第六話 紙を喰らうの顎(あぎと)(後編)
【作者より】
数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。
本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えており、丈一郎とモモの旅はさらにその先へと広がっています。
皆様からの感想やブックマークが、二人をより遠くへ進めるための何よりの「ガソリン」になります。
「続きが読みたい」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ旅の同行者として応援していただけると嬉しいです!
「ギ、ヂヂ、ヂヂヂ……ッ!」
蔵の中の空気が、鼓膜を削り取るような高周波の振動と共に震えだした、中央に鎮座する『無音の紙喰い』が、剥ぎ取った数万の文字を体内に取り込み、その半透明な身体を膨張させる。
蔵の天井を突き破らんばかりの巨躯へと変貌したその姿は、もはや形を成さない「忘却の渦」そのものだった。
顎を構成する数千の牙は、今や奪い取られた墨文字の粒子が凝集して鋼鉄以上の硬度を持ち、一噛みごとに蔵の壁に刻まれた古い木目や、柱の年輪すらも「屋敷の記憶」として咀嚼し、白化させていく。
「……文字の次は、建材か。お前、好き嫌いしねぇのは感心だが、食い意地が張りすぎなんだよ。食いすぎは、胃もたれするぞ」
丈一郎は空中に固定した三枚のリングを、バネが弾けるような鋭さで蹴り、逆さまの姿勢で猛烈な旋回を始めた。
背後からは、意思を持った数千の書状が、巨大な大蛇のようにのたうちながら丈一郎の四肢を絡め取ろうと迫る。
紙の端々は剃刀よりも鋭く研ぎ澄まされ、かすめるだけで半纏の繊維を切り裂いていく。
丈一郎は空中で身を捻り、左手首を一閃させた。
「キィィィィィン――」
分裂した五十を超える黄金の環が、丈一郎の周囲で高速回転する螺旋の防壁を形成する。
襲い来る書状の大蛇が環に触れた瞬間、紙面を滑るような硬質な金属音「カカカカカカッ!」という、火花を伴う連続音が蔵内に反響した。
行き場を失った大量の紙が、雪崩のように力なく床へと降り積もっていく。
「悪いな。紙の扱いは、古本屋の方が一枚上手なんだわ。湿気た紙の重さは、骨身に染みて知ってるんでね」
丈一郎はそのまま着地することなく、垂直の壁に固定したリングを足場に、重力を完全に無視して真横へと疾走しだした。
怪異が怒りの咆哮を上げる。
いや、それは音ではない。
かつてこの蔵で紡がれた、数百年分の祝辞、呪詛、恋文、そして最期の言葉、それらすべての情念が、物理的な質量を持った文字の礫となって一斉に放たれたのだ。
「ドォォッ!」
丈一郎の目の前で、蔵の太い支柱が波動をまともに喰らい、一瞬で色彩を失い灰白化して崩落した。
丈一郎はその崩れゆく瓦礫を瞬時に「足場」として、さらに上方へと駆け上がる。
蔵の梁にリングをスライド連結させ、巨大なコンパスのように弧を描いて怪異の頭上、死角へと回り込む。
「……さて、本題に入ろうぜ。一頁ずつ捲ってやるのも面倒だ。全巻まとめて、俺が買い取ってやる。値札はついてねぇがな」
丈一郎が空中で、右拳を万力のように握り込む。
分裂していた数百のリングが、磁石に吸い寄せられるように彼の拳へと収束し、複雑に噛み合う多重の積層構造を形成した。
環と環が火花を散らしながら、互いに逆方向へと超高速回転を始め、拳の周囲には「空間の密度」が臨界点に達したことによる、黒い視覚的な亀裂が生じ始める。
「ギ、ヂ、ヂアァァァァッ!!」
危機を察した『紙喰い』が、体内の数千の牙を一本の巨大な「文字の槍」へと収束させ、剥き出しの殺意と共に迎え撃つ。
黄金の輝きと、数百年分の情念が凝縮された墨文字の嵐が、蔵の中央で激突した。
「カシャンッ! ドォォォォォンッ!!」
衝突の瞬間、凄まじい衝撃波が蔵の厚い扉を内側から吹き飛ばした。
丈一郎の拳に纏った多重のリングが、怪異の「文字の槍」を先端から微塵切りに粉砕していく。
リングの放つ力が、怪異を構成する不確かな記憶の粒子を一つずつ捕らえ、強制的に「無機質なチリ」へと存在を上書きしていくようだった。
「……これ以上、婆さんの思い出を汚すんじゃねぇよ。死んだ奴の言葉は、残された奴が読むまで消しちゃいけねぇだろ」
彼は突き出した拳をさらに深く、怪異の核、九条家の初代が遺したとされる「始まりの書状」が埋まった中心部へと無理やりねじ込んだ。
黄金の環が怪異の体内を駆け巡り、内側からその存在確率を膨張させ、空間の許容量を突破させる。
「ガッ、シャァァァァァンッ!!」
蔵の中に、一瞬だけすべての音が消失する真空状態が訪れ始めた。
直後、膨れ上がった黄金の圧力が一気に限界を超えて弾け、怪異を構成していた数万の文字が、美しい光の雨となって蔵の隅々へと降り注いだ。
喰らわれ、行き場を失っていた記憶たちが、元の頁、元の墨痕へと導かれるようにして返っていく。
丈一郎は、空中に残った最後のリングを踏み台にし、膝を庇うように静かに床へと着地した。
崩落した瓦礫の埃が舞う中、彼は激しく腰と膝をさすり、大きく肩で息を吐いた。
「……はぁ。やっぱり、古い連中は……骨が折れるぜ」
黄金の光が収束し、元の黄金バングルとして左手首に戻る。
丈一郎は、真っ白な灰のようになった紙の山と、元の文字を取り戻しつつある古書を見つめ、静かに首を振った、その背中には、もはや「掃除屋」の威圧感はなく、ただ、自分の老いと節々の痛みに愚痴をこぼす、どこにでもいる古本屋の店主の影があった。
蔵を満たしていた不気味な熱気が引き、代わりに夜の底のような、シンと冷え切った静寂が戻ってきた。
宙を舞っていた文字の断片は、あるべき頁の、あるべき行へと吸い込まれるようにして沈着し、白化していた棚や柱も、煤けた本来の色を取り戻している。
丈一郎は、左手首に戻ったバングルの感触を確かめ、重い溜息を吐いた。
戦いの高揚が引くと同時に、全身の筋肉が鉛のように重くなり、特に関節の節々が、無理な挙動の代償を求めるように激しく疼き出す。
「……全く。九条の婆さんも、とんだもんを遺してくれたもんだ。死んでからも人使いが荒いのは、あの人の悪い癖だな」
膝の痛みは、先ほどまでの激戦の余韻として、心臓の鼓動に合わせるようにズキズキと波打っている。
丈一郎は、埃を被った古い文箱の山に、壊れたサンダルを脱ぎ捨てて腰を下ろした。
懐からシワの寄ったシャグの袋を取り出し、震える指先でタバコを巻く。
本来、蔵の中は火気厳禁の聖域だが、今はそんな細かいルールを気にする余裕も、それを咎める持ち主もいない。
ライターの火が灯り、白っぽい煙がゆっくりと天井へ立ち上る。
それは、墨と紙、そして永い時間が醸成した「歴史」の匂いに、安タバコの安っぽい香りを混ぜ合わせた、奇妙な調和だった。
「……さて、番人様。少し重すぎる報酬を期待してるぜ」
丈一郎が顔を上げると、蔵の入り口に、あの老紳士が再び姿を現していた。
先ほどまでの消え入りそうな透明感は消え、その輪郭は墨で描いたようにはっきりと、そして威厳を取り戻している。
彼は無言で一礼すると、蔵の奥から一冊の古びた文箱を恭しく運んできた。
その足取りには、主の記憶を守り抜いたという安堵と、環の掃除屋に対する静かな敬意が混じっていた。
「……環殿。此度の働き、実に見事であった。九条の家を代表し、心より感謝申し上げる。これが、約束の報酬と……そして、主の遺言の一部だ。奥方様は最期まで、この蔵が貴殿によって清められることを確信しておられた」
差し出された文箱の中には、金貨に加え、さらにもう一袋、ずっしりと重い朱色のポチ袋が添えられている。
丈一郎はそれを手に取り、掌でその確かな重量感を確認すると、満足げに鼻を鳴らした。
「遺言? 婆さんの説教なら、生前に嫌というほど聞かされたよ。『本の扱いが雑だ』とか『その半纏の袖をたまには洗え』とかよ。死んでからまで、小言の追撃は御免だ」
「いいえ。主はこう申しておりました。『もし蔵が荒れることがあれば、あのケチで、口の悪い古本屋を呼べ。あいつは金さえ積めば、たとえ世界がひっくり返っても、頁の一枚まで守り抜く、この街で唯一信頼できる不器用な男だ』と」
老紳士の言葉に、丈一郎は思わず咽せた。
煙が肺の奥に入り、激しく咳き込む。
「……ケチと口の悪さは余計だ。俺はただ、バランスを大事にしてるだけだ。商売の基本だろうが。それに、記憶なんてのは、残された奴が読むまで消しちゃいけねぇ。それが古本屋の矜持だ」
丈一郎は痛む腰を叩いて立ち上がり、砂と埃を落とした。
この屋敷の記憶は守られ、歴史を喰らおうとした古妖は、黄金のバングルによって叩きのめされた。
丈一郎は懐から、いつもより少し大きめのお守りを取り出し、蔵の空気にわずかに残った「顎」の最後の一欠片を吸い込ませた。
これで、明日の朝にはこの場所も、ただの古い蔵に戻り、九条家の歴史は静かに眠り続けるだろう。
「帰るぜ。あんたも、あんまり無理しすぎるなよ。今の時代、あんたらみたいな『格』を信じねぇ奴ばかりだ。存在が薄くなれば、消えるのは一瞬だ。消えちまったら、次の仕事が受注できねぇからな」
丈一郎は老紳士に背を向け、裏門へと続く竹林の道を、裸足に近い足取りで歩き出した。
ライトの片方が死んだ原付のエンジンをかけ、夜の冷たい空気の中を駆け抜ける。
風が熱を帯びた首筋を冷やし、膝の痛みが少しだけ和らぐ。
古書店の引き戸をそっと開けると、いつものようにカビ臭い空気と、待ちくたびれたモモの不機嫌そうな鳴き声が彼を迎えた。
「ヌッ(遅いぞ、腹が減った)」
「わかってるよ、モモ。今日は大金星だ。お前には約束通り、最高級のマグロフレーク、それも『金のだし』入りを買ってきた。俺は……コンビニで一番高いプレミアムなビールと、厚切りのハムカツで一人で祝杯だ」
丈一郎は仏壇の座布団の上に、黄金のバングルを静かに、そして慈しむように置いた。
バングルは、戦いの熱を失い、元の質素な、それでいてどこか神聖な輝きを湛えた「家の守り」に戻っている。
その隣にお守りを供え、チーン、と澄んだ鐘を鳴らした。
「……婆さん。あんたの遺言通り、意地汚く守り抜いてやったぜ。だから、今夜の酒代くらい、あの金貨から引かせてもらったからな。文句があるなら、夢にでも出てきな」
丈一郎はカウンターに腰を下ろし、モモががっつくマグロフレークの咀嚼音を聞きながら、自らの拳を見つめた。
数百年分の歴史と情念を叩き潰した拳は、今はただ、安タバコの匂いと、金貨の重みだけを覚えている。
掃除屋、環丈一郎。
彼は大きな欠伸を一つ吐くと、使い古された万年床へと、崩れるように倒れ込んだ。
数時間後には、また冷やかし客を相手にし、腰の痛みに文句を言いながら、古本の背表紙を磨く世知辛い日常が始まる。
環古書店の朝は、今日もカビ臭く、それでいてどこか静かな誇らしさを秘めて、ゆっくりと幕を開ける。
金貨を換金しにいったら、銀行の窓口で不審者を見るような目で見られました。
「これは歴史的資料としての価値が……」なんて御託を並べられましたが、俺は今すぐビールが飲みたかったんです。
あ、モモ。そのマグロフレーク、一袋いくらしたと思ってるんだ。
お前、俺のハムカツより高いのを食ってる自覚あるか?
……あぁ、膝が。今度の依頼は、せめて段差のない場所で完結させてください。
あいつら、俺の年齢も考えて現れてほしいもんです。
【作者より】
次回更新は来週の木曜日を予定しています。お楽しみに!
カビ臭い古本屋に、場違いな「香り」が漂い始めます。
物語が大きく動き出す一戦、お楽しみに!




