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第五十話 【異世界出張編】⑦赤字街道(後編)

作者より

地震関係により、しばらく休載します。


 「ヌッ……!」


 モモの鋭い警告の鳴き声が、凍りついた空気を切り裂く。


 直後、結晶パペットどもが押し潰されていた地面が、まるで泥沼のようにぐにゃりと歪んだ。


 ガリガリと硬質な岩石が削れる不快な音が響き渡り、地中から這い出してきたのは、先ほどまでの比ではない巨大な影だった。

 それは無数の古びた看板や折れた剣、廃棄された帳簿の束が不気味に融合して組み上がった、まるで『ゴミの山』そのものが意思を持つかのような特大型の呪積物だった。



 「……はっ、冗談だろ。今度は何だ、この無駄にデカいスクラップの塊は」



 丈一郎は吐き捨てるように呟いたが、その額には冷や汗が流れていた。


 特大型が放つプレッシャーは、空間そのものをドロドロに溶かすような異様な密度を帯びている。

 通常の文字剥ぎや、先ほどの『重』の半端な干渉では、あの分厚い概念の鎧を貫くことはできない。


 特大型が巨大な腕を振り上げ、周囲の空間ごと空気の壁を捻じ曲げて殴りつけてくる。


 回避する暇すらない。


 丈一郎はとっさに身を翻し、馬車の板壁に体を打ち付けながらも、懐からあの「禁書」に手を掛けかけた。

 しかし、指先が触れた瞬間、右手首の真鍮バングルが狂ったように高熱を放ち、頭が割れるような激痛が走る。


 これを開けば、すべてが解決するかもしれない。


 この赤字街道ごと、目の前のゴミ屑を消し去るだけの暴力が手に入る。

 だが、それをやった瞬間、古本屋としての「環丈一郎」は完全に死亡し、ただの暴力をまき

散らす狂人と化すだろう。



 「くそっ……! 頼むから、俺のささやかな労働をこれ以上邪魔するな!」



 丈一郎は自らの右腕をねじ伏せるように掴み、禁書から無理やり手を引き離した。


 その隙に、番人の巨腕が放った衝撃波がボロ馬車の屋根をかすめ、木片が派手に四散する。 

 商売道具である馬車が破壊され、荷台の隅に積んであったわずかな仕入れの品々が砂塵の中に転がり落ちた。


 血の気が引くとはこのことだ。


 命の危険よりも、商品が破損したという現実が丈一郎の理性を完全にブチ折った。



 「……そこまで言うなら、教えてやるよ。底辺の古本屋が命を削って稼ぐ、文字通りの『身を削る労働』ってやつをな!」



 丈一郎の瞳から冷徹な光が消え、文字通りの狂気に満ちた執念が宿る。

 彼は懐から、もう二度と開けないと誓っていたはずの、一番分厚い別の古書――仕入れ値すら思い出せないいわゆる『売れ残りの魔導書』を引きずり出した。


 ページをめくる指が、怒りと恐怖で血に染まる。


 空間操法と概念剥離の限界を超えた同時発動。


 空間の繊維を自分の肉体ごと引き千切るような凄まじい反動が、右腕の血管を派手に破裂させ、赤い飛沫が夕暮れ前の鉛色の空に舞った。

 剥き出しの血管から飛び散った血潮が、黒ずんだ古書の表紙をグロテスクに濡らす。


 空間操法の極限、それは空間そのものの骨組みを力任せにひっつかむ、まさに肉体労働の極北だった。

 右腕の真鍮バングルが耐えきれずにメキメキと音を立て、内側から激痛が骨髄を焼き尽くしていく。


 だが、引くことなど許されない。


 目の前には、俺の唯一の生活基盤であるボロ馬車を半壊させ、泥臭く積み上げてきた細やかな在庫を砂塵にまみれさせた「不法投棄のスクラップ」が立ちはだかっているのだ。



 「……これ以上俺の売上を下げやがったら、地獄の果てまで追いかけて仕入れ値の回収をしてやるから覚悟しやがれ!」



 丈一郎の怒号が、ひび割れた赤字街道の空気を震わせる。

 彼が血塗れの指先を『売れ残りの魔導書』の最も重い頁に突き立てた瞬間、世界全体がミシリと大きく歪んだ。


 空間の繊維が音を立てて千切れ飛び、文字という概念を超えた巨大な「重力と摩擦の塊」が、街道の座標そのものをねじ曲げながら顕現する。


 剥ぎ取られたのは、かつてこの世界の本に記されていたはずの『断(断絶の断)』と『破(破産の破)』の二文字だった。


 それは一文字魔術と空間操法で無理矢理二文字にした合体技である。



 「『断破(だんぱ)』だ! お前のその無駄にデカい存在価値ごと、我が店の帳簿から綺麗さっぱり消し去ってやるよ!」



 丈一郎が右腕を振り下ろすと同時に、視界のすべてが眩いほどの極彩色のノイズに塗りつぶされた。


 空間が内側から折り畳まれるような凄まじい衝撃波が走り、特大型の巨体が真ん中から綺麗に両断される。

 断ち切られた断面からは、魔力でも血でもなく、無数の古びた帳簿の切れ端や埃が吹雪のように舞い散った。


 轟音ののち、特大型は形を保てなくなって崩れ落ち、ただの山積みのゴミ屑へと還っていく。


 文字通り、完全に「破産」処理された瞬間だった。


 しかし、その代償はあまりにも重かった。


 手にしていた『売れ残りの魔導書』はボロボロに炭化し、使い物にならない黒い灰となって指の間から零れ落ちる。

 さらに、空間操法の反動で丈一郎の右半身の衣服がボキボキと音を立てるような肉体負荷を受け、彼はその場に膝をついた。


 鼻腔から熱い血がツーと流れ落ち、荒い呼吸をするたびに肺の奥が焼けるように痛む。



 「……はぁ、はぁ……クソが。また大赤字だ。この勝負、どう転んでも俺の財布のマイナスしか残りやがらねえ」



 丈一郎は血まみれの顔を歪め、地面に手をついたまま自嘲気味に笑った。


 モモが軽やかな身なりで瓦礫の上から飛び降りてくると、彼の足元に歩み寄り、冷ややかな視線を向けながらも、その柔らかい毛並みをそっと丈一郎の脛に擦り合わせた。



 「ヌッ(ケチな店主)」



 言葉はなくとも、その喉の奥の鳴き声には確かな労いが含まれていた。

 神の残骸としての威厳をかなぐり捨て、この泥臭い赤字街道を共に生き抜く相棒だけが、今の丈一郎にとっての唯一の「利益」だった。


 しばらく荒い息を整えた後、丈一郎はフラフラとした足取りで立ち上がった。


 半壊したボロ馬車の御者台に登り、かろうじて無事だった手綱を握りしめる。

 背後には、かつての街デナリウムから続く果てしない荒野が広がり、前方にはかすかに次の街『――ア・ポルト』のシルエットが鉛色の空に浮かび上がっていた。



 「行くぞ、モモ。こんなところで野垂れ死んでたまるか。次の街に着いたら、まずは傷んだ在庫の修繕と……ありったけの安物の干し肉の仕入れだ」



 「ナッ(飯)」



 モモが御者台の特等席に丸くなり、ふんと鼻を鳴らす。


 丈一郎は再び馬車を走らせた。


 車輪が地面の石を踏み鳴らす乾いた音が、静まり返った赤字街道に再び響き渡る。

 現世でどれほどの黄金が積み上げられ、あかりがどれほど異常な愛の牢獄を築き上げていようとも、この泥水の底で生きる古本屋の戦いは、明日も明後日も、一文無しの生活を維持するための「世知辛い労働」として続いていくのだ。


なあ、モモ。俺たちの人生の収支決算が黒字になる日は、いったいいつ訪れるんだ?

……まあいいさ。

明日も元気に、安物の本を仕入れてやるさ。

つくづく、この世は世知辛いぜ。

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