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第八話 白檀の香(後編)

【作者より】

数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。

本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えており、丈一郎とモモの旅はさらにその先へと広がっています。

皆様からの感想やブックマークが、二人をより遠くへ進めるための何よりの「ガソリン」になります。

「続きが読みたい」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ旅の同行者として応援していただけると嬉しいです!


 黄金の百足が、店内の空気を文字通り「圧殺」しながら突進してきた。

 金塊を核として再構築されたその甲殻は、もはや墨の流動性など欠片も残っていない。

 一節一節が重戦車の装甲板のごとき重量を持ち、畳を、床板を、丈一郎の「家計」そのものを物理的に粉砕しながら迫る。


 「カシャン、カシャン、カシャンッ!」


 丈一郎は即座に指先を弾いた。


 分裂した数百のリングが空中に固定され、黄金の格子状の防壁を形成する。


 ドォォォォォォッ!


 激突の瞬間、店全体が直下型地震のような震動に襲われ、リングと黄金の甲殻が激突し、火花が吹雪のように舞い散る。

 リングが、百足の質量に耐えかねて悲鳴のような高音を発する。


 「……重ぇんだよ、成金が!」


 丈一郎は防壁となったリングを「踏み台」に変え、コンパスの針のように身体を鋭角に旋回させた。


 その動きは、百足の側面へと回り込み、拳に纏わせたリングを高速回転させる。

 拳を突き出す刹那、前腕に嵌まった分裂した三つの環が拳へと滑り込み、火花を散らして超高速回転を始め、空気が捻じれ、敵の肉を抉り抜く穿孔へと変わる。


 「ジャラッ」


 背後で、数珠の銀ビーズが弾かれる音がした。


 「『黄金共鳴バングル・アンプリファイ』。……もっと、高く、響いて」


 「ッ!? またかよ!」


 拳が黄金の甲殻に触れる寸前、あかりによって衝撃が爆発的な衝撃波へと変貌した。


 キィィィィィィィン――!


 衝突の瞬間、発生したのは打撃音ではなかった。


 真空を伝うような超高周波が百足の内部へと浸透し、内側から黄金の分子結合を共鳴させて粉砕する。

 だが、その跳ね返りは丈一郎の肩の骨を脱臼させんばかりの反動となって返ってきた。


 「ぐ、ぉっ……! 俺の腕がもげる!」


 「あら、もげた後の欠損ノイズも、きっと素晴らしい旋律になるわ」


 あかりは恍惚とした表情で、一歩、丈一郎の背後へと踏み込み、白檀の香りが鼻腔を焼き、彼女の冷たい指先が、丈一郎の震える肩を後ろから優しく包む。


 「離れろバカ女! 邪魔だ!」


 「いいえ、離さない。……あなたの心臓の鼓動リズム、すべてを私に預けて」


 あかりが数珠を強く振り下ろすと、店内の「音」が完全に消失した。

 

 二度目の『休符ポーズ』。


 無音の結界が展開され、襲い来る百足の巨体と、飛び散る木材の破片が、スローモーションのように空中で停止する。

 

 絶対的な静寂。


 その中で、あかりは丈一郎の耳元に唇を寄せ、氷のような吐息を吹きかけた。


 「今、この瞬間に流れている沈黙は、あなたと私のための前奏曲プレリュード。……あの巨体の腹の下、三番目の節に『安物の万年筆』の芯が残っているわ。そこを突けば、この曲は終わる」


 丈一郎は毒づく余裕さえ奪われていた。


 彼女の「無音の檻」の中にいる限り、物理的な衝撃波すら無効化され、動けるのは丈一郎だけ、だが、それは同時に、あかりの冷たい肌の感触を嫌というほど背中に感じながら戦わねばならないという拷問でもあった。


 「……くそ!」


 丈一郎は空中に固定された数千のリングを、指先の操作一つで連結させた。


 連結、拡大、そして収縮。


 リングは巨大な「黄金の鐘」の形へと組み上げられ、停止した百足の巨体を丸ごと包囲する。

 あかりは丈一郎の手首を掴むようにして、数珠を鐘の表面へと滑らせた。


 「ふん!」

 

 丈一郎が印を結び、静寂を破る。


 『休符』が解除された瞬間、黄金の鐘が猛烈な勢いで収縮を開始した。


 パカァァァァァァンッ!


 あかりが数珠を激しく擦り合わせ、鐘の内部へ向けて周波数を集中させ、鐘の内壁で増幅・反射された震動が、逃げ場を失った黄金の百足を内側から圧搾し、粉砕した。


 「ギィィ、アァァ、ァ……」


 怪異が放つのは咆哮ではなく、物理的に潰される空き缶のような悲痛な金属音だった。

 金塊は塵となって砕け散り、核となっていた安物の万年筆が、数千の破片となって弾け飛ぶ。

 

 だが、その決着の代償は甚大だった。


 増幅されすぎた衝撃波の余波で、丈一郎はカウンターの向こう側へと派手に吹き飛んだ。

 背中を叩きつけたのは、よりによって一番高価な「初版本(非売品)」が並ぶ特注の書棚だ。


 「あぁ……っ、俺の……俺の家宝が……っ!」


 崩れ落ちる古書。舞い上がる埃。


 丈一郎は血の気が引くのを感じながら、朦朧とする意識の中で、床に転がるバラバラになった「万年筆の残骸」を見つめていた。

 

 怪異は消えた。


 だが、店内に残されたのは、かつてないほどの惨状と、白檀の香りを漂わせながら平然と立ち尽くす一人の女。


 「……完璧なフィナーレね。環さん。あなたの音、世界で一番美しかったわ」


 あかりの微笑みは、勝利を祝う聖母のようでもあり、愛する楽器を壊し尽くした狂った演奏家のようでもあった。

 丈一郎は、折れた棚板の下で、ただ絶望に震えるしかなかった。


 静寂が戻った店内には、ただ白檀の残香と、無残に粉砕された建材の焦げた匂いだけが漂っていた。

 丈一郎は崩れ落ちた書棚の山から、泥の中から這い出す亀のような遅さで姿を現し、剥き出しになった二の腕には、あかりの過剰な増幅アンプに耐えた血管が浮き出し、自身の拍動に合わせてドクドクと不気味に痙攣していた。


 「……ああ……、家宝。俺の家宝が……」


 丈一郎は、真っ二つに割れた『限定本・熊本の歴史伝説』の背表紙を震える手で拾い上げた。


 目に涙を浮かべ、十円単位の損得を何よりも愛した男にとって、この壊滅的な風景は死刑宣告に等しい。

 あかりが放った衝撃波は、怪異だけでなく丈一郎のささやかな資産をも蹂躙していた。


 その傍らで、四方あかりが静かに歩み寄ってきた。


 彼女の漆黒の僧衣には、埃一つ付いていない。

 まるで鏡のような清浄さを保ったまま、彼女は瓦礫の山に座り込む丈一郎の前に跪き、そのボロボロになった右手を両手で包み込んだ。 

 彼女の肌は氷のように冷たく、白檀の香りが鼻腔の奥まで突き抜ける。


 「素晴らしい演奏だったわ、丈一郎さん。……あなたの骨が軋む音、悲鳴、そして絶望。それらすべてが混ざり合い、この世界に唯一無二の、最高に醜く美しい旋律を刻んだわ」


 「……やかましい。あんたのせいで、うちは倒産だ」


 丈一郎が恨みがましく睨みつけると、あかりは恍惚とした微笑を崩さぬまま、懐から一通の厚い封筒を取り出した。

 それは紙幣の厚みというよりは、何か硬質な物体が詰め込まれているような感触。


 彼女はそれを丈一郎の掌に無理やり押し付け、指を絡めるようにして固定した。


 「これは今日の『演奏料』。……それと、私の連絡先。あなたが次にその音を奏でる時、私は必ずあなたの背後に現れる。いいえ、あなたがそのバングルを揺らすたび、私はその響きを頼りに、奈落の底からでも這い上がって見せるわ」


 「金は貰うが二度と来るな! 営業妨害で訴えるぞ!」


 「嫌よ……だって、あなたは誰よりも美しく、泥臭く、生きることに必死な『不協和音』そのものなのだから。私たちは、共鳴せずにはいられないのよ」


 あかりはそう言い残すと、陽光に溶ける霧のように、音もなくその場から去っていった。

 店内に残ったのは、消えないオゾンの匂いと、丈一郎の絶望的な溜息だけだった。

 

 しばらくして、二階の踊り場から「ヌッ」という短い、そして酷く満足げな鳴き声が聞こえた。


 モモが、何食わぬ顔で階段を下りてくる。

 

 その口元には、あかりが置いていったであろう「極上無添加の削り節」の粉がべったりと付着していた。


 「……モモ。お前、よくも俺を見捨てやがったな。龍涎香と削り節がそんなに良かったか。この裏切り猫め」


 「フンッ」


 モモは丈一郎の抗議を鼻で笑うと、カウンターの隅に残っていた小さな「お守り」へと歩み寄った。

 そこには、あの安物の万年筆の最後の一欠片が、丈一郎によって小さなお守りに封印され、鎮座していた。


 丈一郎はよろよろと立ち上がり、そのお守りを手に取った。


 「……ったく。あんな大立ち回りして、赤字もいいところだ」


 丈一郎は腰をさすりながら、仏壇の奥にそのお守りを投げ込むように供えた。


 そして、あかりが残した封筒を恐る恐る開ける。


 中に入っていたのは、見たこともないブラックカードと、スイス製の超高級時計と保証書、さらには出所不明の「純金製の延べ棒」が一塊。


 そして手書きの美しい文字で記された、『死ぬまで、あなたの音を聴かせて』という、呪いよりも重いメッセージカードだった。


 「……逆に怖いから、こんなもん! カードも怖くて使えねぇよ!どうすりゃいいんだよ!」


 丈一郎の悲鳴が、夕暮れ時の静かな商店街に虚しく響き渡る。

 結局、その日の夜、丈一郎が口にできたのは具の入っていない冷えた味噌汁だけだった。


 窓の外では、熊本の湿った夜風が吹き抜けていく。


 膨れ上がった修繕見積もり、癒えない腰痛、そしてストーカーじみた狂信的な美女の影。

 丈一郎の「世知辛い日常」は、黄金のバングルの輝きと共に、より一層深い泥沼へと沈み込んでいくのだった。


 「……あーあ。……明日、誰か『古本』を一万冊くらい買いに来ねぇかなぁ。……静かな、普通の古本屋に戻りてぇよ」


 丈一郎は薄暗い店内で、一人、湿気ったタバコに火をつけた。

 バングルは、ただ静かに、仏壇の奥でお守りとともに鈍い光を放ち続けていた。

 万年筆一本の恨みを掃除するのに、店が半壊して純金の延べ棒を渡される。

 差し引きで考えれば大儲けのはずなんですが、俺みたいな日銭を稼いで細々と生きてる人間に、ルートの怪しい金塊なんてのは「怖い」以外の何物でもないんです。

 あ、モモ。お前、さっきからそのブラックカードを爪研ぎにするのはやめろ。

 それ一枚で、お前のマグロフレークが何万袋買えると思ってるんだ。


 いや、使わなければ、ただの板きれか。

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