第九話 修繕費はバケツに消える(前編)
あー……胃が痛い。
四方あかりが置いていった「純金の延べ棒」を枕元に置いて寝てみたが、ちっとも金持ちになった気分にはなれなかった。
むしろ、枕元に時限爆弾でも置いているような心地で、一分おきに目が醒める。
おまけに今朝は、半壊した天井から雨漏りが始まった。
一階の「郷土史コーナー」が全滅する前に、バケツを並べるだけで一時間だ。
平和だな。一円を笑う者が、一円に泣くことになる……そんな、当たり前の地獄が戻ってきた。
「……一、二、三……。クソっ。足りねぇな」
丈一郎は、セロハンテープで補強された老眼鏡を指で押し上げ、カウンターに並べた小銭を睨みつけていた。
昨日の「演奏会」の代償は、想像以上に高くついた。
四方あかりの過剰な増幅によって弾け飛んだ黄金の衝撃波は、怪異を粉砕しただけでなく、この店が積み上げてきた数十年の時間を、文字通り木っ端微塵に破壊していた。
天井を見上げれば、そこには見事な風穴が開いて、そこから熊本特有の湿った雨が、ポタリ、ポタリと、丈一郎の寿命を削るようなリズムで落ちてきていた。
床に並べたのは、ホームセンターの特売で買ったプラスチックバケツを三つ。
一滴、落ちるたびに、丈一郎の心臓も一円ずつ削られていくような感覚がある。
「おい、モモ。あの金塊、どうにかできねぇかな」
レジの下、辞書『広辞苑』の裏に隠した新聞紙の包みを指差すと、足元で湿気った段ボールに爪を立てていた三毛猫が、面倒臭そうに顔を上げた。
「ナッ(通報される)」
「だよな。……四十過ぎた、ヨレヨレの半纏着たおっさんが、本名も言わずにこのサイズの延べ棒を質屋に持っていってみろ。その場でパトカーだ。換金できなきゃ、ただの重てぇ文鎮なんだよ、これは。……あいつ、俺を陥れるためにわざとこれを置いていったんじゃねぇか?」
丈一郎は腰をさすりながら、深い溜息をついた。
今の彼に必要なのは、出所不明の金塊ではなく、屋根の修繕費二十万円と、今日の昼飯のカップ麺に載せる生卵一個分の現金だ。
「ヌッ」
それまで不機嫌そうに尻尾を振っていたモモが、突然立ち上がり、背中の毛が、針のように逆立っている。
カラン、コロン……。
建付けの悪いドアが開くと同時に、店内のカビ臭い空気が、一気に「澱んだ」。
あかりが来た時の、あの暴力的なまでの清浄さとは対極にある。
それは、冷蔵庫の奥で数ヶ月放置された生ゴミのような、粘り気のある、ひどく不快な腐敗臭。
入ってきたのは、どこかの中古ショップで買ったような型落ちのスーツを着た中年男で肩にはフケが積もり、顔色は土気色。
何より異常なのは、その男が抱えている「一
束の古本」だった。
「……あ、あの。ここ、買い取り、やってるって聞いたんだけど」
男の声は震え、視線は定まらず、常に背後の何かを怯えるように振り返っている。
「……内容によるな。うちは今、見ての通り雨漏り中だ。濡らしちゃいけねぇ高価な本は買取できない」
丈一郎は鼻をすすり、わざと冷たく言い放った。
直感が告げている。この男は「客」ではない。
「いや、そんな、たいしたもんじゃないんだ。……ただの、掃除の本とか、古い料理本で……。実は、身内の遺品整理でね。早く片付けろって、大家に言われてて。……いくらでもいい、一円でもいいんだ。引き取ってくれ」
「……一円、ねぇ」
丈一郎は老眼鏡をずらし、男が抱える本を凝視した。紐で雑に縛られたその本は、一見すればどこにでもある古紙だ。
だが、ページの間から墨汁のような真っ黒い「粘液」が染み出し、床に音を立てて落ちている。
男自身はそれに気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか。
「ナッ(あっちにヤバいのがいるぞ)」
モモが警告の声を上げ、脱兎のごとく二階へと駆け上がった。
あかりに媚びを売っていた昨日の姿はどこへやら、自分に火の粉が降りかかる前の一時退避だ。
「一円でもいいなんてほど価値のない本を、わざわざ雨の中、紐をかけて運んでくる人間はいねぇよ。……あんた、それ、どこで拾った」
丈一郎の声が、一段低くなる。
男はビクッと肩を揺らし、後ずさりした。
「どこって……近所の、事故物件だよ。孤独死した老人の部屋を片付けてたら、これだけがどうしても捨てられなくて……。ゴミ袋に入れても、いつの間にか部屋に戻ってきてるんだ! 頼む、あんたプロなんだろ! 引き取ってくれ!」
男は半狂乱で本をカウンターに叩きつけると、店を飛び出していった。
「おい、待て!……ったく、逃げやがった」
カウンターに残された本が、パキパキ、と生き物のように震動を始めた。
縛っていたビニール紐が、溢れ出す黒い粘液の圧力に耐えかねて、パチンと弾け飛ぶ。
「……不法投棄に、現代の呪いか。……鑑定料、百万単位で請求してぇところだが、相手が消えちゃ世話ねぇな」
丈一郎は忌々しげに煙草を吐き捨てると、半纏の袖を乱暴に捲り上げた。
左手首の黄金のバングルが、澱んだ空気の中で鈍い光を放ち、キィィィィン……と、低く不吉な産声を上げる。
「雨漏りの次は、これかよ」
カウンターに叩きつけられた本の束が、嫌な音を立てて膨張を始めた。
『快適・整理整頓のコツ』『誰でもできる、汚部屋脱出術』。
表紙に踊る皮肉なタイトルを、中から溢れ出した真っ黒な粘液が塗り潰していく。
それは孤独死した老人の「片付けられなかった後悔」と、現代社会の「遺物への無関心」が煮凝りになった、寄生型の怪異だった。
「……ヌッ(やるのか)」
二階の踊り場から、モモが首だけを出してこちらを覗いている。
「見てるだけなら、せめて二階の雨漏りバケツの番でもしてろ。お前、昨日の高級削り節一袋分くらいは働けよ」
丈一郎は短く毒づくと、左手首の黄金のバングルを軽く叩いた。
『カシャンッ』
乾いた音と共に、バングルが十数の環へと分裂し、丈一郎の周囲を衛星のように浮遊し始める。
あかりがいた時の、あの暴力的で熱を帯びた輝きはない。今のリングは、ただ静かに、冷たく、主人の意志を待つ「鋼の道具」の顔をしていた。
粘液の中から、数百枚の「紙の刃」が触手のように伸び、丈一郎へと襲いかかる。
それはかつて、誰かの生活を支えたはずの言葉たちだった、だが今は、誰にも読まれず捨てられた怨念を乗せ、触れるものすべてを切り裂く凶器へと変貌していた。
「キィィィン……」
丈一郎は動かない。
襲い来る紙の刃が鼻先数センチに迫った瞬間、空中に固定された数枚のリングが、目にも止まらぬ速さでその軌道を「弾いた」。
火花が散り、紙の礫が畳に突き刺さる。
「……重ぇな。未練が積み重なってやがる」
丈一郎は一歩、踏み出した。
崩壊した床板、雨漏りで滑る畳。
劣悪極まりない足場を、彼は慣性を無視した独特の歩法で滑るように移動する。
怪異が咆哮を上げた。
言葉にならない、紙と紙が擦れ合うような不快な絶叫。
黒い粘液が書棚を侵食し、未だ無事だった「実用書コーナー」の棚を飲み込もうとする。
「あ!待て!そこは、一冊五百円で売れる棚だ。辞めろ!!」
丈一郎の目が据わった。彼は空中に二枚のリングを固定し、それを「手すり」のように掴んで身体を真横へとスライドさせた。
迫り来る粘液の触手を紙一重でかわし、右拳に分裂したリングを纏わせる。
拳を突き出す刹那、前腕に嵌まった分裂した三つの環が拳へと滑り込み、火花を散らして超高速回転を始めた。
空気が捻じれ、敵の肉を抉り抜く穿孔へと変わる。
ドォッ、という、腹に響く重低音。
衝撃波を外へ逃がさない。
打ち込んだリングの震動を、怪異の内部組織だけに集中させ、内側からその結合を揺さぶる。
怪異が悶え、粘液を撒き散らした。
その飛沫の一滴が、丈一郎のヨレヨレの半纏に付着し、ジリジリと布地を焼く。
「痛ぇな」
丈一郎は鼻をすすり、腰の重みを逃がすように膝を抜いた。
怪異は次第にその姿を変え、床に溜まった粘液が、巨大な「黒い手」となって丈一郎を掴もうと迫る。
一階の天井から漏れる雨水がその手に触れた瞬間、粘液はさらにその質量を増し、不気味に脈動した。
「水を含んでやがるのか。……余計に質が悪いな。掃除の手間が二倍だ」
丈一郎は、散らばったバケツの一つを足で蹴り飛ばした。空中に固定されたリングがバケツの取っ手を捉え、即座にその軌道を変える。
雨水が空中で弧を描き、怪異の「視界」を遮る一瞬の幕を作る。
その隙を見逃さない。
丈一郎は低い姿勢から、リングをコンパスの支点にして、怪異の背後、本が積み重なった最も死角となる場所へと潜り込んだ。
「ヌッ!」
二階からの警告。
怪異が、丈一郎の機動に合わせ、背後の書棚を丸ごと「倒して」彼を押し潰そうとした。
「……させねぇよ。その棚は、まだローンが残ってんだ。俺の家計にトドメを刺すんじゃねぇ」
丈一郎は両手を広げ、浮遊するすべてのリングを棚の四隅へと飛ばした。
リングを空間に固定し、壁面や天井と一体化させることで、数百キロの質量を持つ書棚を、宙に浮かせた状態で完全に停止させる。
「キィィィンッ!」
バングルが、負荷に耐える限界の音を上げた。
丈一郎の額に、脂汗が浮かぶ。
自分の心臓の音と、雨音、そして怪異が紙をめくるような不気味な音だけが、店内に充満していた。
丈一郎は支えていた棚をあえて怪異の方へと押し戻し、その隙間に自身の拳をねじ込んだ。
脱臼しそうな肩を強引に回し、空中のリングを一箇所に集約させる。
「……さぁ、鑑定の続きだ。あんたの未練、一円分も残さず削り取ってやるよ」
連結したリングが、丸鋸のような音を立てて怪異の「核」を削り始める。
怪異が最後に、一際大きく脈動した。
丈一郎の指先が、その核心を構成する、使い古されたペンの感触を捉えた。
孤独死した老人が、最後に握りしめていたであろう一振りの「執着」。
だがその瞬間、店内の雨漏りが、滝のような激しさで丈一郎の視界を奪った。
「……おい、まさか、屋根が限界か……!? 待て、修理代が、修理代がああああ!」
怪異の抵抗よりも、店の崩壊が先に訪れようとしていた。丈一郎は歯を食いしばり、雨水に濡れたリングを足場にして、最後の一撃を放つべく跳躍した。
その目には、正義ではなく、修繕見積もりへの恐怖が浮かんでいた。
【作者より】
最後まで読んでいただきありがとうございます!
本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えていますが、丈一郎とモモの旅はまだまだここから熱く広がっていきます。
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「続きが読みたい!」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ応援よろしくお願いします!




