第四十八話 【異世界出張編】⑥失われた『い』(後編)
次々と這い出てくる錆びたパペットたちが、丈一郎のボロ馬車を囲い込む。
奴らの執念の矛先は、丈一郎の懐に眠る『白紙の禁書』が放つ、濃密で甘美な「情報の匂い」そのものだった。
死霊の成れの果てにとって、禁書のページから溢れ出す無秩序な念は、この世の何よりも飢えを満たす最高級の餌なのだ。
「ヌッ、ヌッ(数は十二。……いや、増えた)」
モモが低く唸る。
丈一郎は脂汗を拭い、懐の『あいうえお』を再び開いた。
パペットの群れをなぎ倒すには、『い』一文字の断片的な文字などではあまりに火力が足りない。
彼は焦燥に駆られながら、必死にページをめくり、『か』行、『さ』行へと視線を走らせる。
指先が微かに震える。
本をめくるこの動作一つですら、今の彼には「商売道具を削る」という罪悪感で重く感じられた。
「……ちくしょう、どこだ! 効率のいい殺し方はどこにある! 『か』……『火』の文字、『さ』……『鎖』の文字。……いや、待て! この二つを個別に剥がす手間を考えれば、いっそのこと……」
丈一郎は思考を高速回転させる。
古本屋としての勘と、生存本能が火花を散らす。
彼は『か』のページと『さ』のページを無理やり引き寄せ、強引に「文字の複合領域」を作り出した。
剥ぎ取るべきは文字単体ではない。
二つの文字が持つ意味の「境界線」そのものだ。
バリッ、という嫌な音が路地に響き渡る。
先ほどまでの、小気味よい「剥離」の音とは質が違う。
空間が物理的に引き裂かれるような、肉を断つような不快な破裂音だ。
二つの概念が同時に剥離されたことで、右腕の真鍮バングルが悲鳴を上げるように極彩色に熱を帯び、丈一郎の皮膚を赤く焼く。
右腕の筋肉が過負荷で痙攣し、血管が浮き上がる。
「『火鎖』……燃え広がり、逃げ場を奪う。これなら一撃だ!」
丈一郎は剥ぎ取った二つの光の破片を、パペットたちの群れへ叩きつけた。
瞬時に空中で『鎖』が形を成し、錆びついた金属鎧を纏う魔獣たちの四肢を繋ぎ止め、逃走を封じる。
その中心で『火』の文字が爆ぜた。
凄まじい熱風が路地を駆け抜け、金属鎧がドロドロに溶け落ちる。
断末魔が広場に木霊するが、丈一郎の耳にはそれは「利益の消滅」の音にしか聞こえない。
「……よし、排除完了だ。だが……!」
戦闘の余韻の中、丈一郎は手元の『あいうえお』の冊子を見て、絶句した。
そこには『か』と『さ』の文字が消え去った、二つのぽっかりとした虚無が並んでいる。
いや、それだけではない。
二文字を同時に引き剥がした反動で、冊子の表紙がビリリと縦に裂け、中綴じのホッチキスが悲鳴を上げて外れていた。
無残な紙片と化した在庫。
「あああああ!! 表紙まで! これじゃあ『幼稚園児のための~』というタイトルすら崩壊してやがる! 中身の文字も半分以上のインクが消えかけてるじゃねえか! 価値はゼロだ、いや、これはもう粗大ゴミだ! 誰が表紙のない、しかも文字が欠落した幼児教材を買うんだよ!!」
丈一郎の心に、戦闘の勝利よりも深い喪失感が襲いかかる。
手持ちの在庫が、戦うたびに削られていく。
俺は戦っているんじゃない、俺の未来を、俺の老後の店を、俺の生活のすべてを燃料にして、この世知辛い異世界を無理やり燃やしているだけなんだ。
その事実に気づいた時、古本屋としての矜持がガラガラと崩れ落ちる音がした。
彼は血の涙を流さんばかりの形相で、穴の開いたページを指で撫でた。
今日だけの戦いでの実質的な赤字は、軽く銀貨十枚分は下らないだろう。
「……割に合わねえ。本当に、割に合わねえ仕事だぜ」
丈一郎は震える手でボロボロの冊子を懐に仕舞い込んだ。
右手の痺れは引かない。
文字を剥がすたびに、自分の手先から「人間としての何か」がこぼれ落ちていくような感覚がある。
だが、止まることは許されない。
戦場において、古本屋は常に赤字と隣り合わせの綱渡りを強要されるのだから。
静寂が戻った広場には、焼き焦げた金属の臭いと、焦げ付いた紙の匂いだけが淀んでいた。
丈一郎は膝から崩れ落ちるように座り込み、ボロボロになった幼児教材を懐に押し込んだ。
その瞳には、かつて「掃除屋」として持っていた冷徹な光は完全に影を潜め、ただの「金のない古本屋」特有の、深く、やり場のない哀愁が漂っている。
手先の痺れはまだ収まらず、指先を動かすたびに針で刺されるような痛みが走る。
「……ヌッ(……またか)」
モモの低く短い鳴き声に、丈一郎は弾かれたように顔を上げた。
路地の入り口、街灯の光が届かない闇の奥から、漆黒のローブを纏った先ほどの魔術師が、足音も立てずに歩いてくる。
手には杖ではなく、重厚な革表紙の帳簿を抱え、まるで店を潰しに来た金融屋のような冷ややかな笑みを浮かべていた。
「ほう。そのボロい幼児教材一冊で、これだけのパペットを処理したか。……実に効率の悪い、しかし興味深い『魔法』だ。商売道具を自ら削り取って武器に変えるとは、古本屋というよりは、自らの肉を切り売りして空腹を凌ぐ乞食の流儀だな」
魔術師は丈一郎の足元に転がる惨状を見下ろし、皮肉な言葉を吐き捨てる。
その声は氷のように冷たく、街の喧騒を遮断して響いた。
「お前……さっきのゴロツキの仲間か? 何者だ?」
「私はこの街の『金庫番』だ。君が今、この街で引き起こした『損害』は、街の記録帳にも記載される。……つまり、君は単にデナリウムという街の帳簿に、消すことのできない『負債』を書き込んだということだ」
丈一郎は天を仰いだ。異世界まで来て、また借金生活か。
しかも今度は、俺のせいではない、出口の見えない貸借関係だ。
「……旦那、いい加減にしろ。俺はただ、本を売りたいだけなんだよ。店を構えて、客に喜んでもらって、それで飯を食いたいだけだ。あんたみたいな連中の帳尻合わせに付き合う義理はねえ。逆に街を守ったとも言えるだろ?」
「それなら、逃げて街の警備隊に任せれば良かったろ?そもそも、お主もその魔法を試したかったとのではないか?とりあえず、今日は休むが良い」
魔術師は閉じた帳簿を叩き、またしても陽炎のように夜風に溶けて姿を消した。
丈一郎は右腕の真鍮バングルをぎゅっと握りしめた。
その内側で、何か熱いものが脈動している。
試したかった……それは違うとは言えなかった。
この禁書の文字を剥がせば、確かに強大な力、それこそ、この街を更地にするほどの暴力が手に入るかもしれない。
だが、それは古本屋としての自分を完全に殺すことと同義だ。
「よし、逃げよう」
丈一郎は立ち上がり、ボロ馬車の手綱を握った。
街の向こう側まで、駆け抜けていった。
明日にはまた、新しい仕入れと、それ以上の過酷な現実が待っている。
この「世知辛さ」は俺の宿命ってことか。
モモ、とりあえず飯だ。
腹が減っては戦はできぬ。
今日の夕飯は……安売りしてた干し肉と、泥水みたいなスープで我慢するか。
ああ、つくづく世知辛いぜ。




