第ニ話 古本と通知(後編)
【作者より】
数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。
本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えており、丈一郎とモモの旅はさらにその先へと広がっています。
皆様からの感想やブックマークが、二人をより遠くへ進めるための何よりの「ガソリン」になります。
「続きが読みたい」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ旅の同行者として応援していただけると嬉しいです!
「ガガ、ギギギ……ッ!」
怪異が咆哮を上げる。
全身を構成する割れた液晶パネルが、激しい不協和音を奏でながら赤黒く発光した。
男を飲み込もうとしていた情報の奔流が、今度は明確な殺意となって丈一郎へと牙を剥く。
無数の「通知マーク」が、物理的な硬度を伴う弾丸となって射出された。
それはかつての礫打ちとは比較にならない密度だ。
シュシュシュ、と空気を切り裂く不快な高音が、夜のパーキングを埋め尽くす。
「……おい、こっちの集中力もタダじゃねぇんだ」
丈一郎は吐き捨てるように呟くと、左手首を鋭く振った。
「キィィィィィン――」
耳を劈く共鳴音と共に、黄金のリングが爆発的に分裂を始める。
周囲に浮遊していた二十のリングが、弾けるように散り、丈一郎を囲むように幾何学的な軌道を描き始めた。
「カシャンッ、カシャンッ、カシャンッ!」
硬質な連結音が連続する。
リングは空中に静止したまま互いを噛み合わせ、丈一郎を保護する「多面体の防壁」を形成した。
飛来する赤い通知の弾丸がリングの表面に衝突し、激しい火花を散らして虚空へと霧散していく。
衝撃が伝わるたびにリングが微細に震え、その振動が丈一郎の腕に伝わった。
「……さて。老体に鞭打つ時間だ」
丈一郎は地を蹴った。
彼の動きには「予備動作」がない。
通常、人間が跳躍する際には膝を曲げ、重心を落とす必要がある。
だが、彼の古武術の本質は『慣性無視』にある。
立ち姿勢のまま、まるで映像をコマ送りしたかのような不自然な加速。
彼は一瞬で、怪異の懐へと滑り込んだ。
怪異が巨大な腕を振り下ろす。
液晶パネルが剥がれ落ち、刃のように研ぎ澄まされた情報の塊。
コンクリートを粉砕するほどの一撃が丈一郎の脳天を狙う。
だが、その拳が届く寸前、丈一郎の体は真横へと「スライド」した。
空中に固定した三枚のリングを支点に、コンパスが円を描くように軌道を変えたのだ。
物理的な限界を超えた急旋回。そこには遠心力に抗う不自然な美しさがあった。
「ドォォッ!」
丈一郎の右拳が、怪異の脇腹へと吸い込まれた。
拳の周囲には三つのリングが重なり合い、火花を散らして超高速回転を始めている。
これは打撃ではない。
穿孔だ。
ドリルのように捻じれたエネルギーが怪異の液晶装甲を噛み砕き、内部に潜む黒い影を強引に引きずり出す。
ガラスが砕けるような不快な音が夜の闇に響き渡った。
「ギ、ギガッ……ア、アアアッ!」
「痛いか? だが、俺の慢性的な腰痛に比べれば、その程度の破損はカスみたいなもんだ」
丈一郎の瞳は、どこまでも冷徹だ。
彼はそのまま空中で左足を突き出した。
何もない空間。
そこにあるはずのない「足場」を、彼は確かな感触と共に踏みつける。
「カツンッ」
黄金のリングが空中で一ミリの狂いもなく固定され、丈一郎の全体重と反動を受け止める。
そのリングを蹴り、彼はさらに加速した。
空中。
垂直。
逆さま。
重力という概念が消えたかのように、丈一郎は縦横無尽に夜空を駆ける。
分裂したリングを連結させて怪異の腕を絡め取る。
関節の概念がないはずの怪異の体を、リングの強固な締め付けが物理的にねじ切っていく。
ギチギチと、現実の物理法則とバングルの魔力がせめぎ合う音が、男の悲鳴と重なった。
「……これ以上長引くと、店に帰ってからの帳簿付けが億劫になる」
丈一郎が両手を広げると、バングルが限界まで分裂を開始した。
十、百、千――。
夜空を埋め尽くす黄金の環。
それらは複雑な軌道を描きながら、怪異の周囲を完璧な球状に取り囲んだ。
「……ふん!」
丈一郎が掌を握りしめる。
「ガシャンッ!!」
巨大な黄金の檻が、一瞬で中心へと向かって縮小した。
その圧力は、深海の底にも等しい。
怪異を構成していた情報の残滓が、黄金の圧力に耐えかねて、悲鳴のような電子音と共に粉砕されていく。
火花とノイズが霧散し、パーキングには再び、重苦しい静寂が戻ってきた。
圧倒的な破壊の余韻。
爆散する怪異の残光を背に、丈一郎は静かにアスファルトに着地した。
その瞬間、パチン、と乾いた音がした。
「……チッ。サンダルの鼻緒がイカれたか」
丈一郎は切れた鼻緒を忌々しげに見つめた。
冷徹な「掃除屋」の空気は霧消し、そこにはただ、深夜の寒空の下で故障した履物に肩を落とす、四十過ぎの店主の姿があった。
静寂が戻ったパーキングには、焦げた電子部品のような鼻を突く臭いと、湿った夜露の匂いだけが停滞していた。
丈一郎は切れたサンダルの鼻緒を指先で弄びながら、大きく、今日一番の溜息をついた。
「……全く。深夜の臨時出動手当は、あのアホ面を見る限り期待できそうにねぇな。湿布の追加購入費を差し引いたら、完全に赤字だ。商売あがったりだよ、おい」
足元では、先ほどの男が糸の切れた人形のように突っ伏していた。
怪異が霧散したことで、彼を呪縛していた「情報の枷」も消え去ったのだろう。
今はただ、泥のように深い眠りに落ちている。
その寝顔は、店に来た時のような悲壮感はなく、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
丈一郎は懐から、古い和紙で作られた小さな「封印のお守り」を取り出した。
空中に漂う、怪異の残り香のような淡い光の粒。
それを指先で手招きするようにして、お守りの中へと丁寧に吸い込ませていく。
「……ほらよ。あんな汚ねぇ欲望にまみれて膨れ上がるより、この中で大人しく供養される方が幾分かマシだろ。極楽に行ける保証はねぇが、少なくとも『既読スルー』に怯える必要はなくなる」
お守りの表面に、一瞬だけ黄金の紋様が浮かび上がり、すぐに吸い込まれるように消えた。
これで一仕事完了だ。
丈一郎はバングルを元の形、一本の腕輪へと戻し、手首を軽く回した。
ギチギチと関節が悲鳴を上げ、その振動が直接脳髄まで響く。
「さて、寝るか……いや、その前にサンダルだ。このままじゃ足の裏が真っ黒になっちまう」
彼は片足を裸足のまま、ひょこひょこと不格好な足取りで歩き出した。
目指すは、環古書店。
商店街の入り口まで戻ると、閉まったシャッターの隙間から、わずかに二階の明かりが漏れているのが見えた。
店の重い引き戸を「ガラガラ……」と開けると、使い古された紙の匂いと、微かな「モモの気配」が鼻をくすぐった。
「ただいま、って言っても誰も返事しねぇか。わかってたことだけどよ」
丈一郎がカウンターの奥へ入ると、そこには案の定、モモが「私の席だ」と言わんばかりに円座クッションの真ん中で丸まっていた。
「ヌッ」
モモが片目だけを薄く開け、丈一郎の無様な裸足を見て鼻を鳴らす。
「フンッ(まーた無駄な損害を出したのか、この無能店主は)」
「笑うなよ。これでも兄ちゃんの命を救ってやったんだぞ。……まぁ、あいつが明日、あの本をまた別の店に持っていくのか、それとも真っ当に読み始めるのかは、俺の知ったことじゃないがな。せめて一ページくらいは、自分の頭で考えて読んでほしいもんだ」
丈一郎はカウンターの隅にある小さな仏壇の前に立ち、先ほどのお守りを供えた。
チーン、と小さな鐘の音が店内に響く。
これは、環古書店のもう一つの顔。
この世の歪みからこぼれ落ちた「怪異」を、一時的に預かり、やがて浄化するための場所。
「ナッ」
モモがようやくクッションから降り、丈一郎の足元に寄ってきた。
甘えるのかと思いきや、彼女は丈一郎が大事にしている「少し高めの在庫、江戸時代の和本」の入った棚の角に、これ見よがしに体を擦り付けた。
「あぁっ! コラ、モモ! そこに毛をつけるなって言ってるだろ! その本、売れたらお前のカリカリ三ヶ月分なんだからな!」
「ナッ(知るか。腹が減った、飯をよこせ)」
丈一郎は悲鳴を上げながら、慌てて抜け毛を取り除こうとして、案の定、腰を激しくひねった。
「ぐ、ぎぎ……ッ! あ、あああ……腰が、腰が死ぬ……ッ! モモ、お前、わざとやったろ、今の……!」
夜の商店街に、世界を救った「掃除屋」の威厳はどこにもない。
ただ、猫の抜け毛と格闘し、損害と持病の腰痛に悶絶する男の、情けない声が響くだけだった。
「……はぁ。明日は、もっと景気のいい、それでいて腰に優しい依頼が舞い込んでこねぇかなぁ。……おいモモ、そんなゴミを見るような目で見るな。お前のカリカリ、明日からはちゃんと……いや、特売の中級のやつに戻してやるから。それで勘弁してくれ」
丈一郎は痛む腰をさすりながら、安タバコの煙を天井へと吐き出した。
古びた店のシャッターの隙間から、薄明るくなってきた空が見える。
今日もまた、環古書店の世知辛く、そして救いようのないほど平凡な一日が始まろうとしていた。
とりあえず、サンダルを直すアロンアルファの在庫、あったかな……。
どうにか、朝のスーパーの特売には間に合いそうです。
腰の痛みは取れませんが、とりあえずモモの機嫌が(飯で)直ったようなので、良しとしましょう。
え? 昨日の利益? ……聞かないでください。
サンダルの修理代と湿布代で、トータル赤字ですよ。
まったくなぁ、妖怪退治もボランティアじゃねぇんだぞ。




