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第五話 紙を喰らう顎(あぎと)(前編)


 あー……今度は首が回らねぇ。

 昨晩、変な体勢で寝落ちしたせいか、それともこの湿気た店内の呪いか。

 今朝、商店街の福引きで当たった「三等・高級ティッシュ一箱」。

 鼻をかむには勿体ねぇが、これで尻を拭く勇気もねぇ。


 「……頼もう。環殿はおられるか」


 湿った空気を切り裂くような、凛とした声が店内に響いた。


 その声は、閉め切ったはずの戸の向こう側から、まるで古びた木の繊維を透かして染み出してきたかのように届いた。

 カウンターで昨日の売上金、指先で黒ずんだ小銭の山を数えていた丈一郎は、手を止めずに鼻をすすった。


 横ではモモが、珍しく百科事典の山の上で身を固くし、尻尾を苛立たしげにパタパタと畳みつけている。

 猫の目は、何もないはずの入り口の空間を、鋭く射抜いていた。


 「ヌッ……」


 「わかってるよ。……鍵は開いてる。勝手に入りな。ただし、敷居を跨ぐ前に足元の砂はしっかり落としていけよ。うちはルンバなんてハイカラなもんはねぇんだ、掃除の手間が増えるのは御免だぜ」


 丈一郎が投げやりに応じると、重い引き戸が、ひとりでに「ガラガラ……」と横に滑った。

 入ってきたのは、時代錯誤な紺色の着物に袴を合わせた老紳士だった。


 背筋は冬の竹のように真っ直ぐに伸び、手には銀の細工が施された蝙蝠傘こうもりがさを携えている。

 だが、その足元には影がなく、雨上がりだというのに足袋の白さは、雪のように一点の汚れもなかった。

 

 「相変わらず、無作法な店主よ。環の血を引き、この地を任されておきながら、礼儀の一文字も知らぬと見える。先代が泣いておるぞ」


 「あいにく、うちは教育機関じゃねぇ、寂れた古本屋でね。礼儀作法の本なら奥の『教養・実用』コーナーにあるが……あんたのような御仁が読むには、活字が少し眩しすぎるだろ。……で、何の用だ。土地神様の末端に連なる使いが、うちに何の御用だ。お布施なら、あいにく一円も持ち合わせちゃいねぇぞ」


 丈一郎は、指先で一円玉を弾きながら老紳士を薄い目で見上げた。

 この男、あるいは、この姿を借りた存在は、古くから熊本の山側に点在する古い蔵や屋敷を守護してきた、いわゆる「蔵の番人」に近い立ち位置の古妖だ。


 現代の承認欲求から生まれた薄っぺらな怪異とは、存在の質量が違う。

 老紳士は不快そうに眉を寄せると、カウンターの上に一冊の「本」を置いた。


 それは、本と呼ぶにはあまりに無惨な姿だった。


 和綴じの表紙はボロボロに引き裂かれ、頁の端々はまるで巨大な肉食獣に食い荒らされたかのように欠落している。

 それもただ破られたのではない。

 文字が書かれていた場所だけが、綺麗に削り取られているのだ。


 「……我が主の蔵が、得体の知れぬ何かに荒らされている。ネズミや虫の類ではない。あれは、紙の『記憶』だけを啜る、卑しきあぎとだ」


 「紙の記憶……。紙魚しみの親玉か何かか? 殺虫剤ならドラッグストアの方が安いぞ」


 「そうであれば、我らでも処置はできた。だが、あれは……『紙喰い(かみくい)』。古来より廃れた蔵の闇に棲みつき、主の執念や情念が籠もったふみを好んで喰らう、極めて質の悪い古参の妖だ。すでに蔵の三割が、文字を失ったただの白紙と化した。書かれた言葉が喰われれば、その事実すら歴史から消える」


 丈一郎は、無惨な本を指先でなぞった。


 指先に伝わるのは、ただの紙の感触ではない。書いた者の手のぬくもりや、綴られた言葉の温度が、無残に「剥ぎ取られた」後の、ひどく寒々しい虚無の感触だった。


 まるで死体の肌に触れているような感覚に、丈一郎の首筋が小さく粟立つ。


 「あの丘の上の『九条屋敷』の大奥様、確か先月亡くなったはずだろ。主を失って、蔵の結界が緩んだか。あるいは、相続争いの醜い念でも呼び寄せたか」


 「左様。主を失った蔵は、今や妖の食堂と化しておる。結界の継ぎ目が完全に解け、中の『記憶』がすべて喰らわれる前に、あの顎を断ち切らねばならぬ。環家の掃除屋……貴殿の力が、今こそ必要だ」


 老紳士は、懐からずっしりと重そうな、煤けた赤いポチ袋を取り出した。

 カウンターの木材の上に置かれたそれは、中身が紙幣などではなく、本物の「金」であることを確信させる、重く鈍い音を立てた。

 丈一郎の目が、一瞬だけ、いや、明確に守銭奴の光を宿して輝いた。


 「……金貨、か。いいぜ、その依頼、引き受けよう。ただし、追加料金が発生する場合は一円単位で請求させてもらうからな。移動のガソリン代、山道で痛める膝の湿布代、あと店を空ける間の機会損失費用……それと、猫の最高級マグロフレーク代だ」


 「相変わらず、情けを金に換えることしか考えぬ男よ……。だが、背に腹は代えられぬ。今宵、月が雲に隠れる刻限に、屋敷の裏門へ来られよ。案内は風に預けておく」


 老紳士は、それだけを冷淡に言い残すと、陽光に溶ける霧のように、音もなくその場から姿を消した。


 開いたままの引き戸から、湿った山の匂いが店内に流れ込む。

 店内に残されたのは、いつものカビ臭い空気と、カウンターに置かれた一袋の黄金の重み。

 丈一郎はポチ袋の中身を指先で確認すると、満足げに鼻を鳴らし、再びヨレヨレの半纏の襟を正した。


 「……おい、モモ。明日の朝飯は最高級のマグロフレークだぞ。しっかり店番してろよ。不審者が来たら、百科事典の角を落としてやれ」


 「ヌッ……」


 モモは、主人のあからさまな現金さに呆れたように、再び百科事典の山に顔を埋めた。

 丈一郎は仏壇の奥で鈍い光を放つ『黄金のバングル』を、今日一番の丁寧さで拭い始めた。

 

 古い妖怪、歴史を喰らう顎。


 その戦いが、自分の古傷にどれほど深く響くかを予感しながら、彼は冷え切ったアルミ鍋の味噌汁を一気に飲み干した。


 


 市街地の喧騒から切り離された丘の上。


 九条屋敷は、鬱蒼と茂る竹林に囲まれ、まるで外界の時間を拒絶するように静まり返っていた。

 夜の帳が降り、月が重い雲の裏側に隠れると、周囲の闇は一気にその濃度を増す。

 丈一郎は、ライトの片方が切れかかった原付を路肩に止め、不格好な足取りで裏門へと向かった。


 サンダルの底が濡れた落ち葉を踏みしめるたび、湿った土の匂いと、何かが永い時間をかけて腐敗していくような、甘ったるい死臭が鼻を突く。

 それは、かつて誰かが綴った言葉が命を失い、無に還っていく際の異臭だった。


 「……案内は風に預ける、なんて洒落たこと抜かしやがって。ただの藪蚊の溜まり場じゃねぇか。これだから、格の高い連中との仕事は嫌なんだよ」


 「……チッ、湿気てやがる」


 丈一郎は忌々しげに首筋を叩いた。

 ヨレヨレの半纏のポケットをさぐり、今朝の福引きで運良く手に入れた高級ティッシュを引っ張り出す。 鼻を無造作に拭ってから裏門の前に立つと、そこには案の定、昼間の老紳士が待っていた。


 だが、その姿は昼間よりもさらに薄く透け、足元の境界線が霧のように揺らいでいる。

 屋敷を守護する結界が崩壊し、守護役である彼自身の存在もまた、消失の危機に瀕しているのだ。


 主を失った場所から、意味が消えていく。


 「……遅いぞ、環殿。すでに『顎』は蔵の深奥、主が最も大切にしていた書状の束にまで達しておる。これ以上文字を奪われれば、この屋敷の記憶は空虚へと還り、我らもまた、語られることのない無へと消えるのみだ」


 「急かされなくてもわかってらぁ。バルサン一発で済む相手じゃねぇんだろ」


 老紳士は無言で、闇の奥に鎮座する巨大な蔵を指し示した。

 白壁はひび割れ、屋根瓦からは不気味なほど青々とした雑草が、まるで蔵の生命力を吸い上げるように伸びている。


 その蔵の隙間から、まるで生き物のように蠢く「無色透明な蒸気」が漏れ出していた。


 それは蒸気ではない。


 喰らわれ、意味を失い、ただの物質へと還元される寸前の「文字の断末魔」だ。

 その霧に触れた丈一郎の指先から、一瞬だけ、誰かの幼い頃の記憶が、熱を持ったノイズとなって流れ込み、すぐに消えた。


 丈一郎が蔵の重い二重扉に手をかけると、バングルを嵌めた左手首が、これまでにないほど激しく熱を帯びた。

 「キィィィィン……」という、空気を切り裂く共鳴音が、闇の中で孤独に響く。

 扉を開けた瞬間、肺の中の空気をすべて引き抜かれるような、強烈な負の圧力が彼を襲った。


 蔵の中は、音のない嵐が吹き荒れていた。


 棚に並んだ古書や巻物が、物理的な風もないのに激しく羽ばたき、その頁から「文字」が墨の粒子となって剥がれ落ちていく。

 剥がれた文字は空中で黒い霧となり、蔵の中央で渦巻く巨大な「空白の影」へと吸い込まれていた。


 そこにいたのは、形を持たない「顎」そのものだった。


 巨大な百足むかでのようでもあり、あるいは数千枚の刃を内包したシュレッダーのようでもある。

 数百の半透明な牙が、虚空を噛み砕くたびに、蔵の中に堆積していた数百年の歴史が、音もなく消滅していく。


 それは「破壊」ではなく「忘却」の化身だった。


 「……おいおい、思ってたより大食漢じゃねぇか。紙の記憶を喰うってんなら、俺の借金の記録もついでに喰ってくれりゃ助かるんだがな」


 丈一郎がわざとらしく軽口を叩いた瞬間、無音の顎がその向きを、不自然な角度で転換した。

 感情のない、だが底なしの空腹を感じさせる視線が丈一郎を貫く。


 「ギ、ヂ……」


 音が聞こえるのではない。


 脳内に直接、古びた紙が爪で引き裂かれるような不快な「振動」が叩き込まれた。

 次の瞬間、床に散らばっていた白紙の頁が、まるで剃刀の刃のような鋭利さを持って一斉に舞い上がった。

 数千枚の紙のつぶてが、猛烈な旋回をしながら丈一郎へと襲いかかる。


 それは単なる物理的な飛礫ではない。


 触れた者の記憶を、その皮膚から直接削り取り、魂を真っ白な紙へと変える「忘却の刃」。


 「キィィィィィン――」


 丈一郎の左手首で、黄金のバングルが爆発的に分裂した。


 「カシャンッ、カシャンッ、カシャンッ!」


 瞬時に展開された数十枚のリングが、丈一郎の周囲を複雑な幾何学模様の球状に囲い、完璧な防壁を形成する。

 衝突する紙の刃が、黄金の環に弾かれて、闇の中に火花を散らす。


 だが、その衝撃はいつもの薄っぺらな怪異とは比べものにならないほど重く、丈一郎の腕を激しく痺れさせた。

 

 歴史の重みが、そのまま打撃となって伝わってくる。


 「……古い連中ってのは、どいつもこいつも執念深い。伝統芸能の鑑賞料にしては、少し刺激が強すぎるぜ」


 丈一郎は防壁の隙間から、蔵の奥で蠢く「顎」の本体を睨み据えた。

 彼の瞳から世俗の欲が霧散し、深淵を覗き込むような冷徹な「掃除屋」の光が宿る。

 黄金のリングを足場に、丈一郎の体が不自然な加速を伴い、宙へと浮き上がった。


 蔵という閉ざされた小宇宙の中で、掃除屋と、歴史を喰らう古妖の、静かなる殺し合いが幕を開けようとしていた。


 そして、膝の痛みが、闘争の始まりを告げる合図のように、熱く疼いた。


【作者より】

最後まで読んでいただきありがとうございます!

本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えていますが、丈一郎とモモの旅はまだまだここから熱く広がっていきます。


皆さんの感想や評価、ブックマークが、二人をより遠くへ走らせるための何よりの「ガソリン」になります。

「続きが読みたい!」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ応援よろしくお願いします!

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