第九話:旅団は、育っていく
結局、謎だらけの深青の少女も家に残ることになった。
名前もない。過去も語らない。
ただひたすら、母・ガラティーナの背中を暗い瞳で観察している。
彼女の正体は暗殺者か? 他国のスパイか? それとも復讐者か?
——唯一真相を見抜くのは、見た目は子供、頭脳は常人離れの名探偵ウリエル!
……と、彼本人はかっこよく決めたつもりだった。
だが、一ヶ月の観察の末に彼が目撃した「恐るべき真実」は、まったく別のベクトルでヤバいものだったのだ。
これは、名探偵が深読みの果てに自爆し、うっかり当人にもバレてしまい、さらに特大のフラグを立ててしまうまでの哀れな観察日記である。
結局、あの子も残ることになった。
親と家の場所を聞いたら、一言だけ返ってきた。
「ない」
疑問はあった。
でも母親の性格上、そしてルミナの前で自分で作り上げたキャラ設定の手前——追い出すわけにもいかない。
(……はあ、ブーメランだ)
山の麓の旧い家での日々は、呆れるほど早く流れた。
毎日、何かが起きるからだと、ウリエルは時々思った。
たとえば朝、目を覚ますと、必ず鍋から香りが漂ってくる。
香りが強い日もあれば、弱い日もある。
今日は、きのこの香りだった。
「腕、上がってるな」
台所へ入りながら、心の中で頷く。
ガラティーナは竈の前に立って、エプロンをきっちり結び、銀髪を布紐で無造作に束ねて、木のへらでとろとろに見えるお粥を真剣にかき混ぜていた。
「ウリちゃん、おはよう」
振り返った顔には、花がほころぶような笑顔があった。
「おはよ、ママ」
ウリエルは腰掛けに座り、肘を卓の端に乗せて、一つあくびをした。
すぐ近くでは、フェンリアがすでに定位置に就いていた。
ふわふわの——犬耳、いや獣耳がぴんと立って、目は鍋の口に釘付けで、尻尾が止まらずに揺れていた。
「いい匂いーーっ!」
「まだ出来てない」
ルミナが茶の器を持ったまま横を通り過ぎた。顔も上げずに。
「座ってて」
「わかったッス」
フェンリアは一秒だけしょんぼりした。
尻尾は止まらなかった。
一番隅の席に、深い色の短髪の少女が座っていた。
前髪が目元を覆い、両手を卓に置いて、飾り物みたいに静かに存在していた。
彼女には、名前がなかった。
「名前は?」
ウリエルは何気なく聞いた。
少女は顔を上げて、一度だけ見た。
静かな目だった。攻撃的でもなく、特に温かくもない。
「ない」
「……ない?」
「誰にも、もらったことがない」
まるで自分とは関係のないことを話すような、平らな声だった。
ウリエルは黙った。
それから、ある名前が浮かんだ。
「キラ」
「……」
「ある、えっと、古い言語で——『きらきら輝く』って意味だ」
ウリエルは鼻の頭を掻きながら、適当なでまかせを並べた。
「これが君の名前。今この瞬間から」
少女——今やキラと呼ぶことになった彼女は、しばらく彼を見た。
それから俯いて、小さく頷いた。
それだけで、余計な言葉は一つもなかった。
本当に受け入れてくれたのかはわからなかった。
でもそれ以降、この名前を拒んだことは一度もなかったし、呼べばちゃんと反応した。
(だから、たぶん同意したということなのだろう。たぶん)
旧い家の朝は、大抵、鍛錬から始まった。
ガラティーナが教える内容は、節操なく多岐にわたった。
最初はエーテルの感知と魔力の理論。それがいつの間にか護身術も加わり、ついには料理や裁縫まで入り込んできた。
名目は「生活の技能」だった。
このカリキュラムを強く提案したのは、他でもないウリエルだ。
表向きの理由は——「自分の面倒を見られない魔法使いは長続きしない」。
本当の理由は——ママに全部の家事を押し付けるのはしんどいだろうということと、あと三人も女の子がいるんだから手伝わせようということだった。
「はい、十分休憩」
ガラティーナが手を叩いた。
三人の子供と同時に組み手をしていたはずなのに、髪の毛一本乱れていなかった。
「みんな今日もよく頑張ったねぇ」
彼女はしゃがんで、まずルミナの頭に手を置いた。
「ルミナ、詠唱速度がだいぶ上がったわねぇ」
緑の髪の少女がわずかに目を伏せた。
耳の先が、こっそり赤くなった。
「……お褒めにあずかり光栄です」
次にフェンリア。
「フェンリア、今日は力加減がよかった」
「えへへっ!」
獣耳がぴんと立ち、尻尾の速度が倍になった。
次にキラ。
「キラ、観察がよくできてた」
「……」
キラは何も言わず、いつも通り俯いていた。
最後に、ウリエルの番。
ガラティーナの手が、彼の頭の上に落ちた。
「ウリちゃん」
にこっと笑って。
「今日もお疲れさま」
「魔女様、俺は彼女たちより年上なんだけど」
ウリエルの声に滲む疲労感は、演技ではなかった。
「一緒に褒めなくていいから」
「みんなママの子供なんだから、一緒に褒めるに決まってるじゃないの」
これには返す言葉もなかった。
ウリエルは聞こえなかったことにした。
(自分が四人の子供の面倒を見てる気がしてたんだけど、どうも自分が一番世話されてる側らしい)
そんな日々の中で、ずっと胸に刺さったままの細い棘があった。
キラの視線のことだ。
ガラティーナを見る目が、あまりにも真っ直ぐすぎた。
帰ってきた初日から、ずっと。
真剣すぎて——強い人への憧れとか、そういう単純なものとは違う気がした。
ガラティーナが飯を作る時も、見ている。
魔力の知識を教えている時も、見ている。
縁側でぼんやりしているだけの時でさえ、少し離れた場所から、静かに見ている。
ウリエルはそれを胸の底に押し込んでいた。
ガラティーナと暮らし始めた頃のことを思い出す。
あの日、彼女が処理しに行ったことが何だったのかを、ウリエルは何度か聞いたことがある。返ってくるのは、いつも同じ答えだった。「それは大人の話だから、ウリちゃんがもう少し大きくなったら教えてあげる」。
笑顔で、穏やかな声で。だがその話題は、綿のようなやわらかさでぴったりと蓋をされて、どこにも隙間がなかった。
だからウリエルには、わからない。母が勇者だということは知っている。
それ以外のことは——何も知らない。
スパイ。暗殺者。復讐者。あるいは——呪いの器
でも、人の頭というのは厄介なもので。
考えまいとするほど、考えてしまう。
ある夜、星を見るふりをして縁側に一人で座り、またその件を考え始めた。
キラは森の中で拾った。
名前がなく、来歴もなく、口数が少なく、心が深く、視線を真正面から受けることを本能的に避ける。
こういう人間は、二種類だ。
深く傷ついたか——
もしくは、最初からここを目指してきたか。
(……冷静になれ、冷静に)
ウリエルは自分の腕をつねった。
(これは小説じゃない。現実だ)
(でも現実のほうが小説より意味わからないことが普通に起きる、という事実もある)
彼は閉まった窓を一度見上げた。
まず観察する。
そして、まるまる一ヶ月、観察した。
結論。
有益な情報は、何も得られなかった。
キラは物を盗まず、夜中に動かず、怪しい人物と接触せず、毎日の鍛錬と勉強を年齢不相応なほど真剣にこなし、自発的に掃除まで手伝っていた。
唯一疑わしい行動といえば、ガラティーナをじっと見ることだけだった。
それが脅威かどうかと言われると——そうでもない気がしてきた。
(疑いすぎだったか、俺)
そして、あの朝が来た。
いつも通り鍛錬が終わり、いつも通り頭を撫でられ、いつも通り休憩が宣言された。
三人がそれぞれ散った。
ルミナは本を取りに行き、フェンリアは水を求めて走り去り——キラは。
キラは自分で扉を押して、部屋へ戻っていった。
ウリエルはその場に二秒立ち止まって、それに気づいた。
(……)
彼の探偵本能が、「ほっとけ」という甘い考えを上回った。
音を立てずについていく。
キラの部屋の扉は、少し開いていた。
ウリエルは入口で息を止め、ゆっくりとほんの少しだけ押し開けた。
そして——
キラが、布団を抱えて、ベッドの上でごろごろと転がっていた。
「……ああああ今日の魔女様もやばすぎたあの動きあの手の速さ普通の魔法使いなら反応すら間に合わないのにでもあの表情であの穏やかな顔でやるって何それって強すぎて戦意を出す必要すらないってことなのそれとも——!」
速い。
字幕が追いつかないほど速い。
「魔女様の普段の家での顔……ってか魔女様ってママじゃん!……ママの家での姿もすごいけど、でも外の顔とは違くて、ご飯作る時の後ろ姿が、あの背中が……うわあ……はぁぁぁ……うぅぅぅぅ……」
文字に起こせない奇声が漏れた。
そのまま布団を抱えて、芋虫のように転がった。
ウリエルは姿勢を保ったまま、無言でその一部始終を見届けた。
(……)
(やられた)
(こじらせ妄想オタクじゃないか、こいつ)
そっと扉を戻し始めた、その時。
ベッドの上の人影が寝返りを打った。
目が、合った。
時が止まった。
ウリエルは動かなかった。
キラも動かなかった。
彼女の目が、普段の約二倍に見開かれていた。
布団が、口元まで引き上げられていた。
「……何も見てない」
ウリエルは静かに言った。
「飯の前に呼びに来る」
扉を閉めた。
廊下に立って、一度深く息を吸った。
(……よし。大丈夫だ)
(ままに対してちょっとアレな崇拝感情を持った妄想オタクなだけだ。前の世界にもいたな、そういうの。異世界でも同じか、すごいな)
笑いが堪えきれなくて、声に出た。
踵を返した、その時——
「待って」
背後で、扉が開いた。
振り返る。
キラが扉口に立っていた。
布団はまだ抱えたままだったが、表情は「布団ゾンビ」から「なんとか平静」へと切り替わっていた。
ただし、目がちょっと赤かった。
「……さっきのは」
彼女は言った。
「ごめんなさい」
少し間を置いて、続ける。
「変なものじゃない。ただ……ただ、」
さっきの倍以上ゆっくりした速度で、言葉を選んでいた。
「あの人がすごいと思ってて」
「優しいと思ってて」
「あんな大人、」
彼女の目が、少し暗くなった。
「見たことなかったから」
「どう言えばいいかわからなくて、だから一人で……追い出さないで」
「わかってる」
ウリエルは平らな声で言った。
「別にいい」
「……」
「想像してたよりだいぶまともだったし」
それだけ言って、さっさと歩き出した。
キラはその場に立ち尽くした。
想像してたよりだいぶまともだった。
その言葉を、何度か頭の中で繰り返した。
あの状況を見た人間の、普通の反応は何だろう。
困惑か。引き気味か。そっと距離を取るか。
でも彼が言ったのは——
だいぶまともだった。
つまり、最初から気づいていた。
気づいていて、態度を変えず、拒まず——
そのまま、蓋をしてくれていた。
「……」
キラはウリエルの背中を、長い間見ていた。
言葉が出なかった。
言葉が少ないのは、何もないからじゃない。
むしろ多すぎて、全部が喉のところで詰まって、一字も出てこないのだ。
でも、言わなくても——わかることがある。
それから数日後。
食事の時間に、ウリエルは廊下で順番に声をかけに行った。
ルミナは応じた。フェンリアは匂いで先に気づいて自分で走ってきた。
最後はキラの部屋。
扉の前まで来たところで、中の声が聞こえてきた。
あの速度で、あの密度で。
「……今日のママの撫で方が昨日より少し軽かったのは私の反応が一瞬遅れたからかな、それとも加減を変えてるのかな、そんな細かいところまで気にしてるのかな……書記官……」
ウリエルの足が止まった。
(待って、書記官って俺じゃないか)
「……書記官、今日私の左側の攻撃を止めてくれたやつ、タイミングが絶妙で、あの方向が弱いってちゃんと見てたんだ、ずっと観察して、でも何も言わないで……かっこいい、クールすぎる、無理、てぇてぇ!」
(……)
ウリエルは扉の外で三秒間、沈黙した。
ノックをした。
「飯だよ」
中で、はっきりわかる、短い息の音がした。
「……わかった」
ウリエルはその場に立ち尽くし、ポケットに手を突っ込んだ。顔が引きつっていた。
(……)
(これはどういう状況だ)
(ママ、俺またヤバいフラグ立てちゃったかもしれない)
【第九話・終】
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