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第十話 修繕費はバケツに消える(後編)

【作者より】

数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます。

本作はすでに単行本一冊分以上のストックを書き終えており、丈一郎とモモの旅はさらにその先へと広がっています。

皆様からの感想やブックマークが、二人をより遠くへ進めるための何よりの「ガソリン」になります。

「続きが読みたい」と思っていただけるようガシガシ書いていきますので、ぜひ旅の同行者として応援していただけると嬉しいです!


 「ガッ、あぁ……ッ!」


 丈一郎の足元で、雨水に濡れた畳が無残に滑った。

 宙に固定されたリングを支点に跳躍しようとした刹那、天井の崩落が一段と激しくなり、滝のような濁流が彼の視界を白く塗り潰した。


 怪異、孤独死した老人の執着が凝り固まった粘液の巨腕が、その隙を見逃さず、丈一郎の脇腹を真横から薙ぎ払った。


 ドォッ!


 鈍い衝撃音が店内に響く。


 丈一郎の身体は木の葉のように吹き飛び、まだ無事だったはずの「日本文学全集」の棚へと叩きつけられた。


 背骨が悲鳴を上げ、肺から空気が根こそぎ絞り出される。


 「ハッ、ガフッ……、あー……クソ、全集の、背表紙が……」


 口の端から溢れる鉄の味よりも、潰れた本一冊の市場価値が脳裏をよぎる。

 四十を過ぎた肉体にとって、今の衝撃は致命的に近い。


 視界が点滅し、意識が遠のきかけるが、怪異は待ってくれない。

 本の核を包み込んだ黒い粘液が、雨水を吸ってさらに巨大な塊へと膨れ上がり、書店の狭い空間を物理的に埋め尽くそうとしていた。


 『キィィィィィィィン――』


 左手首の黄金のバングルが、丈一郎の焦燥に呼応して、痛々しいほどの高音を上げた。


 「分かってるよ……。鳴るんじゃねぇ、耳に響くだろうが……」


 丈一郎は震える手で、崩れた本を支えに立ち上がった。


 ここにあるのは、壊れた屋根から吹き込む雨風の音と、怪異が紙をめくるような不快な摩擦音、そして自分自身の浅い呼吸音しかない。


 圧倒的な、孤独な静寂。


 怪異が、黒い粘液の触手を数千本の「針」へと変貌させ、全方位から丈一郎を串刺しにせんと放った。


 丈一郎は鼻をすすり、腰を深く落とした。


 視線は敵の先端ではなく、粘液の奥にある「重心」の揺らぎだけを追う。


 『カシャンッ』


 空中に浮遊していたすべてのリングが、丈一郎の足元と頭上に再配置された。

 空間に固定されたリングが彼の体重を支える「踏み台」となる。

 

 一歩、二歩。


 重力を嘲笑うような機動だが、それは洗練された演武のように優雅ではない。

 迫り来る針の雨を、ミリ単位の身体操作でかわし、時には前腕のリングで火花を散らしながら叩き落とす、泥臭いまでの実戦の動きだ。


 「ヌッ!」


 二階の踊り場で、モモが身を乗り出した。


 丈一郎の動きが変わった。

 

 無駄な憤りが消え、ただ「標的を仕留める」という一点のみに研ぎ澄まされた、職人の動きだ。

 丈一郎は空中で身を捩り、怪異の頭上へと肉薄した。


 怪異の核、本の背表紙が、粘液の奥で鼓動のように蠢いている。


 拳を突き出す刹那、前腕に嵌まった三つの環が拳へと滑り込み、火花を散らして超高速回転を始めた。

 空気が捻じれ、敵の肉を抉り抜く穿孔へと変わる。だが、怪異もさるもの。

 打ち込む直前、粘液が盾のように重なり合い、丈一郎の拳を受け止めようと硬質化した。


 「……甘ぇんだよ。未練なんてのはな、一点に溜まるもんなんだよ」


 丈一郎は拳を打ち込む寸前、あえてその「勢い」を殺した。

 代わりに、右足の親指で空中のリングを強く蹴り、その反動を全身の回転エネルギーへと変換する。

 連結するリングが「カシャン」と硬質な音を立て、今度は丈一郎の「肘」へと集約された。


 ドォッ!


 拳ではなく、全身の質量を乗せた鋭い肘打ち。


 粘液の盾が、内部から響く重低音に耐えかねて霧散する。衝撃が浸透し、怪異の表面が波打つように歪んだ。


 しかし、怪異の真の狙いはその先にあった。


 丈一郎が懐に飛び込んだ瞬間、怪異は自身の身体を「檻」のように変形させ、彼を店内の書棚ごと飲み込もうと収縮を開始したのだ。


 「しまった……っ!」


 逃げ場はない。


 背後には倒れた書棚、前方には迫り来る粘液の壁。

 雨水が床に溜まり、足場は完全に消失した。


 丈一郎は、左手首のバングルを無理やり引きちぎるかのように前方に突き出した。

 分裂したすべてのリングが、彼の周囲で巨大な「球体」の檻を形成し、迫り来る粘液を物理的に押し止める。


 『キィィィィィィィンッ!』


 金属が焼き切れるような高音が店内に満ちた。


 リングと怪異が拮抗し、発生した熱で雨水が蒸気に変わる。

 丈一郎は、球体の檻の内側から、さらにリングを一箇所に連結させた。


 それは槍でもなく、剣でもない。


 ただ、一点を執拗に抉り抜くための、黄金の「楔」。


 彼は球体の檻を自ら解き放ち、その解放された全エネルギーをすべて右拳の楔へと乗せた。

 空気が捻じれ、雨粒が弾け飛ぶ。丈一郎の拳が、ついに怪異の核へと届く。


 「終了おわりだ」


 打ち込まれた衝撃が、怪異を内側から揺さぶり、崩壊させる。

 一瞬の静寂の後、黒い粘液が弾け飛び、店内に雨の匂いだけが残された。


 だが、その決着の瞬間、丈一郎は自身の右腕が、負荷に耐えかねて不気味な震動を上げていることに気づき、顔を歪めた。



 「……あー、クソ。……また治療費が、嵩むじゃねぇか……」

 

 怪異が消え去った中心に、一冊の、ボロボロになった古いアルバムが落ちていた。


 丈一郎は震える手で、懐から古い和紙で作られた小さな「封印のお守り」を取り出した。

 空中に漂う、黒い泥のような残り香『執着』が撒き散らした未練の残滓が、丈一郎の指先が描く円に導かれるようにして、お守りの中へと吸い込まれていく。


パラリ、と雨水に濡れたページがめくれる。


 そこには、色褪せた写真の中で笑う若かりし日の老人と、その傍らで微笑む女性、そして小さな子供の姿があった。

 『整理整頓のコツ』なんて本を読み漁り、必死に過去を捨てようとして、結局捨てられなかった未練の塊。

 身軽になれば救われると説くハウツー本が、皮肉にも最も重い執着の依り代になっていた。 


 「……捨てる技術、ねぇ。あんた、最後まで下手くそだったんだな、片付けが」


 お守りの表面に、一瞬だけ黄金の紋様が浮かび上がり、すぐに静かな白地へと戻った。

 丈一郎はそれを見つめながら、雨漏りの中、力なく膝をついた。

 丈一郎は重い瞼を閉じ、雨に打たれながら、自分だけの限界を噛み締めていた。


 静寂が、雨音と共に戻ってきた。


 黒い粘液は霧散し、店内に残されたのは、湿ったカビの匂いと、無残にひっくり返ったバケツ、そしてあちこちが剥げ落ちた畳の無惨な姿だけだった。

 丈一郎は、右腕の不気味な震動を左手で抑え込みながら、膝をついたまま動けずにいた。

 

 丈一郎は自嘲気味に呟き、そのアルバムを胸元の半纏はんてんの隙間に滑り込ませた。 

 だが、この「遺品」をどうするかは、依頼人が逃げ出した今、丈一郎の判断に委ねられている。

 これをしかるべき場所に届けるにしても、往復の運賃ですら今の彼には手痛い出費だ。

 そう考えると、ため息しか出ない。

 

 「ナッ(終わったか)」

 

 二階の踊り場で様子を伺っていた三毛猫のモモが、何食わぬ顔で階段を下りてきた。

 彼女は丈一郎のボロボロの姿を一度だけ見やると、倒れた書棚の隙間に挟まっていた「無事な本」を一冊、器用に足で引き寄せ、その上に香箱座りをした。


 「おい、モモ……。お前、せめて心配するフリくらいしろよ。俺、今さっき死ぬかと思ったんだぞ。心臓がうるさくて、耳鳴りが止まらねぇんだよ」


 「フンッ」


 モモは鼻を鳴らし、雨漏りのバケツを避けて、カウンターの奥へと消えていった。

 現金なものだ。


 戦いが終われば、そこにはただの、湿気った古本屋の日常が横たわっているだけ。

 丈一郎は重い腰を上げ、店内の惨状を見渡した。


 天井の穴はさらに広がり、滝のように降り注ぐ雨水が、商売道具である本を次々と「ゴミ」へと変えていく。郷土史の全集も、絶版の文庫も、今はただの濡れた紙屑だ。

  脳内の計算機がはじき出した数字は完全な赤字、それも今月一杯は塩むすびすら贅沢に思えるほどの絶望的なマイナスだ。

 

 「……笑えねぇ。一円を笑う者は、って言ったのは誰だよ。……俺、今、盛大に泣いてるぞ。一円どころか、一万円札が束になって飛んでいく幻覚が見えるぜ」

 

 丈一郎はよろよろと立ち上がり、レジの下の「売れ残った辞書」の束をどかした。

 そこには、新聞紙に包まれたままの「純金の延べ棒」が、変わらぬ不気味な重みで鎮座している。


 これを、使うべきか。


 これ一本あれば、天井は直る。

 棚も新品にできる。

 モモに一生分の高級削り節を買い与えることだってできるだろう。

 だが、丈一郎はその包みに触れようとして、指を止めた。

 

 貧乏人生で染み付いた、臆病なまでの慎重さが彼を押し留める。

 楽な道を選べば、技術は錆び、感覚は鈍る。


 たとえあかりのような強大な「外力」が存在しても、自分の中の「職人」を維持するためには、この泥沼のような現実を、自分の足で這いずり回る必要がある。


 この金に安易に手を出した瞬間に、丈一郎という男の価値が、一円の価値よりも軽くなるような気がした。

 

 「……意地じゃ、飯は食えねぇんだけどな。……あーあ、俺も大概、片付けが下手くそだ」

 

 丈一郎は金塊から手を離し、代わりにカウンターに置き去りにされていた、泥の付いた一円玉を拾い上げた。

 彼はそれをポケットに放り込むと、雨漏りを受けるための新しいバケツ、今度は空になったインスタントラーメンの容器を持ち出し、天井の下に置いた。

 

 ポタリ、ポタリ。

 虚しい音が、暗い店内に響く。


 「……明日は、晴れるかなぁ、モモ。晴れねぇと、在庫が全滅しちまうよ」

 

 返事はない。


 丈一郎は、湿気って火がつかなくなったタバコを咥えたまま、シャッターを下ろした。

 闇の中で、黄金のバングルが、役目を終えた職人のように鈍く光を収めていく。


 外では、熊本の湿った夜風が、傷ついた店構えを嘲笑うように吹き抜けていた。


 懐のアルバムが、微かに重い。捨てられなかった老人の未練と、捨てられない自分の自尊心。

 丈一郎の世知辛い日常は、あかりなどという嵐が来ようと来まいと、変わらず泥沼の中を這いずり回っている。


 だが、その一歩一歩の重み、膝や腰にくる痛み、空腹のひもじさこそが、彼が他人の音ではなく、自らの鼓動で「生きている」という唯一の証左でもあった。


 あー……身体のあちこちが軋んで、錆びついた機械みたいな音がします。

 どっちに転んでも赤字なのは、俺の不徳の致すところでしょうか。

 

 ……え? 延べ棒を売れば、今すぐシルクの毛布が買えるって? 分かってる、分かってるよ。

 でもな、あんな得体の知れない金に頼ったら、俺の人生が、全部かき消されちまう気がするんだ。

 俺の人生、綱渡りの連続だけどよ、自分の足で渡らなきゃ意味がねぇんだよ。

 ……たとえその綱が、雨でびしょびしょに濡れて滑りやすくなってたとしても、だ。

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