第十二話 休日の嘆き(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
丈一郎とモモの旅路はさらに加速し、物語は熱を帯びて広がっています。
読者の皆様からいただく感想やブックマークこそが、僕がペンを走らせるための最高の「ガソリン」です。
「この先の展開も気になる!」と思っていただけるよう全力で執筆していきますので、ぜひ二人の旅の同行者として、末永く応援していただけると嬉しいです!
「……入るぞ。爺さん、生きてるか」
丈一郎が重い鉄扉を押し開けると、そこは別世界だった。
暴力的なまでの熱気と、古い機械油と、そして焼けた鉄の匂いが混ざり合い、肺の奥を直接突き刺してくる。
外の雨の湿気など、この鍛冶場に足を踏み入れた瞬間に蒸発し、消え失せた。
薄暗い小屋の奥、赤々と燃える炉の光に照らされて、一人の老人が立っていた。
筋張った、まるで枯れ木のような腕に巨大な槌を握り、火花を散らして鉄を叩いている。
丈一郎の「師」であり、叔父、環一族の変人、九重だ。
九重は一度もこちらを振り返らず、ただ一定のリズムで槌を振り下ろし続けた。
「カァン、……カァン、……カァン……」
その音が響くたび、丈一郎の左手首にあるバングルが、共鳴するように「キィィィン」と震える。
それは恐れか、あるいは悦びか。
持ち主である丈一郎の意志を無視して、道具がその製作者の音に呼応し、震えている。
「……道具が泣いとるぞ、丈一郎」
不意に槌の音が止まった。
九重は火箸で熱せられた金属を水槽に叩き込むと、激しい水蒸気と共にようやく丈一郎へ顔を向けた。
深く刻まれた皺の奥にある瞳は、丈一郎が掃除屋として放つ殺気など微塵も受け付けない、岩盤のような硬さを持っている。
「見ろ、その顔を。道具を使い潰して、自分まで摩耗させおって。環の『芯』が捻じれとる。お前、また無理な座標の上書きをやりおったな。空間を固定したまま、無理やり慣性をぶつけた。違うか」
「……あー、クソ。相変わらず目ざといな。仕事なんだよ、こっちは。客の要望にゃ応えなきゃならねぇし、店を壊されたら俺の首が回らなくなるんだ」
「客だと? お前の相手は、この世の帳尻を合わせるための『淀み』だろう。道具を壊してまで帳尻を合わせてどうする。……出せ。その無様な環を」
九重が差し出した掌に、丈一郎は渋々バングルを外して乗せた。
手首から環が離れた瞬間、数日間悩まされた神経の痺れがスッと消え、代わりに強烈な脱力感が襲う。
立っているのがやっとの疲労。
今までバングルが、丈一郎の肉体の欠損を強引に空間固定で補っていたことが露呈した形だ。
九重はバングルを炉の光にかざし、指先で微かな、だが致命的な傷跡をなぞった。
「ほう。……これは『怪異』を強引に圧縮し、その反発係数を計算に入れずに叩き潰したな。摩擦熱が、環の裏側に焼き付いとる。……丈一郎、お前、自分が何を振るっとるか、本当の意味で忘れとるんじゃなかか」
九重はバングルを迷わず炉の火に放り込んだ。黄金が、地獄の業火のような赤に染まり始める。
「この環は、物理を無視する魔法の杖じゃない。物理の『裏側』にある重みを、こっち側の現実に繋ぎ止めるための『楔』だ。お前が無理な加速をすれば、その負荷は全てお前の肉体と、この環の次元的な接合部に溜まる。……お前の戦い方は。ただの暴力になっとる。座標を書き換えるだけの、安っぽい手品だ」
「……説教なら、後にしてくれ。……直るのか。それが聞きたいだけだ」
「黙れ。そこに座っとれ」
九重が再び槌を手に取った。
「カァン!」
一撃。火花が小屋の隅々まで飛び散り、空気が一変した。
丈一郎の視界が、火花の残像と共に、過去の記憶へと引き戻される。
まだ二十代、血気盛んだった自分。
この小屋で、ただ一枚のリングを空中に固定するために、拳が割れるまで突きを繰り返した日々。
「技に名を付けるな。名を付ければ、お前の動きはその名の枠に閉じ込められ、思考が止まる。ただ、そこに在れ。道具と一体になり、世界の重みを受け流せ」
師匠の言葉が、槌の音と共に脳裏に蘇る。今、九重が叩いているのは黄金ではなく、丈一郎の慢心と、淀んだ戦い方そのものだった。
九重の槌は、物理的な歪みを叩き出しているのではない。
歪みの中に溜まった「過去の戦いの記憶」……供養しきれなかった怪異たちの残滓を、一つずつ解きほぐしているのだ。
「カァン、カァン、カァン……」
不意に、バングルから青黒い煙が立ち上がった。
それは今まで丈一郎が封印してきた一部の怪異たちの、行き場のない怨嗟の塵だ。
煙が実体化しようとする。情報の澱みが、鍛冶場の熱気を食って肥大化し、丈一郎に襲いかかろうとする。
丈一郎は立ち上がろうとしたが、九重がそれを手制した。
「座っとれと言ったろうが。未熟者が」
九重は赤熱したバングルを床の定盤に置くと、槌の角度を微調整し、空間そのものを叩き据えるような一撃を見舞った。
「ドォォッ!!」
重低音の衝撃波が小屋を駆け抜け、実体化しかけた煙を一瞬で霧散させた。
黄金の環は、槌打たれるたびに、かつての純粋な輝きを取り戻していく。
歪みが消え、接合部が滑らかに同化し、次元の継ぎ目が再び「密閉」されていく。
それは、死んでいた道具が再び息を吹き返す瞬間だった。
「……ふぅ。……年寄りには、きつい作業だ」
九重は、汗を拭いながらバングルを水槽に沈めた。
「ジュゥゥゥゥッ!」
激しい蒸気が小屋を満たし、その霧の中から、かつてないほどに澄んだ黄金の光が漏れ出した。
九重は、冷え切ったバングルを丈一郎に放り投げた。
受け取った瞬間、バングルは丈一郎の手のひらに吸い付くように馴染んだ。
重みは変わらないはずなのに、まるで羽毛のように軽い。
いや、これが本来の「一体化」している状態なのだ。
「……完璧だ。ありがてぇ、爺さん」
「礼などいらん。……代金は、きっちり頂くからな」
九重の瞳に、職人特有の意地の悪い光が宿った。
丈一郎は、嫌な予感がして、思わず自分の薄い財布を隠した。
「金の話は、……その。出世払いで……」
「金? 誰がそんな紙切れでいいと言った。……丈一郎、お前の店に一冊、『禁書』と言われた、「仏陀教典」が紛れ込んどるはずだ。江戸の中期に書かれた、作者不明の写本。……それを、私のところに持ってこい。それが修理代だ」
「……あ?」
丈一郎は、呆然と口を開けた。
あれは下手をすれば今回の修理代よりも遥かに価値がある、店主としての「こだわり」のある品ではないが、損する気持ちもある。
「……爺さん、それ、実質的に俺の店の資産を差し押さえるってことか?」
「嫌なら、今ここでそのバングルを叩き割るだけだ。どっちがいい?」
九重は、再び槌を重そうに持ち上げた。
丈一郎は、冷や汗を流しながら、全力で首を横に振った。
「……分かったよ。クソッ、まあ、店に置いてるだけだしな……」
休日は、最悪の「物納」という請求書と共に、いよいよ終わりを告げようとしていた。
深い山中を離れ、再び街の湿り気を帯びた夜へと戻る頃には、サビだらけの原付の排気音さえも、どこか疲弊した色を帯びていた。
国道を外れ、街灯の間隔がまばらになるにつれ、ヘルメットのシールド越しに見える景色は、鋭利な現実味を増していく。
「……はぁ。禁書の写本、ねぇ」
丈一郎は、走行風に混じって消えていくような、苦い独り言を吐き捨てた。
左手首から一度外し、今は懐のボロい布に包んでいるバングルは、驚くほど静かだ。
九重の槌によって次元の歪みを叩き直された黄金の環は、熱も異音も完全に消え去っている。
ただそこにあるだけで周囲の空間を「正しく」定義し直すような、凛とした重みが戻っていた。
これならば、明日からまた「掃除」を再開できるだろう。だが、その代価があまりにも重い。
江戸中期の作者不明の写本。
環古書店の、あの迷路のように入り組んだ在庫に確かにそれは眠っている。
カビ臭い書棚の奥、「売る気のない」親父が自分だけの愉しみとして隠し持っている秘蔵コーナー。
市場に出せば、今回の修理代どころか数ヶ月分の家賃と、モモの高級缶詰、それに自分のまともな晩飯代がすべて賄えるほどの逸品だ。
それを、あの偏屈な爺さんに「物納」しなければならない。
「……あのまま放置してバングルが砕け散るよりは、写本一冊で済んだ方がマシか。ん?あの写本を差し出すってことは、俺の店の資産価値が今月、完全にマイナスに突入するってことか?最悪だ」
寂れた商店街の入り口が見えてくる頃には、周囲は完全に夜の帳に包まれていた。
環古書店の前で原付を止め、スタンドを立てる。
腰が「ギチリ」と嫌な音を立て、激しい痛みが走った。バングルは直っても、四十を過ぎた人間の肉体には九重の槌による修繕は効かない。
シャッターをガラガラと重々しく開けると、そこには出発前と何一つ変わらぬ、古紙とカビ、そして安タバコの匂いが沈殿していた。
丈一郎は重い腰をさすりながら、暗い店内に足を踏み入れ、真っ先にカウンター奥の仏壇へと向かった。
懐から取り出した黄金のバングルを、慎重に仏壇の中、先祖代々の位牌の横へと安置する。
観音扉を閉じると、ようやく丈一郎の「休日」という名の過酷な重労働が一段落した。
「……さて。修理代の『物納』を探す前に、まずはこいつだ。……あー、クソ、手が震えてやがる」
丈一郎は懐から、道中の売店で「自分への褒美」という名目で、血の涙を流しながら購入した一缶を取り出した。
モモが要求していた、少しばかり贅沢な……いや、今の家計からすれば貴族の食事に等しい、金色のラベルが貼られたサバの味噌煮缶だ。
自分の晩飯は、冷蔵庫の隅に残った、賞味期限切れ間近のボソボソとした食パンだというのに。
「ナッ(遅すぎる)」
モモはカウンターから音もなく飛び降り、丈一郎が缶を開ける音にじっと聞き耳を立てる。
パチン、という景気のいい音と共に、濃厚な脂の香りが湿った店内に広がった。
モモは満足げに喉を鳴らし、自分専用の餌皿へと顔を埋める。
それを見届けた丈一郎は、ぬるくなった缶コーヒーを一口すすり、レジ横の帳簿を開いた。
「……ガソリン代、コーヒー代、修理代(予定:国宝級の写本一冊)、収入、ゼロ。……あー、死ぬ気で動いて、結局手元に残ったのは足裏の豆と腰の痛み、それにこの虚無感だけか」
彼は半纏の袖で額の汗を拭い、薄暗い店内の棚をぼんやりと見渡した。
明日からは、九重に約束したあの写本を死に物狂いで探し出さなければならない。
そして、修理されたばかりのバングルを再び腕に嵌め、また別の怪異を物理的に叩き潰し、数円の小銭を稼ぎ出すための、終わりなき「掃除」の日々が再開する。
窓の外では、再び雨が降り始めていた。
トタン屋根を叩く単調なリズム。雨漏りのバケツにポタリ、ポタリと滴る水の音。
丈一郎は、静かになった左手首を無意識にさすりながら、天井へと紫煙を吐き出した。
世界を救う英雄譚など、この店には必要ない。
ただ、明日もこのシャッターを開け、猫の腹を満たし、壊れかけた自分の身体を騙し騙し繕いながら、一日を生き延びる。
それが「環の掃除屋」であり、このボロい古本屋の店主の、どうしようもなく世知辛い日常なのだ。
「……明日こそは、アロンアルファ、絶対に見つけねぇとな……」
丈一郎は誰に聞かせるでもなく独り言を漏らし、カビ臭い万年床へと沈み込んだ。
商店街の夜は更けていき、雨音だけが優しく、歪みの消えた黄金の環を包み込んでいた。
結局、往復のガソリン代を計算したら、今月はもう肉を食う権利が消滅しました。
山までの道中は、四十過ぎの腰には「地形そのものが怪異」みたいなもんです。モモは飯の催促だけは一人前です。
あ、九重の爺さんに指定された写本ですが……さっき棚の裏を確認したら、モモの抜け毛がびっしりついてました。
これをそのまま持っていったら、槌で頭を叩き割られるかもしれません。
明日の仕事は、まずブラッシングから始めます。
【作者より】
「いつもお読みいただきありがとうございます!基本は木曜更新ですが、週末のお供に楽しんでいただければと思い、本日は先行して投稿しました!」




