第十一話 休日の嘆き(前編)
あー、クソ。
今朝は一段と右腕が重てぇ。
雨漏りは止まったが、今度は俺のバングルが、壊れた蛇口みたいに嫌な音を出しやがる。
道具は嘘をつかねぇ。無理をさせた分だけ、きっちり請求書を回してきやがる。
……あ、モモ、そこは俺の湿布だ。どけ。
「……キィ……、……ィン……」
静まり返った環古書店の奥から、耳鳴りのような、細く鋭い不協和音が響いた。
万年床の中で、丈一郎は眉間に深い溝を刻み、呻き声を漏らす。
その音は、耳で聞く音というより、脳髄を直接針で引っ掻くような、不快極まりない振動だった。
音の主は、カウンター奥の薄暗い仏壇の真ん中、先祖代々の位牌と並んで鎮座している、あの黄金のバングルだ。
昨晩の激闘「アルバムの怪異」を強引に捻じ伏せた際の反動が、一晩経っても消えぬ熱として、そして物理的な「歪み」として環の中に残留していた。
空間を固定し、慣性を無視して数千、数万回の連結と分離を繰り返す。
それは、この黄金の環にとって、目に見えない次元の継ぎ目を無理やり削り取るような作業だ。
四十を過ぎて節々が軋む自分の肉体と同様、このバングルもまた、限界という名の請求書を突きつけてきている。
「……分かってる。分かってると言ってるだろ、静かにしろ」
丈一郎は重い身体を引きずるようにして起き上がると、薄暗い一階へと降りた。
店内の空気は、昨晩の雨のせいでひどく湿っている。
カビの匂いと、安タバコの残り香。
丈一郎は仏壇の前に立つと、観音扉をゆっくりと開いた。そこにあるバングルは、普段の鈍い光沢を失い、表面には不規則な油膜のような「歪み」が浮かんでいた。
触れずとも伝わってくる、微かな、だが確かな拒絶の振動。
職人が使い倒した道具が、最後に上げる悲鳴だ。
「ナッ」
足元で、鳴き声がした。
三毛猫のモモが、空になった餌皿の横で冷徹な瞳を光らせている。
「お前はいいよな。怪異が来ればさっさと二階へ逃げて、終われば飯だ。俺の右腕が今、どれだけジンジン疼いてるか分かってんのか。湿布を貼る手すら震えてんだよ」
「フンッ」
モモは、丈一郎の愚痴など聞き飽きたと言わんばかりに、しっぽでパシリと彼の脛を叩いた。
丈一郎は溜息をつき、仏壇からバングルを手に取った。
腕を通した瞬間、心臓の鼓動と同期するように「キィィン」と鋭い異音が頭蓋を揺らす。
これは、ただの金属疲労じゃない。
次元の固定具としての「噛み合わせ」が狂っている。
「……こいつは、もう俺の手に負えねぇ」
環古書店に伝わる「操法」は、あくまで使い方だ。
この器そのものを叩き直し、次元の歪みを矯正する「鍛造」の技術は、丈一郎にはない。
彼はレジの下、売れ残った古い辞書の陰に隠した「純金の延べ棒」を一瞬だけ見やった。
新聞紙に包まれたその塊は、闇の中で変わらぬ不気味な重みを湛えている。
これがあれば、バングルの修理代どころか、この古びた店を建て替え、最新の空調を入れ、モモに一生分の最高級削り節を献上することだって容易いだろう。
だが、その考えを即座に頭から振り払う。
「……自分の腕で稼いでねぇ金は、いつか必ず高くつく」
臆病なまでの慎重さが彼を押し留める。楽な道を選べば、技術は錆び、感覚は鈍る。
この金に手を出した瞬間に、一人の男としての「重み」が、一円の価値よりも軽くなるような気がした。
丈一郎はレジの引き出しを開け、中身を確認した。
数枚の千円札と、ジャラジャラとした小銭。
「……往復のガソリン代、昼飯は抜きだな。……あーあ、完全な赤字だ」
この歪みを直せる変人は、熊本の奥地のさらに先にある深い山の中に隠れ住む、あの老人しかいない。
あそこまでこのサビだらけの原付で行くとなれば、腰が死ぬのは目に見えている。
だが、放置すれば次の戦闘でバングルが砕け、俺の腕もろとも時空の彼方に消し飛ぶだろう。
丈一郎は店先に転がっていた原付の鍵を手に取り、ボロボロのリュックを背負った。
「おい、モモ。店番しとけよ」
モモは、当然のように椅子の上に飛び乗り、香箱座りを決めた。
「……ただし、途中で腹が減ったと鳴いても、見切り品のパンしかねぇからな」
丈一郎は半纏の袖をまくり、手首のバングルを隠すように締め直した。
「キィン……」
彼はシャッターを重々しく下ろし、腰の痛みに耐えながらエンジンを蹴り上げた。
パン、パンッ、と乾いた排気音が、眠りから覚めきらぬ商店街に虚しく響く。
ひどく割に合わない「休日」が、冷たい朝の空気と共に幕を開けた。
サビの浮いた原付のエンジンが、坂道を上がるたびに「ボシュッ、ボシュッ」と不吉な失火の音を吐き出す。
国道三号線を南下し、市街地を抜けると、道は川沿いの険しい山道へと姿を変えた。
昨晩の雨をたっぷりと含んだ熊本の深い山々は、濃緑の蒸気を吐き出し、視界を執拗に白く塗り潰してくる。
原付の細いタイヤから伝わる微振動は、左手首のバングルに溜まった「歪み」を増幅させ、神経を直接逆なでするような痛みへと変換させていく。
「キィィィィィィィィィン……」
バングルから漏れる高周波は、今やエンジンの回転音を突き抜けて、丈一郎の耳元で鳴り続けていた。
黄金の環の表面を走る波紋は、その規則性を失い、まるで皮膚の下で無数の微細な針が暴れ回っているような感触だ。
空間を無理やり固定し、慣性を暴力的にねじ伏せてきた代償。
それは、精密な時計の歯車が砂を噛んだまま、火花を散らして回り続けているような、悍ましい「悲鳴」だった。
(……これ以上、空間を蹴れば、本当に弾けるな)
丈一郎は、アクセルを握る右手の力を微かに緩めた。道中、古びた個人経営のガソリンスタンドに立ち寄り、残高の寂しい小銭入れを覗き込む。
リッター百数十円の出費ですら、今の環古書店の経営状態からすれば、胃が焼けるような痛みを伴う「強制的な投資」に他ならない。
「レギュラー、満タン。……あ、おっちゃん、釣りはいいから。その代わり、この自販機のコーヒー、少し安くならねぇか?」
「……ならんよ。兄ちゃん」
スタンドの老人に鼻で笑われ、丈一郎は肩をすくめて再び走り出した。
さらに道は険しくなる。
ガードレールのない、苔むした旧道。
そこは、かつて丈一郎がまだ二十代の、血気盛んだった頃に「操法」の基礎を叩き込まれた場所へと繋がっている。
当時は自分の身体が壊れることなど考えもしなかったが、今は違う。
道具も、身体も、摩耗しきった中古品だ。
ふと、霧の向こう側に「青いノイズ」が走った。
スマホの画面が乱れるような、電子的で不自然な歪み。
残滓か、あるいはこの山そのものが抱える、捨てられた記憶の「淀み」か。
「……だが、今は『掃除』に割く予算も、道具の余裕もねぇんだよ。今日は休業日だ」
丈一郎は視線を正面に固定したまま、強引にアクセルを開けた。
怪異は、道具の「隙」を見逃さない。
歪んだ環は、正しい空間の定義を維持できず、周囲の座標すら微かに波立たせている。
まるで、血を流している負傷兵が森の中を這いずり、捕食者にその存在を触れ回っているようなものだ。
急なカーブを曲がった先、霧の中から、ありもしない「電柱」の影がいくつも立ち上がった。
実体のない、だが衝突すれば確実にこちらの肉を削ぐ情報の蜃気楼。
丈一郎は、左手首を強引にハンドルに押し付け、震動を殺した。バングルが「ギチリ」と嫌な軋み音を立てる。
「……来んなよ。領収書も書けねぇような仕事は受け付けねぇんだよ」
原付のタイヤが、濡れた落ち葉に滑る。
通常なら、空中にリングを一枚固定し、それを足場に慣性を殺して立て直すところだ。
だが、今バングルに負荷をかければ、環そのものが砕け散り、俺の腕もろとも時空の狭間へ消えるだろう。
「……チッ、根性見せろよ、ボロ原付!」
丈一郎は、剥き出しの右足を地面に突き出し、無理やり車体を支えた。
ガリガリと、安物のスニーカーの底が削れる嫌な感触と、膝を直撃する鋭い衝撃。
四十を過ぎた関節が、錆びたボルトのように悲鳴を上げる。
「あー、クソ……。クリーニング代どころか、靴の買い替え代まで、追加かよ……。マジで割に合わねぇ」
霧の奥から、数多の「目」のような発光がこちらを窺っている。
道具の弱りを見透かし、包囲網を狭めようとする山の怪異たち。
丈一郎は、剥き出しの殺気を放ち、それらを一喝した。
「……どけ。俺は機嫌が悪いんだ。一円にもならねぇ殺生をさせんじゃねぇ」
その一喝に込められた、長年の実戦の重みが効いたのか、怪異の気配は微かに遠のいた。
丈一郎は止まりかけた心臓をなだめるように深く息を吐き、再び原付を走らせる。
ようやく見えてきたのは、鬱蒼と茂る杉林の奥、半分土に埋もれたような石造りの「鍛冶小屋」だった。
煙突からは、時代錯誤なほどに黒く、重い煙が上がっている。
「モモ。……生きて帰れたら、一番安いサバ缶くらいは買ってやる」
丈一郎は、原付のエンジンを切り、左手首の忌々しい振動を抑えながら、小屋の扉――厚い鉄板で作られた、無愛想な入り口の前に立った。
中から聞こえるのは、金属を叩く一定の、だが空間そのものを揺るがすような重低音。
「カァン、……カァン、……カァン……」
それは、丈一郎が持つバングルの高周波とは正反対の、全てを現実に繋ぎ止めるための音だった。
彼は深く鼻をすすると、覚悟を決めてその鉄の扉を叩いた。
手のひらから伝わる鉄の冷たさが、現実の重みを改めて突きつけてきた。
【作者より】
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