第三話 雨に溶ける青い光(前編)
あー……膝まで痛ぇ。
外は予報通りの土砂降りだ。
雨の日は嫌いじゃない。
だが、湿気で本が反るのだけは勘弁してほしい。
さて、今日のノルマは雨漏りする天井のバケツ交換だが……動くたびに膝が笑うのは、仕様か、それともただの老いか。
「ガラガラ……」と、重い引き戸が湿った音を立てて開いた。
といっても、客ではない。
建付けの悪い戸が、吹き込んできた雨風に煽られて勝手に動いただけだ。
環古書店の店内は、水没した沈没船のように静まり返っている。
店主の環 丈一郎は、カウンターの奥で一人、小さな電熱器にかけたアルミ鍋を眺めていた。
中身は、昨日の残りの味噌汁に、ひどくふやけた麩が二つ。
「……雨、止まねぇなぁ」
独り言に答える者はいない。
カウンターの隅では、三毛猫のモモが普段の「特等席」である円座クッションを放棄し、本棚の最上段、最も乾燥した百科事典の山の上で香箱を組んでいた。
「ヌッ」
短く、拒絶に近い鳴き声。
「湿気が毛にくるから話しかけるな」という意味だろう、丈一郎は鼻をすすり、ヨレヨレの半纏の襟を合わせた。
午前中に店を覗いたのは、道を尋ねてきたヤマトの配達員と、軒先で勝手に雨宿りをしていった野良犬だけだ。
どちらも一円の得にもなりゃしない。
「おい、モモ。今夜は豪華にサバ缶でも開けようと思ったが、このままだと乾き物すら怪しいぞ。お前、たまには客を招く招き猫らしい仕事でもしたらどうだ」
丈一郎は半纏のポケットをまさぐり、シワの寄った紙巻煙草の袋を取り出した。
湿気を含んだタバコの葉は、いつもより指先にねっとりとまとわりついた。
手慣れた動作で紙を巻き、安物のライターで火をつける。
シュボッ、という小さな音が、雨音に塗りつぶされていく、紫煙が、カビと古紙の匂いが充満した店内に、どんよりと停滞した。
ふと、店外のアーケードに目を向ける。
熊本の古い商店街。
もともと人通りが少ない場所だが、雨に濡れたアスファルトが、街灯の鈍い光を反射して、まるで底なしの黒い鏡のように光っている。
その鏡の向こう側。
視界の端で、妙な「光」が跳ねた。
それは、パトカーの赤色灯でも、自販機のネオンでもない、もっと寒々しい、デジタルの液晶が死に際に放つような、青白い光の断片だ。
「……チッ。雨の日は、これだから嫌なんだ」
丈一郎は、わざとらしく大きく膝をさすった。
古傷なのか持病なのか、関節の奥が、熱を持ったようにズキリと疼く。
この店には、捨てられた言葉や、誰にも読まれなくなった感情が、雨の湿気に乗って泥のように流れ着く。
特に今日のような、人の気配が完全に途絶えた雨の夜は、それらが「形」を成しやすいのだ。
店外の暗がりに、ぼんやりと人影のようなものが浮かび上がった。
傘も差さず、土砂降りの中に立ち尽くしている。
その影は、青白い光を放つ板切れ、スマートフォンを、両手で拝むように掲げていた。
画面から漏れる光が、男の顔を不気味に青く染めている。
だが、その男の目は、画面を見ていない。
虚空を凝視し、口をパクパクと動かして、何かを必死に飲み込もうとしている。
「……足りない。……が、足りない……」
男の声は、雨音に混ざってひどく掠れていた。
男の背後。
雨粒が空中で静止し、歪な「青い糸」となって男の全身に絡みついているのが見えた。
それは光ファイバーのようでもあり、蠢く血管のようでもある。
現代の空虚が生んだ寄生虫だ。
男の掲げたスマホから、パチパチと青い火花が散る。
怪異は男の神経に直接プラグを差し込み、その精神を、終わりのない「検索」と「更新」のループに叩き込んでいる。
「ヌッ」
モモが百科事典の上でようやく立ち上がり、背中を丸めて低く唸った。
丈一郎の膝は、もう限界まで悲鳴を上げている。
「……サービス残業確定かよ」
丈一郎は、最後の一服を深く吸い込み、灰皿の底で丁寧に火を消した。
そしてゆっくりと、カウンターの奥、薄暗い仏壇へと手を伸ばす。
埃を被った座布団の上で、鈍く、しかし威圧的な光を放つ『黄金のバングル』が、主人の指先を待っていた。
ずしりとした金属の重みが、左手首に伝わる。
それと同時に、丈一郎の瞳から「ケチな店主」の温かみが、急速に引いていった。
「モモ、店番頼むぞ。……帰りにエサ、買ってくるからな」
丈一郎は、雨漏りを受けるバケツを器用に跨ぎ、サンダルを鳴らして冷たい雨の中へと一歩を踏み出した。
暗い商店街の奥で、青い火花が一段と大きく爆ぜた。
雨脚は一段と強まり、アーケードの古いトタン屋根を叩く音は、まるで無数の小石をぶち撒けたような喧騒と化していた。
丈一郎は、切れた鼻緒をアロンアルファで強引に補修したサンダルが、汚れた雨水を撥ね上げるのも構わず、青白い光が明滅する路地へと足を進める。
一歩踏み出すたびに膝の関節が「ギチッ」と嫌な音を立てるが、バングルを嵌めた左手首から伝わる冷徹な魔力が、その痛みさえも強制的に「情報のノイズ」として処理し、意識の端へと追いやっていた。
「……おい、兄ちゃん。そのスマホ、だいぶ熱持ってんぞ。リチウム電池が火を吹く前に、手を離した方が身のためだ」
丈一郎の声は、厚い雨の壁に吸い込まれることなく、低く鋭く男の背中に突き刺さった。
路地裏にうずくまっていた男が、ビクリと肩を跳ねさせる。
男の首筋には、スマホの端子から伸びた青い発光繊維の触手が、まるで吸血ヒルか何かのように深く食い込み、男の生体電流を逆流させていた。
「……あと、少し……。あと数パーセント、充電が溜まれば……僕は、忘れられないで済むんだ。通知が、通知が来れば、僕はまだ、世界の一部だって証明できる……」
男の言葉は支離滅裂だった。
その目は不自然に落ち窪み、瞳には絶え間なく流れる情報のスクロールが反射して、人間らしい光を完全に奪っている。
男が拝むように掲げるスマホの画面には、真っ赤な警告文字が並んでいた。
『システム警告:バッテリー残量、マイナス140%。外部生命エネルギーを補填してください』
物理的にありえない数値。
それは、この男がすでに己の生命力という「電力」を使い果たし、魂の貯金を切り崩して情報の海に繋ぎ止めている末期症状の証拠だった。
飢えた獣のように男の理性を喰らい尽くし、さらなる「熱」を求めて周囲を侵食し始めている。
「マイナス140ってのは、うちの帳簿ならとっくに倒産レベルだ。……そこまでして何が見てぇんだ?」
怪異が、丈一郎を明確な「外敵」として認識した。
男の背後に蠢いていた青い光の糸が、一斉に逆立ち、猛烈な放電を開始する。
「ギィ、ィィィ、ィィィィィッ!」
大気を震わせる不快な高周波。
雨粒が男の周囲で一瞬にして蒸発し、白い霧となって立ち込める。
その霧の奥で、怪異は男を苗床にしたまま、その影を巨大な「真空管」のような異形へと変貌させた。
「キィィィィィン――」
それに応えるように、丈一郎の左手首から黄金の共鳴音が響いた。
一本だったバングルが、不可視の境界を越えて分裂し、瞬時に三本の環となって宙を舞う。
怪異の放電触手が、槍のように鋭く研ぎ澄まされ、雨の幕を切り裂いて丈一郎の眉間を狙う。
「……ったく、電気代の督促状並みに容赦がねぇな」
丈一郎は動じない。
突き出された青い電光の槍が届く寸前、彼はわずかに右足を引いた。
その着地地点。何もない空中に、分裂したリングの一枚が、アスファルトから数センチ浮いた「空間の座標」でピタリと固定される。
「カツンッ」
濡れたサンダルの底が、黄金の環を捉えた。
通常なら滑るはずの雨の中、丈一郎の体は物理法則を嘲笑うかのように、斜め上方の「空虚」へと直角に加速した。
電光の槍が虚空を突き抜け、背後の閉まったシャッターに深い焦げ跡を刻む。
丈一郎は空中に固定した二枚目、三枚目のリングを階段にするように駆け上がった。
四十過ぎの、膝を病んだ男の動きではない。
それは、空間というキャンバスに自身の質量を強制的に書き換えていく、残酷なまでの「最適解」の連続だった。
「……まずは、そのプラグを抜かせてもらうぜ」
空中で旋回した丈一郎の指先が、印を結ぶように怪異の急所、男の首筋に食い込む青い触手へと向けられた。
分裂した十数枚のリングが、彼の意思を受けて一斉に射出される。
連結し、鎖と化した黄金の環が、放電の嵐を潜り抜け、怪異の核へと食らいつこうと牙を剥いた。
だが、怪異もさるもの。
男が握りしめていたスマホが、過負荷によって真っ赤に加熱し、そこから目を開けていられないほどの光の奔流が溢れ出した。
情報の過負荷。
それは、周囲一帯の電子機器を一時的にマヒさせ、人間の脳を焼き切るほどの爆発だった。
「……ああ、面倒くせぇ」
丈一郎の瞳から、世俗の煩わしさが消え、さらに深く、冷徹な色に塗りつぶされていく。
黄金の光と青い放電が、激しく降りしきる雨の中でぶつかり合い、寂れた商店街の一角を、白日のような残酷な明るさで照らし出した。
【作者より】
最後まで読んでいただきありがとうございます!
本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えていますが、丈一郎とモモの旅はまだまだここから熱く広がっていきます。
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「続きが読みたい!」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ応援よろしくお願いします!




