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第七話 白檀の香(前編)


 あー……胃が焼ける。

 昨晩、賞味期限が三日過ぎた半額の納豆を食ったせいか、それともこの湿気た店内に漂う「誰かの怨念」のせいか。

 今朝、ポストに放り込まれていたのは、福引きの当選通知じゃなく、容赦のない「電気料金改定のお知らせ」だった。

 平和だな。一円にもならねぇ平和だ。


 「五百円だ」


 丈一郎は、カウンターに置かれた一本の万年筆を、老眼鏡越しにじっと睨みつけながら言い放った。

 それはかつて、どこにでも売っていたであろう安物だった。


 軸には噛み跡が残り、インク漏れを防ぐためのパッキンもボロボロ、骨董的な価値など、砂粒ほども残っていない。


 「……五百円。そんな、たったそれっぽっちですか」


 目の前に立つ男は、くたびれた作業着の袖を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で丈一郎を見つめていた。

 

 「あんた、うちは古本屋だ。筆記具の買い取りは専門外。それを人情で引き受けてやるんだ、五百円でも出し過ぎなぐらいだぜ。第一、ペン先がこれだけ潰れてりゃ、もう文字も書けやしねぇ」


 丈一郎は鼻をすすり、指先に付いた古紙の脂を、ヨレヨレの半纏の裾で拭った。

 男は力なく項垂れ、結局、カウンターに置かれた百円玉五枚を震える手で掻き集め、逃げるように店を出て行った。


 「ナッ」


 足元の古本の山から、モモが短く、咎めるような声を上げ、薄汚れた三毛の背中が、苛立たしげに波打っている。


 「わかってるよ。……あんなもん、本来なら引き取った瞬間にゴミ箱行きだ。だが、あの万年筆についてる『未練』は、放っておくと後で高くつくからな。……掃除の手間を考えりゃ、五百円の出費は必要経費だ」


 丈一郎はため息をつき、問題の万年筆を手に取った、その瞬間、店内の空気がわずかに淀んだ。

 指先から伝わってくるのは、どす黒い恨みの震動、

それは小さな影となってペンの周囲にまとわりつき、カウンターの木材を薄っすらと腐食させていた。


 「……現代の負の遺産ってやつか。使い捨てられる道具の呪いなんざ、一銭の得にもなりゃしねぇ」


 丈一郎は腰をさすりながら立ち上がり、仏壇の奥で鈍い光を放つ「黄金のバングル」を一瞥した。

 本来なら、この程度の小さな怪異、店を閉めてからひっそりと処理して終わりのはずだった。


 だが。


 その時、店内のカビ臭い空気が、一瞬にして『凍った』、引き戸が開いた音はしなかった。

 代わりに、この寂れた古書店には到底不釣り合いな、冷たく透き通った香りが店内に溢れ出した。


 白檀、そして雷雨の後に残るようなオゾンの匂い。


 「……あら、思ったよりも、芯が通っていて、とても心地よい濁りだわ」


 鈴を転がすような、だが感情の温度が極端に削ぎ落とされた声。


 丈一郎が顔を上げると、そこにいたのは、時代から切り離されたような異彩を放つ若い女だった。

 汚れ一つない漆黒の僧衣を纏い、首には数種類の鉱石を組み合わせた、複雑な構造の数珠をかけている。


 彼女の周囲だけ、空気の解像度が異常に高い。

 埃が舞うことさえ許されないような、暴力的なまでの清浄さ。


 「……宗教勧誘なら、隣のコインランドリーの掲示板にでも貼ってきな」


 丈一郎は鼻を鳴らし、わざとらしく煙草を口に咥えだした、だが、女は丈一郎の拒絶など耳に入っていない様子で、真っ直ぐにカウンターへと歩み寄る。


 その足取りに、音はない。


 彼女が通り過ぎた場所から、古本のカビ臭さが一瞬で消え去り、代わりに冬の早朝のような冷気が満ちていく。


 「『数門(すうもん)』の四方よもあかりと申します。……環の掃除屋、環丈一郎さん。あなたのことは、以前から記録の中で拝見していました」


 「数門……」


 丈一郎の目が、わずかに細まった。


 妖怪駆除を組織的に行う、国内最大規模の宗教団体であり、ケチで非効率な個人事業主である丈一郎とは、いわば対極に位置する「エリート集団」だ。


 「そんな大層な組織の貴方様が、うちみたいな古本屋に何の用だ?」


 「あなたの、その『不器用な演奏』を聴きに来たのです」


 あかりはそう言うと、カウンターに置かれた、あのボロボロの万年筆を愛おしそうに見つめた。


 「洗練された私たちの術理とはあまりにかけ離れた、耳障りで、それでいて魂を揺さぶるような……完璧な不協和音」


 彼女の瞳に、熱い、だがどこか歪んだ光が宿る。

 それは「恋」と呼ぶにはあまりに鋭く、信仰と呼ぶにはあまりに偏執的だった。


 「……気色悪いことを言うんじゃねぇ」


 丈一郎が忌々しげに煙草の煙を吐き出すと、あかりは一歩、身を乗り出した。

 白檀の香りが、丈一郎の周囲を強引に蹂躙する。

 その時。丈一郎の膝が、ピクリと震えた。


 「ヌッ!」


 それまで死んだように百科事典の上で丸まっていたモモが、突然弾かれたように立ち上がった。

 だが、その態度はいつもの「警告」ではなかった。

 モモは、丈一郎すら見たことがないような、しなやかな足取りであかりへと歩み寄ると、彼女の僧衣の裾に、うっとりと顔を擦り付け始めたのだ。


 「……おい、モモ。お前、プライドはどうした」


 「あら、いい子ね。……最高級の龍涎香りゅうぜんこうの残り香。猫さんには、少し刺激が強すぎたかしら?」


 あかりが細い指でモモの顎の下を撫でると、モモは聞いたこともないような甘い声で「クルル……」と喉を鳴らした。


 完全に、買収されている。


 「……最悪だ」


 丈一郎が呻くように呟いたその瞬間にカウンターの上に置いてあった安物の万年筆が、限界を迎えたように「パキッ」と乾いた音を立てて割れた。

 割れた隙間から、ドロリとした黒い液体が溢れ出す。


 それは瞬く間に巨大化し、店内の古本を、棚ごと飲み込もうと蠢き始めた。


 「環さん。……あなたの奏でる音、私にアンプ(増幅)させてちょうだい」


 あかりが数珠をジャラリと鳴らす。


 その瞬間、丈一郎の黄金のバングルが、呼応するように「キィィィィン」と高く、痛いほどの共鳴音を上げた。


 「な、なんだ、勝手に共鳴させるな……!」


 丈一郎は忌々しげに煙草を吐き捨てると、カウンターを飛び越えた。

 その着地の瞬間、すでに彼の瞳からは世俗の濁りが消え、深淵を覗き込むような「掃除屋」の冷徹な光が宿っている。


 「……ヌッ(頑張れよ)」


 モモはといえば、あかりの足元で高級な龍涎香の残り香に包まれ、完全に戦闘放棄の構えだ。

 丈一郎はそれを見捨て、膨張を続ける「万年筆の怪異」へと視線を固定した。

 割れた破片を核にして、黒いインクが百足のような形状へと変貌し、書棚の隙間を這いずり回る。


 現代社会の「使い捨てられた憎悪」の塊。


 「カシャンッ!」


 丈一郎が腕を振るうと、分裂した数千の黄金リングが店内の空間を埋め尽くした。

 それは不規則に浮遊しているように見えて、実は怪異の移動経路を完璧に遮断する「幾何学的な檻」を形成している。


 「……いいわ。その金属音、不協和音。心が震える」


 あかりは戦闘の最中だというのに、惚けたような吐息を漏らし、数珠を一つ、また一つと指先で弾いた。

 彼女が数珠を弾くたび、店内の「音」が物理的な質量を持って歪んでいく。


 「うるせぇ。……おい、そこの女。手出しは無用だ。他所の組織が横から割り込んでくるんじゃねぇ」


 「あら、私はただの『観客』よ。……ただ、少しだけ音響設備を整えてあげたいだけ」


 あかりは微笑み、懐からずっしりと重そうな、金色の包みを取り出し、彼女はそれを、こともなげにカウンターに置く。


 中身が重くぶつかり合い、丈一郎の聴覚が、それが「本物の金塊」であることを瞬時に理解してしまった。


 「……これは、今日のあなたの演奏への『予約金』。これだけあれば、こんなカビ臭い古本、すべて買い取って燃やしてしまえるわ。そうすれば、あなたはもっと自由に、自身の音を追求できる……」


 「……燃やすだと?」


 丈一郎の眉間に、深い皺が寄った。


 「バカか、あんた。……本は、売るためにあるんだよ。一円でも高く、それを必要としてる奴の手に渡すために。……金塊だか何だか知らねぇが、そんな不純物を俺の店に持ち込むな。税務署にどう説明すりゃいいか、考えただけで胃に穴が空く」


 「フフッ。……その激昂、最高に心地よいわ」


 あかりの数珠が、激しく火花を散らした。


 丈一郎が展開したリングの共鳴音が、彼女の「調律」によって数倍の周波数へと引き上げられる。


 店内の空気が、キリキリと鳴りを上げた。

 空間固定されたリングが、丈一郎の意志を超えて赤熱し始める。


 「おい、強すぎる……! バングルが悲鳴を上げてんだよ、このバカ女!」


 「いいえ、もっといけるはずよ。……奏でなさい、環さん。この醜悪な万年筆を、一番綺麗な音で砕くために」


 黒いインクの百足が咆哮を上げ、丈一郎へと襲いかかる。

 だが、その背後には白檀の香りを漂わせ、恍惚の表情で数珠を構える「死神」のような美女。

 丈一郎は、自分の膝が「恐怖」ではなく、あかりが作り出す圧倒的な「震動」によってガクガクと震えているのを感じた。


 「……クソが!」


 丈一郎は空中に固定したリングを強く踏み抜き、重力を置き去りにして跳躍した。

 世知辛い古本屋の主人が、狂信的な音楽家あかりによって、無理やり戦場という名のステージへと引きずり上げられた瞬間だった。


 「ギィィィィィィン――!」


 蔵書がびっしりと詰まった狭い店内に、聴覚を物理的に削り取るような高音が荒れ狂った。 

 丈一郎の左手首から放たれた数千のリングが、あかりの数珠が放つ不可視の震動と干渉し、本来の「空間固定」の枠を超えて激しく励起れいきしている。


 「おい! 足場が揺れてんだよ! バカ女!」


 丈一郎は、空中に固定したリングを足場に、インクの巨体の頭上を疾走した。

 だが、踏みしめたリングはあかりの増幅アンプによって、まるで沸騰した湯のように微細に震え、熱を帯びている。

 一歩踏み出すごとに、サンダルの底が焼き切れるような異臭が鼻を突く。

 黒いインクの百足が、数万のペン先が触れ合うような不快な音を立てて鎌首をもたげる。


 それは万年筆の「書けなくなった」恨みをぶつけるように、鋭利な墨の飛礫つぶてを丈一郎へ一斉に放った。


 「ジャラッ」


 背後で、冷淡な、だがどこか楽しげな銀の音がした。


 「『休符ポーズ』」


 あかりが数珠の特定の珠を指先でなぞった瞬間、丈一郎の鼻先数センチの場所で、飛来した墨の礫が「停止」した。

 

 音がない。


 衝撃波も、空気の揺れも、そして丈一郎の荒い呼吸音さえもが、その空間から根こそぎ奪われた。


 完全な無音の檻。


 あかりは音を消したまま、丈一郎の背後に音もなく滑り込む。

 白檀の香りが、酸素の消えた空間で異常なほど鮮烈に漂った。


 「……今よ。この子の『喉』にある、不純な共鳴点を叩いて」


 静寂の中で、あかりの声だけが丈一郎の鼓膜を直接揺らし、彼女の細い指が、丈一郎の肩越しに空間の一点を指し示した。

 そこには音波の干渉によって生じた「光の歪み」が、獲物の弱点を曝け出すように赤く輝いている。


 「……勝手に指図すんじゃねぇっての!」


 丈一郎は無音の檻を蹴り破るように跳躍した。

 静寂が割れ、爆発的な「音」が世界に戻る。


 丈一郎は空中で身を捩り、右拳に十数個のリングをスライド連結させて纏わせた。

 あかりの増幅を受けたリングは、すでに黄金色を超え、青白い放電を伴う高密度の回転体へと変貌している。


 「キィィィィンッ!」


 拳がインクの百足の喉元、あかりが示した急所へと吸い込まれる。

 だが、拳が触れる寸前、あかりが数珠を強く擦り合わせた。


 「フォルテッシモ……さらに、高く」


 「ッ!? ……っ、ふざけんな!」


 リングが放つ共鳴音が、あかりの数珠を送信機として数万倍に跳ね上がる。


 ドォォォォォォォォンッ!


 衝突の瞬間、発生したのは打撃音ではなかった。


 それは蔵やビルを丸ごと一つ消滅させかねない、暴力的なまでの衝撃波だった、黒いインクの巨体が、内側から分子レベルで粉砕され、霧となって四散する。

 同時に、その余波は丈一郎本人をも容赦なく襲った。

 

 「がっ、あぁぁぁ……っ!」


 バングルの跳ね返りが丈一郎の肘と膝を直撃する。

 彼はそのまま、反対側の書棚「教養・実用書」コーナーへと背中から叩きつけられた。


 古い紙の粉塵が舞い、床に散らばった金塊が重い音を立てて転がる。


 「……ハァ、ハァ……。てめぇ、殺す気か……」


 丈一郎は、ヨレヨレの半纏の袖をボロボロにしながら、這い上がるように顔を上げた。

 右腕は痺れ、膝の皿が割れたような熱い痛みが走りだす、40代の肉体には、あまりに過剰すぎる「演出」だ。

 

 一方、あかりは一歩も動いていなかった。


 散らばったインクの霧も、激しい衝撃波も、彼女の周囲三尺に張られた「無音の結界」を傷つけることすらできていない。

 彼女はただ、恍惚とした表情で、自分の指先に残る丈一郎の「音」の余韻を味わっていた。


 「素晴らしいわ……。あなたの骨が軋む音、絶叫、そしてバングルが奏でる極限の不協和音。……これこそが、私の求めていた『魂の調律レゾナンス』」


 「……狂ってやがる。お前、掃除屋じゃなくて、ただの騒音公害だろ……」


 丈一郎が毒づきながら立ち上がろうとした、その時だ、散らばっていたインクの霧が、不自然な動きを見せた。

 それは空気中に消えるどころか、床に転がっていた「金塊」に吸い寄せられるように再結集を始めたのだ。


 「……おい、嘘だろ」


 怪異は消えていなかった。


 それどころか、あかりが持ち込んだ「高純度の欲望(金塊)」を核にして、現代の負の遺産はより硬質で、より貪欲な姿へと再構成されていく。


 万年筆の恨みが、黄金の輝きと混ざり合う。


 墨の黒に金の粒子が混じり、それはもはや使い捨ての文具などではない、成金趣味の龍のような、醜悪で強固な「黄金の百足」へと変貌を遂げた。


 「ナッ(ヤバい!)」


 モモがようやくあかりの膝から飛び降り、店内の最も安全な場所、二階へと続く階段の踊り場まで退避した。

 尻尾を苛立たしげに振り、主人の不運を哀れむような目でこちらを見下ろしている。

 あかりは、その黄金の化け物を見ても眉一つ動かさない。


 むしろ、より深い愛おしさを込めて丈一郎を見つめた。


 「あら、不純物が混ざったことで、音がさらに重厚になったわね。……ほら、環さん。まだ、終わっていないわ」


 「やかましい! あの金塊のせいで怪異がパワーアップしてんじゃねぇか! 誰がどう見てもマッチポンプだろうが!」


 丈一郎は冷え切った胃を抱え、痛む膝を強引に叩いて立ち上がった。


 目の前の黄金百足が、カウンターを噛み砕く。


 「……クソ。……おい、四方あかり。この後の修理費、請求してやるからな」


 「ええ。……好きなだけ、私を削って(むしって)ちょうだい。あなたの指先が、私の数珠を奏でるたびに、私はもっとあなたに尽くしたくなるのだから」


 あかりの数珠が、これまでで最も高く、不吉な鳴りを上げた。

 丈一郎は黄金の輪を再び展開し、迫り来る「黄金の負債」を迎え撃つべく、ボロボロの半纏を脱ぎ捨てた。

【作者より】

最後まで読んでいただきありがとうございます!

本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えていますが、丈一郎とモモの旅はまだまだここから熱く広がっていきます。


皆さんの感想や評価、ブックマークが、二人をより遠くへ走らせるための何よりの「ガソリン」になります。

「続きが読みたい!」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ応援よろしくお願いします!

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