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第四話 雨に溶ける青い光(後編)

【作者より】

数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。

本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えており、丈一郎とモモの旅はさらにその先へと広がっています。

皆様からの感想やブックマークが、二人をより遠くへ進めるための何よりの「ガソリン」になります。

「続きが読みたい」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ旅の同行者として応援していただけると嬉しいです!


 「ガガッ、ギギギギギッ……!」

 

 怪異が、鼓膜を直接針で刺すような悲鳴を上げた。

 男の掲げるスマホから溢れ出した青い光の奔流が、降りしきる雨粒を強引に吸い込み、巨大な「放電する水の触手」へと変貌を遂げる。


 それは数千、数万の未読通知が物理的な質量を持った情報の鎖であり、一度捕らえれば標的の精神を底なしの情報の濁流に沈め、自己の境界が消失するまで責め立てる現代社会の責め苦そのものだ。

 

 「……うるせぇよ。文字の読みすぎ、画面の見すぎで頭が痛ぇんだ、こっちは。少しはボリューム絞れねぇのか」

 

 丈一郎は空中に固定した三枚のリングを足場に、重力を嘲笑うような角度で跳躍した。

 逆さまの姿勢で落下の加速を強め、背後から迫る青い触手がアスファルトを爆砕しながら彼を追う。


 丈一郎は着地する寸前、左手首を鋭く一閃させた。

 

 「キィィィィィン――」

 

 耳を劈く高周波と共に、黄金のリングが爆発的に分裂を開始する。

 十、二十、五十、分裂した環が、丈一郎の周囲で自律した意志を持つかのように複雑な幾何学模様を描き、飛来する放電の触手を次々と弾き飛ばした。


 衝突のたびに火花が雨の夜を青白く焼き、硬質な連結音「カシャン、カシャン」という音が、精密機械の鼓動のように鳴り響く。

 

 丈一郎の動きから、無駄な「揺らぎ」が一切消えた。


 彼は地を這うような低空の姿勢から、慣性を完全に無視して真横へと直角にスライドした。

 膝を曲げる、溜めを作る、といった人間特有の予備動作は存在しない。

 ただ「そこにあった座標」を書き換えたかのような不自然な高速移動。


 怪異が放った最大級の雷撃が、彼の残像があった場所を虚しく通り抜け、背後の街灯を木っ端微塵に粉砕した。

 

 「高くつくぞ、この商店街の修理代は」

 

 空中で、丈一郎の右拳に五枚のリングが収束した。

 五つのリングは彼の前腕に嵌まったまま、物理限界を超えた速度で超高速回転を開始する。


 「キィィィィィ……ッ!」


 回転によって生じた凄まじい風圧が周囲の雨を円状に弾き飛ばし、拳の周囲に完全な真空の層を作り出す。

 それはただの打撃ではない。空間そのものを螺旋状に削り取る穿孔せんこうの刃だ。

 

 「ドォォッ!」

 

 丈一郎の拳が、怪異の核である「発光するスマホ」へと吸い込まれた。

 ドリルのように捻じれた黄金の衝撃が、青い光の防壁を紙細工のように無造作に食い破る。   

 怪異を構成していた情報の残滓が、ガラスが砕けるような不快な音を立てて霧散し始めたが、敵もまた生存を賭けた最後の悪あがきを見せる。

 

 男の影から這い出した無数の「通知マーク」が、物理的な硬度を持って丈一郎の全身に絡みついた。

 『充電シテ』『承認シテ』『見テ』『返信シテ』。

 どろりとした黒い情報の泥が、彼の半纏を汚し、精神の隙間から脳髄へと這い上がろうとする。


 視界がノイズで塗りつぶされ、丈一郎の脳裏に「支払期限の過ぎた督促状」や「空っぽの預金通帳」といった現実の苦悩が、怪異の力で増幅されてフラッシュバックする。

 

 「……泥臭ぇ真似すんな。クリーニング代が、一回いくらすると思ってんだ。この半纏は、古いが俺の唯一の正装なんだよ」

 

 丈一郎は冷徹な瞳を崩さない。


 精神への侵食を、ただの「雑音」として意識の隅に放り投げる。


 彼は空中で両手を広げた。


 分裂した数百、数千のリングが、彼の指先の繊細な動きに連動し、怪異を取り囲む巨大な「球体」へと再構成される。

 

 「カシャンッ、カシャンッ、カシャンッ!」

 

 連結音の密度が増し、黄金の檻が青い怪異を完全に閉じ込めた。

 

 「……ふん!」

 

 丈一郎が掌を、万力のような力で強く握りしめる。

 

 「ガシャンッ!!」

 

 周囲に展開されていた全リングが、一瞬で中心点へと向かって「収縮」した。

 それは深海の底、数万トンの圧力に等しい、絶対的な暴力。

 怪異を構成していた青い光の糸も、醜い情報の残滓も、その圧倒的な黄金の圧力に耐えかねて、電子的な断末魔と共に粉々に粉砕された。

 

 情報の奔流が、ただの光の粒子となって冷たい雨の中に溶けていく。

 丈一郎は、何もない空間に「リングの足場」を固定しながら、一歩、また一歩と、階段を降りるように地上へと着地した。

 背後では、憑き物が落ちた男が、泥のように深い眠りに落ちてアスファルトに横たわっていた。

 

 「……膝が、笑ってやがる」

 

 着地した瞬間、丈一郎は激しい膝の痛みと疲労感に顔を顰めた。

 黄金の光が消え、寂れた商店街に再び、単調で重苦しい雨の音だけが戻ってくる。

 冷徹な「掃除屋」の輪郭が霧散し、そこにはただ、深夜の雨の中で切れたサンダルを見つめ、肩を落とす四十過ぎの独身男が取り残されていた。


 静寂が、雨音と共に降り積もる。


 先ほどまで路地を支配していた、青白い電光に焼かれたアスファルトの焦げ臭い匂いも、降りしきる雨が容赦なく洗い流していく。

 丈一郎は、左手首に一本の重厚な腕輪として戻ったバングルを、濡れて重くなった半纏の袖で無造作に拭った。


 その動作は、まるで一仕事を終えた職人が使い古した道具の手入れをするように淡々としていたが、さすっている膝の震えだけは隠しようもなかった。

 無理な空間固定を繰り返した代償が、鈍い痛みとなって骨の芯まで染み込んでいる。


 「……はぁ。アロンアルファどころか、これ、もう新品買った方が安いんじゃねぇか」


 足元を見れば、案の定、店で強引に補修したばかりのサンダルの鼻緒が、先ほどの負荷に耐えかねて無惨に引きちぎられていた。

 右足は完全に裸足になり、アスファルトのざらついた感触と、夜の雨水の冷たさが直接足裏に伝わってくる。


 丈一郎は忌々しげに舌打ちをすると、泥のように眠りこける男の傍らに、足を引き摺りながら歩み寄った、男の顔からは、あの異常なまでの青白い発光は消えていた。

 情報の過負荷によって焼き切れる寸前だった脳も、怪異が霧散したことでようやく安らぎを得たのだろう。


 男の手から滑り落ちたスマートフォンは、画面が粉々に砕け、内部の基盤が雨水に浸かって、ただの黒い板切れと化していた。


 「……兄ちゃん、悪いな。その板切れのデータ、おそらく全部飛んじまってるはずだ。お前が必死に守りたかった承認も、溜め込んだ未読の数字も、一円の価値もねぇゴミになっちまったよ。……だが、まぁ」


 丈一郎は懐から、古い和紙で作られた小さな「封印のお守り」を取り出した。

 空中に漂う、青い燐光の残り香が撒き散らした情報の残滓が、丈一郎の指先が描く円に導かれるようにして、お守りの中へと吸い込まれていく。

 

 「空っぽのバッテリーのまま走り続けるよりは、一度止まって、自分が今どこに立ってるか確認する方がマシだろ。……ま、目が覚めたら真っ先に、文明の利器を失った絶望に打ちひしがれるだろうがな。それは俺の専門外だ」


 お守りの表面に、一瞬だけ黄金の紋様が浮かび上がり、すぐに静かな白地へと戻った。

 これで今回の「掃除」は完了だ。


 丈一郎は眠る男のポケットに、自分の店である「環古書店」の、ショップカードをねじ込んだ。

 裏には殴り書きで『スマホの修理屋じゃねぇ。古本なら一冊百円から置いてやる。暇なら来い』とだけ記してある。


 「……さて。帰るか。サバ缶は無理でも、賞味期限切れのサンドイッチがまだ半分、冷蔵庫に残ってたはずだ。あれを肴に一杯やらねぇと、膝が爆発しちまう」


 丈一郎は、片足はボロボロのサンダル、片足は裸足という、この世で最も情けない「最強の掃除屋」の姿で、ひょこひょこと不格好な足取りで商店街を引き返した。


 雨に濡れたマンホールの蓋が、裸足の裏にひやりと冷たい。




 店に戻り、重い引き戸を「ガラガラ……」と開けると、そこには案の定、退屈を絵に描いたような顔をしたモモが待っていた。

 彼女は百科事典の山から降り、カウンターの上で丁寧に前足を舐めていたが、丈一郎の無様な姿を見るなり、片目を薄く開けて鼻を短く鳴らした。


 「フンッ(まーたサンダルを壊したのか、この無能店主は。見ていて滑稽だ)」


 「笑うな。これでも一人の人生、ギリギリのところで繋ぎ止めてきたんだ」


 丈一郎は溜息を吐きながら、カウンター奥の小さな仏壇の前に立った。

 黄金のバングルを無造作に座布団の上へ戻し、先ほどのお守りをその横に供える。チーン、と澄んだ鐘の音が店内に響き、残った雨音に混ざって、古い本棚の隙間へと吸い込まれていった。


 これが環家の、そして古本屋店主としての、ささやかな供養の作法だった。


 「ナッ」


 モモがカウンターから飛び降り、丈一郎の足元に寄ってきた。

 珍しく甘えるのかと思いきや、彼女は丈一郎の裸足の指先を冷たい鼻でツンと突き、そのまま餌皿の方へと歩いていった。


 「……わかったよ、飯だろ。ったく、俺の晩飯より先に、お前のランクを戻してやらなきゃならねぇとはな。このままだと、俺のサンドイッチまでお前に召し上げられそうだ」


 丈一郎は痛む腰をさすりながら、棚の奥から「特売」のシールが貼られたキャットフードの袋を取り出した。

 

 「ナッ(早くしろ)」


 「ナッ、じゃねぇよ。お前も少しはネズミでも捕って、店を助ける努力をしろと言ってるだろ」


 文句を言いながらも、丈一郎の口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 怪異を倒し、世界を救うような大義名分など、このカビ臭い古本屋には必要ない。


 ただ、明日もこの店を開け、猫の腹を満たし、安タバコの煙を天井へと吐き出すための小銭と平穏があれば、それでいい。

 外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。


 雲の切れ間から、夜明け前の薄い光が寂れた熊本の商店街を照らし始める。


 丈一郎は安タバコの煙を天井へと吐き出し、湿気で少し反ってしまった「本日のおすすめ」の看板を、明日こそは書き直さなければならないと考えながら、万年床へと身を沈めた。


 環古書店の、世知辛くも穏やかな、いつも通りの朝がもうすぐそこまで来ていた。



 結局、アロンアルファの在庫はありませんでした。

 裸足で歩いたおかげで足の裏が真っ黒です。


 石鹸で洗うのも面倒ですが、百科事典に足跡をつけるとモモに本気で引っ掻かれるので、渋々洗面所へ向かいます。

 え? 次回作? ……膝に水が溜まっていないか確認してからにしてください。

 ったく、現代の若者も、怪異も、もう少し「残量」を大事にしてほしいもんです。あいつ、次に店に来る時は、ちゃんと一冊くらい本を買っていきやがれ。

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