を横に向けて、セラフィーナに素早く一言投げかけた。
「隙を見て元の道を走って逃げろ」
言い終わる前に彼女の返事も待たず、一声叫んで、まっすぐ円頭虎の方向に突っ込んだ。
セラフィーナはその場に立ち尽くした。
その無表情な顔に、珍しく驚きが浮かんでいる。
呼び止めようとして、また何か言おうとした。
しかしその背中はすでに三メートル先に飛び出していた。
(逃げる? それとも残る?)
珍しく答えが出なかった。
円頭虎も同じ瞬間に動いた。
後ろ足が地面を激しく蹴り、巨大な体躯が宙に舞い上がり、その巨大な影が瞬時にウリエルを覆い尽くした。
爪先に五筋の冷たい光を閃かせ、突進してくる小さな人影に向かって振り下ろされた。
ウリエルは眼光を鋭く落として、心の中で「よし来た」と叫んだ。
重心を沈め、両膝を軽く曲げる。
完璧なスライディングで奴の腹の下を潜り抜けて、そのまま一刀で腹をかっさばく。
しかし、アクシデントはウリエルのコンボよりも早かった。
彼がスライディングで滑り出した瞬間。
円頭虎の前爪が彼が今まで立っていた場所に叩きつけられた。
命中せず。
地面から微かな「パキ」という音が聞こえた。
続けてまるで連鎖反応のような引き裂く音が四方八方に広がった。
円頭虎が着地したその点で、幾重にも絡み合った枯れ枝と蔓が、飛び掛かりの衝撃に耐えられず、一斉に崩れ折れた。
ウリエルは下を見た。
ここの地面に固い土なんてものは存在しない。
厚く積もった枯れ葉、朽木、幾層にも重なった蔓が織り成す、偽物の床だったのだ。
人の体重をギリギリ支えられる厚さ。
しかし三、四メートル級の円頭虎が全力で飛び掛かった衝撃には絶対に耐えられない。
「嘘だろ——」
言い終わる前に、偽物の床全体が轟然と崩落した。
円頭虎が短い「ニャウッ」という声を上げ、四肢が宙をかいた。
巨大な体躯がまず転がりながら下の闇の中へ落ちていった。
ウリエルとセラフィーナも巻き込まれた。
ウリエルはスライディングの姿勢から起き上がる間もなく、尻の下が突然空になる感覚がして、体が支えを失い、自由落下が始まった。
風切り音が耳元で唸り、服の裾と髪が気流に上へと引っ張られ、無重力感が足の裏から頭のてっぺんまで突き抜けた。
セラフィーナも免れなかった。
彼女が立っていた場所は崩落の中心から数歩の距離があったが、偽物の床の崩壊範囲は彼女の反応時間をはるかに超えていた。
跳び上がって避ける間もなく、砕け散る地面と一緒に落ちていった。
落下する空中、ウリエルは素早く視線を走らせ、すぐ傍に異常に太い蔓があるのを発見した。咄嗟に腰と腹の筋肉を爆発させ、空中で無理やり身を捻って横へ飛び出すと、その蔓へ死に物狂いでしがみつく。
摩擦熱で掌が焼け焦げそうになる中、「バシッ!」という鈍い音を立てて蔓に張り付いた。四肢を広げたヤモリのような極めて無様な姿勢だったが、ともかく落下は免れた。
一息ついて、姿勢を整えようとした瞬間——
視界の端が落下する影を捉えた。
セラフィーナが彼から一メートルも離れない場所を掠めて落ちていく。
セラフィーナには、こんな落下を止める術なんてない、指先が空中で虚しく掻いたが、ウリエルの服の端にも届かず、どの蔓にも触れられなかった。
ウリエルに考えている余裕はなかった。
両腕で蔓を死にもの狂いで締め上げ、首筋に青筋を浮かせて、猛然と一声叫んだ。
「命刈り取る必殺シザース!」
上半身で必死に蔓にしがみついたまま、下半身を丸ごと宙に跳ね上げ、体幹から爆発的な力が迸り、両足が空中で鋭い弧を描いて、落下中のセラフィーナの腰を正確無比に挟み込んだ。
箸が天ぷらを掴むように。
正確無比だった。
セラフィーナの体が空中で止まり、落下がぴたりと絶たれた。
彼女はおよそ一秒間、リエルの両脚に腰を挟まれたまま宙ぶらりんになって、呆然としていた。
それから素早く状況を把握して、両手を伸ばしてウリエルのすねに抱きついた。
「……」
何も言わず、ただウリエルの脚を抱える力を少し強めただけだった。
しかしこのアクロバットはそう長くは続かなかった。
汗がウリエルの指の隙間から滲み出て、摩擦力が急速に失われていく。
二人分の体重が蔓一本にぶら下がっている。
ゆっくりと滑り始めた。
「ウリエルさん」
セラフィーナの声が下から届いた。
逆さまの位置なのでどこか妙な響きだが、律儀にそう忠告してくれた。
「私たち、落ちてますよね」
ウリエルは歯を食いしばって、数文字を絞り出した。
「わか……ってる……早く蔓に——!」
「蔓」の一文字が言い切れなかった。
掌の摩擦力がついにゼロになった。
指が蔓から外れ、二人は蔓を離れ、揃って闇の中へ落ちた。
辺りが静まり返った。
しばらくして、セラフィーナの瞼が動き、ゆっくりと意識が戻った。
目を勢いよく開けると、頭上はるか上に崩落した穴が見え、天光が差し込んでいるが、もうずいぶん弱い。
骨折はしていない。出血もない。奇跡的に全身無傷だった。
地面に手をついて起き上がろうとすると、掌の下がふわふわしていることに気づいた。
下を見た。
ウリエルが仰向けに倒れていた。
目を閉じたまま、完璧なクッションとして機能している。
今まで彼のお腹の上に座っていたらしい。
セラフィーナは慌てて横に身をかわした。
そのまま身を乗り出してウリエルの顔を覗き込み、片手をその肩に当てた。
布越しに体温と鼓動が感じられる。
それでも眉間に皺が寄った。
「ウリエルさん」
肩を叩く。
「怪我してますか? 聞こえますか?」
ウリエルは苦しそうにうめき声を上げて、両手で地面を押して、ゆっくりと起き上がった。
喉から絞り出すような掠れた声で「大丈夫大丈夫」と呟いた。
言い終わる前に、唇に突然冷たいものが当たった。
残念ながら美少女の柔らかい唇などではなく、ただの回復薬の瓶の口だった。
セラフィーナは片手でポンッと栓を弾き飛ばして、そのままウリエルに押し込んでいた。
さらにビンの底を持ち上げて、一本丸ごと強制的に喉に流し込んだ。
苦くてどこかほんのり甘みがあって、妙な臭いが鼻腔に突き刺さる。
「ごくごくごく——」
ウリエルは苦い草薬の液体を強制的に飲まされて、危うくむせて涙目になりかけた。
「うぇっ——ぐっ——もう十分十分!」
翻身して起き上がり、手の甲で口の端に溢れた薬液を拭う。
セラフィーナは彼の喉元を凝視して、確かに飲み込んだことを確認してから、ようやく空きビンを回収した。
それを無造作に傍らに放って、両手を膝の上に当て、非常に真剣な目でウリエルを見つめた。
真剣すぎて怖いくらいだった。
「次はこういうことをしないでください」
責める語調でも、感激して泣きそうな甘い声でもない。
「もし私を助けようとして重傷を負って動けなくなったり、さらに深刻な取り返しのつかない結果になったりしたら。私はあなたにとても感謝するでしょう。でも同時に、ひどく申し訳なく思います」
ウリエルは地面に座ったまま彼女を一瞥して、それから腰を叩いて立ち上がり、その場で軽く跳ねた。
関節は異常なし、骨も異常なし、背中にまだ少し鈍い痛みがあるがもう引いていた。
「ほら、本当に大丈夫だろ」
彼は両腕を広げてくるりと一回転してみせた。
「元気いっぱいだろ。で、どうやって出る?」
セラフィーナが立ち上がって、二人は微かな光を頼りに辺りを見渡した。
ウリエルも一緒にきょろきょろした。
彼らが今立っているのは崖壁から突き出た岩の踊り場で、面積は馬車一台が停められるくらい。
上方十数メートル、円頭虎が砕いた穴が不規則な天窓のように空いていて、差し込む天光はもうだいぶ暗くなっている。
下方十数メートルは崩落地点の底で、折れた枝と蔓の破片が山積みになっていた。
あの円頭虎がその上に四肢を広げて倒れていた。
ぴくりとも動かない。気絶なのか死んでいるのか、分からない。
セラフィーナは頭上の絶望的な高さを見上げて、首を振った。
「登れません」
ウリエルは顎に手を当てて、岩壁に垂れている数本の太い蔓に視線を走らせた。
あの蔓なら登れる。表面が荒く、十分な握り所がある。
助走をつけて跳べば、二本の蔓の間を弾みながら、数段階で破口まで上がれるだろう。
問題はセラフィーナだ。彼女には無理だ。
背負っていくとなると、二人分の体重では蔓の上でバランスが取れない。
(いっそ……角度を計算して、米俵みたいに上に放り投げるか?)
ウリエルは距離を見積もった。
駄目だ。外れたらどうする。
「無理ですよ」
セラフィーナの声が突然響いた。
ウリエルはビクッとして激しく振り返った——読まれた? 俺が何考えてるか気づかれた?
セラフィーナはウリエルの怯えた視線を受けても、表情を変えなかった。
「私はあなたほど強くないので、あの手の蔓は登れません。体幹が弱いし、握力も足りませんから」
どうやら、登る方法を考えているとしか思われていないらしい。
それ以外には気づいていない。
ウリエルはこっそり安堵の息を吐いた。
「ただ、あっちに道があります」
セラフィーナは踊り場の左端を指差した。
指の方向を追うと、崖壁の根元に天然にできた細い裂け目があった。
細いことは細いが、人一人が横向きになれば通れる幅はある。
裂け目の先の空間は見えないが、中から微かな気流が吹き出している。
どこかに洞窟が繋がっているらしい。
「もう遅いですし」
彼女は頭上の破口から差し込む光の色を見上げた。
「たとえ登れたとしても、日が暮れる前にこの密林を抜けるのは無理です。安全な場所を見つけて夜を明かしましょう」
ウリエルは顔色が変わった。
「野宿?!」
「ええ」
セラフィーナは腰を屈めて傍らに落ちた採集袋を拾い、土を払い、肩に担いだ。
「実家に行程を報告してあります。今夜宿に戻らなければ、向こうが私たちの失踪に気づくでしょう。明日の午前中には冒険者の捜索隊が密林に入ってきます。それにまたあなたに引っ張られて移動したら、新しいトラブルに遭いそうで怖いです」
彼女が無表情に吐き出したその一言は、見事なクリティカルヒットだった。
ウリエルは一瞬言葉を失った。
辺りを見回すと、日が暮れる前にここを体裁よく脱出できる選択肢など一つもない。
黙って裂け目の方へ歩いた。
【第九十九話・終】
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