第四十九話 【異世界出張編】⑦赤字街道(前編)
煤けた街デナリウムの夜を逃げ出すようにボロ馬車を走らせてから、何日経ったことか。
空の色は相変わらず鉛色に濁り、地平線の向こうには、かつて文明が文字通りに干からびてひび割れたような荒涼とした大地がどこまでも広がっている。
御者台に腰を下ろす俺の右腕には、未だに消えない真鍮バングルの重苦しい熱と、文字を剥ぎ取った代償としての痺れがこびりついていた。
懐で冷たくうごめくのは、表紙すら引き裂かれ、中綴じのホッチキスが剥き出しになった『はじめてのあいうえお』の残骸だ。
商売道具を自らの手でスクラップに変えていくこの感覚は、胃の腑を逆流させるような不快な吐き気を伴う。
「……ちっ、これじゃあ仕入れ値の回収どころか、燃料代の馬草代すら出ねえぞ」
俺――環丈一郎が吐き捨てたボヤキに、御者台の特等席で丸まっていた三毛猫のモモが、面倒臭そうに片耳をピクリと動かした。
「ヌッ、ナッ、ナッ(……朝からうるさいぞ、ケチな古本屋)」
言葉こそ発しないが、その丸い背中と鋭い三毛の模様が「文句を言う暇があるなら馬を走らせろ」と雄弁に物語っている。
この相棒は神の残骸だの土地神だのという大層な肩書きを持っているくせに、腹が減れば俺が買い叩いた安物の干し肉を要求し、危険が迫れば冷ややかな眼差しで俺の労働を品定めする。
だが、この不潔で殺伐とした異世界において、俺の「世知辛さ」を一切の同情なしに共有してくれるのは、この薄汚れた三毛猫だけだった。
街道沿いに打ち捨てられた里程標には、この先にあるはずの次の街の名前が刻まれていたはずだが、風化と落書きによって文字の半分以上が削り取られている。
見えるのは『――ア・ポルト』という、辛うじて残った不確かな文字列だけだ。
税関か、あるいはただの魔獣の巣窟か。
どちらにせよ、次の街にたどり着くまでには、この荒れ果てた赤字街道を越えなければならない。
「おい、モモ。あの地図によれば、次の街まであと半日ってところか? それとも、俺たちの財布が先に底をつくのが早いか」
「ナッ(気配だ)」
モモが前足で俺の膝を軽くトントンと叩き、それからフイと視線を前方の砂塵の向こうへと向けた。
その喉の奥から、微かに低い警戒の唸り声が漏れる。
前方の街道の淀んだ空気の中に、チリチリと肌を焦がすような不自然な魔力の摩擦音が混じり始めていた。
「……またかよ。俺はただ本を売りたいだけだってのに、この世界のモブどもは、どうしてこうも俺の労働意欲を削ぐような真似ばかりしやがるんだ」
丈一郎は懐からボロボロの冊子をそっと確かめ、ギリリと奥歯を噛み締めながら、荒れ果てた赤字街道の向こうを睨み据えた。
馬車の車輪が地割れしたアスファルトを噛む乾いた音が、静まり返った赤字街道に虚しく響く。
モモが「ヌッ」と短く喉を鳴らした瞬間、前方の砂塵が突然不自然に渦を巻き、まるで目に見えない巨大な壁が立ち塞がるように街道の景色が歪んだ。
空間の繊維がミシリと軋み、異質な冷気が肌を刺す。
ただの強風ではない。
座標そのものがねじ曲げられ、空間構造を狂わせる卑劣な罠陣が敷かれているのだ。
「……ちっ、足止めかよ。わざわざご丁寧に、通行料無しの検問所がお出ましか」
丈一郎はボロ馬車の御者台から飛び降り、泥濘んだ地面に降り立った。
右腕の真鍮バングルが、不気味な熱を帯びてピリピリと脈動する。
それはまるで、これから始まる無駄な労働に対する警告のようだった。
砂塵の向こうから現れたのは、影のように歪んだシルエットを持つ数体の「異形歩兵」だ。
それらは魔力を帯びた硬質な結晶を纏い、まるでこの街道の「負債」そのものが具現化したかのような威圧感を放っていた。
「お前たち、何の権利があって俺の商売道具の運搬を妨害する? 営業妨害で訴えてやりたいぐらいだが、あいにくこの世界に弁護士も裁判所もねえらしかったな」
丈一郎が冷ややかに吐き捨てると同時に、先頭の結晶パペットが不気味なうなり声を上げて突進してきた。
魔力と質量が衝突する衝撃波が周囲の空気を震わせる。
通常の物理攻撃では、あの結晶の装甲に傷一つ付けることすらできない。
丈一郎は舌打ちを噛み殺し、懐からボロボロに裂けた『初めての理科』を取り出した。
ページをめくる指先が、怒りと疲労で微かに震える。
文字を剥ぎ取るたびに自分の商売の命脈が削られていくというのに、このゴロツキどもは次から次へと赤字を押し付けやがる。
「……これ以上在庫を減らしたら、本当に今夜の野宿のスープすら塩気が買えなくなるってのに!」
丈一郎の指先が、ページの残されたわずかな文字の繊維を強引に捉えた。
神経を直接引っ張られるような不快な摩擦熱が右腕を駆け抜ける。
空間の皮を剥ぎ取るような凄まじい音と共に、彼の指に貼り付いたのは『重(重力の重)』の概念だった。
「『重』の一文字だ。お前らのその身勝手な足取りに、相応のペナルティを課してやるよ!」
丈一郎が指を弾くと、剥ぎ取られた『重』の文字が瞬時に実体化し、不可視の巨圧となって突進してくるパペットどもの頭上から叩きつけられた。
ガキン! と地鳴りのような轟音が響き、結晶の装甲が耐えきれずにバリバリと亀裂を走らせる。
質量を強制的に上書きされたパペットたちは、地面にめり込むようにひざまずき、身動きが取れなくなった。
だが、代償は小さくない。
手元の冊子からは『重』の文字がごっそり抜け落ち、周囲のページまでドス黒い空洞となって腐敗し始めている。
「くそっ、また一冊の価値がゼロになりやがった……!」
丈一郎が歯噛みしたその時、モモが御者台の上からキッと鋭い視線を街道の脇へ飛ばした。
ただの雑魚の足止めではない。
その背後で、さらに巨大な「何か」が空間の裂け目から這い出ようと、ねっとりとした呪力を滴らせていた。




