第一話 古本と通知(前編)
あー……腰が痛い。
最近の若い奴らは本を読まない。
読むとしてもスマホの板切れだ。
おかげでうちの在庫は、日に日にカビと埃の熟成が進んいく。
さて、今日のノルマは百円均一コーナーの整理だが……動くたびに骨が軋むのは、仕様か、それとも呪いか。
「……一、二、三……。おい、モモ。計算が合わんぞ」
環古書店のカウンター。
店主の環 丈一郎は、手垢で黒ずんだ電卓を叩きながら、喉の奥で湿った声を漏らした。
目の前には、十円玉と五円玉、それに数枚のお金が不規則に並んでいる。
今日の午後の総売上、千百八十七円。
近所の小学生達が握りしめてきた小銭と、通りすがりの老人が買っていった型落ちの園芸本の対価だ。
「ナッ」
カウンターの隅、一番陽当たりの良い特等席に陣取った三毛猫のモモが、短く、そして冷淡に鳴いた。
「私の知ったことか」とでも言いたげなトーンだ。
「知ったことか、じゃない。お前のその毛並みを維持するカリカリ代、今のペースだと一週間後にはランクが二つ落ちるからな。鰹節のトッピングは夢のまた夢だぞ」
丈一郎はヨレヨレの半纏をかき回し、胸ポケットからシワの寄った紙巻煙草の袋を取り出した。
安物のシャグを一本、手慣れた手つきで巻く。
火をつけると、カビ臭い店内に、ツンとした安タバコの煙が混ざり合った。
店内の空気は重い。
迷路のように入り組んだ本棚には、昭和の百科事典や、背表紙の焼けた官能小説、用途不明の技術書がひしめき合っている。
ここは知識の宝庫などという高尚な場所ではない。
情報の墓場だ。
丈一郎は、カウンターの下に隠した腰痛ベルトをこっそり締め直した。
四十歳を過ぎてからというもの、重い百科事典のセットを運ぶたびに、腰が悲鳴をあげる。
「はぁ……。どっかの大富豪が間違えて、初版の稀覯本でも売りに来ねぇかなぁ。もしくは、この棚の裏に埋蔵金でも……」
「ヌッ」
モモが突然、寝返りを打つふりをして丈一郎の円座クッションを占拠した。
「おい! そこは俺の生命線だって言ってるだろ……退け。腰に響くんだよ、その場所は」
丈一郎がモモをどかそうと手を伸ばした、その時だった。
カラン、という力ないドアベルの音がした。
入ってきたのは、顔色の悪い、痩せ細った男だった。
二十代半ばだろうか。
清潔感はあるが、その目は不自然に落ち窪み、視線は定まらずに宙を彷徨っている。
「……あの……ここ、買い取って、くれるって……」
男が差し出したのは、一冊の真新しいビジネス書だった。
タイトルは『最短で成功する現代の勝者たちへ』。
丈一郎はタバコをくゆらせたまま、半開きの目で本を手に取った。
「新刊か。状態は良いが……この手のは鮮度が命でね。二週間もすればゴミ同然だ。買い取りは……そうだな、五百五十円」
「五百五十……そんな……。これ、三千円もしたんです。もっと、もっと価値があるはずだ!」
男の声が、一瞬だけ異様な高音に跳ね上がった。
丈一郎は動じない。
五百五十円の価値をこれ以上、高値にするわけにはいかないのだ。
それは彼にとっての死活問題だ。
「価値を決めるのはお前じゃない、市場だ。嫌なら他へ行け。……ただ、兄ちゃん」
丈一郎は、男の背後にへばりつく「影」を、煙越しにじっと見つめた。
男の肩には、無数の「通知マーク」が寄生していた。
スマホの画面から溢れ出したような、赤い数字と未読のアイコン。
それが男の首筋に食い込み、神経を吸い取っている。
現代寄生型の怪異。
承認欲求と情報過多が産み落とした、現代社会の歪みそのものだ。
「……その肩の荷、相当重いだろ。降ろしてやってもいいが、うちはサービス業じゃないんでね」
男は丈一郎の言葉を理解していないようだった。
ただ、ぶつぶつと「成功しなきゃ」「置いていかれる」と呟きながら、ふらふらと店を出ていく。
「フンッ」
モモが短く、鋭く鼻を鳴らした。
それは「来るぞ」という合図だった。
丈一郎は深くタバコを吸い込み、床の灰皿で火を消した。
「……今夜の晩飯代、稼げる保証はねぇが……。あのアホ面、このまま放っておくと、うちの店先で死なれかねないからな」
彼はカウンター奥の仏壇に向かった。
位牌の横、埃を被った座布団の上に鎮座しているのは、鈍い、しかし重厚な光を放つ『黄金のバングル』。
それを無造作に手に取り、慣れた動作で左手首に嵌める。
「……帰りにスーパーの半額セール、間に合えばいいんだがな」
丈一郎の瞳から、ケチ臭い店主の温度が消えた。
奥底に沈んでいた、冷徹な「掃除屋」の光が、静かに灯り始める。
「ヌッ」
モモが短く、突き放すような声を上げた。
それは彼女なりの「あとは勝手にしろ」という合図だ。
カウンターから飛び降りた三毛の影は、一度も振り返ることなく奥の階段へと消えていった。
二階の押し入れ、あるいは積まれた古新聞の山、彼女にとっての「絶対安全圏」へと引きこもったのだ。
「冷てぇなぁ。少しは『頑張れ』とか、可愛げのある鳴き声は出せんのか」
丈一郎は独り言をこぼしながら、左手首に嵌まった『黄金のバングル』を、ヨレヨレの半纏の袖で拭った。
ずしりと重い金属の感触。
それは環家に代々伝わる呪いのような家宝だ。
店を出ると、商店街の空気はすでに変質していた。
街灯の明かりが妙に白っぽく、視界の端でデジタルのノイズのようなものが走る。
さっきの男が向かったのは、アーケードを抜けた先にあるコインパーキングの方向だ。
丈一郎はサンダルをペタペタと鳴らし、時折「あいたたた……」と腰をさすりながら、重い足取りで歩を進める。
「ったく、四十を過ぎて夜這いならぬ妖怪追っかけとはな。しかも一円の得にもならん」
独り言を言わなければ、やっていられない。
夜の商店街は、閉まったシャッターの列が巨大な墓標のように並んでいる。
その静寂を切り裂くように、どこか遠くから「ピコーン」という、耳障りな電子音が響いてきた。
パーキングの入り口付近。自販機の青白い光に照らされて、男はうずくまっていた。
「うわ、あ……あああ……ッ! なんだこれ、消えない、消えてくれ……ッ!」
男は頭を抱え、自分の首筋を狂ったようにかきむしっている。
その指の間から溢れ出しているのは、血ではない。
ドロドロとした黒い液体のような「影」であり、それは無数の「通知アイコン」の形をして、男の肌を侵食していた。
『承認、シテ……注目、シテ……未読、未読未読未読ッ!!』
人の言葉を不快なノイズで加工したような咆哮。
男の背後から、スマホの画面を無理やり繋ぎ合わせたような、歪な巨体が這い出してきた。
全身を覆う割れた液晶パネルには、誰かの誹謗中傷、空っぽの称賛、終わりのない情報の奔流が、高速でスクロールされ続けている。
現代寄生型の怪異。
「おいおい。商店街のど真ん中でそんなモンに膨れ上がられたら、明日からの営業妨害もいいところだぞ」
丈一郎は男と怪異の間に、割り込むように立った。
サンダルの鼻緒を指で探る。
その動作一つ一つが、どこか隠居した老人のように緩慢だが、彼の瞳からはすでに「古本屋店主」としての温度が消えていた。
怪異が丈一郎を認識し、全身の液晶パネルを一斉に赤く明滅させる。
直後、地面の影から鋭い「通知の棘」が、丈一郎の足元を狙って無数に突き出された。
「カシャン」
丈一郎が腕を振った、その刹那。
左手首のバングルが、物理法則を無視して瞬時に分裂した。
黄金のリングが三つ、空中の「何もない場所」で水平に固定される。
突き出された黒い棘は、鋼鉄よりも硬い黄金の環に弾かれ、空しく火花を散らした。
「キィィィィィン……」
夜の静寂を、高周波の共鳴音が切り裂く。
丈一郎の周囲を、五つ、十、二十と、黄金のリングが自律した意志を持つかのように浮遊し、超高速で回転し始めた。
「……兄ちゃん。悪いが、うちの店に売りに来た本の査定は、まだ終わってねぇんだ」
丈一郎の声は、底冷えのする冷徹さを帯びていた。
「勝手に食われられると、帳簿が狂う。帳簿が狂うと、俺の今夜の半額弁当の計算まで狂うんだ。……それは困る」
怪異は怒りに狂ったようなノイズを発し、自身の腕を巨大な「情報の塊」へと変形させた。
数万のテキストが滝のように流れ落ちるその腕が、丈一郎を押し潰そうと振り下ろされる。
「……高いぞ。俺の労働単価はな」
丈一郎は一歩、前へ踏み出した。
サンダルがアスファルトを蹴る音が、重低音となって響く。
それと同時に、浮遊していたリングが数枚、彼の進行方向に階段状に「固定」された。
重力を嘲笑うかのように、丈一郎は空中のリングを足場にして跳んだ。
「ドォォッ!」
拳に纏わせたリングが火花を散らして回転し、周囲の空気を捻じ曲げる。
怪異の情報の腕が激突する直前、丈一郎の体は「慣性を無視」して、真横へと直角にスライドした。
空中でリングを支点にコンパスのように回転するその動きは、精密な物理演算の結果のようでありながら、どこか古武術の演武のような、残酷なまでの優雅さを秘めていた。
「……さっさと封じねぇと、明日の腰に響く」
路地裏の静寂の中に、黄金の光が渦を巻く。
現代の闇を、黄金の環が切り裂き始める。
それは正義のためでも、世界のためでもない。
ただ、平穏な明日と、安いカリカリ代を確保するための、世知辛い「掃除」の始まりだった。
【作者より】
最後まで読んでいただきありがとうございます!
本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えていますが、丈一郎とモモの旅はまだまだここから熱く広がっていきます。
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「続きが読みたい!」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ応援よろしくお願いします!




