第四十七話 【異世界出張編】⑥失われた『い』(前編)
『野菜のオーブン焼き』のページを台無しにした痛手は、空腹と比例して俺の精神を削りやがる。
銀貨三枚の利益が、たった二文字の「剥離」でゴミ箱行きだ。
……これじゃあ、食い繋ぐためにまた新しい古本を仕入れなきゃならねえ。
だが、仕入れにも銭がかかる。
この悪循環を断ち切るには、魔獣の死骸を換金するか、それとも……レア物の本を、どこか高値で買ってくれる奇特な奴に売りつけるか。
手放すのが一番の損かもしれないのが、一番の腹立たしさだぜ。
デナリウムの夜は、相変わらず排気とスパイスが混ざったような不潔な空気に満ちている。
街の湿った夜気には、先ほど魔術師が散布した《蒼氷の薔薇》の甘ったるい魔力残滓と、下水から上がる腐臭が混じり合っていた。
丈一郎はボロ馬車の御者台に腰を下ろし、手元の『格安・今日の料理レシピ集』を絶望的な面持ちで検品していた。
文字が剥ぎ取られた箇所は、インクの染みではなく、空間そのものが欠落したように周囲の闇を吸い込んでいる。
「……これ、物理的にもダメだわ。紙の繊維が悲鳴を上げてる」
丈一郎が指でその「穴」を撫でると、指先に微かな摩擦と、凍るような冷気が伝わる。
概念を物理的に剥がすということは、その本が持つ情報を削り取ることであり、情報の詰まった容器である古本を破壊することと同義だった。
剥がした文字を力として浪費するたび、対象となった本は古本屋の商材から、呪いを溜め込むただの「廃棄物」へと成り下がる。
「ヌッ、ナッ(……ネズミが来たな)」
肩に乗っていたモモが、喉の奥を鳴らして警告を発した。
鋭い視線が、路地の影へと向いている。
どうやら、先ほどの戦闘を嗅ぎつけ、残飯を漁る下卑た連中が寄ってきたらしい。
「……ちっ、客か? それとも督促か?」
影から現れたのは、ボロ布のようなローブを纏った浮浪者のような男だった。
手には杖ではなく、古びた鉄製の火箸を握りしめている。
「お前、さっきの『魔法』を扱った奴だな……。その料理本、もう『中身』が抜けてるだろ。俺に譲れ。その欠損した本、魔術のかかった本にして騙せば高く売れるんだ」
男はニヤつきながら、丈一郎の手元にある、価値を失った料理本を凝視した。
その瞳には、古本屋としての矜持など微塵もない。
ただ、ゴミをゴミとして売りさばく、底辺の利害だけが濁った光を放っている。
丈一郎は眉間に深い皺を寄せ、愛用の古本を懐へ隠した。
「……ああ? 在庫を狙ってんのか。悪いが、こいつは『難あり品』とはいえ、俺の商売道具だ。お前みたいなゴロツキに卸すような筋合いはねえよ」
「ケチだな。どうせお前じゃ、その穴から漏れる『毒』で、そのうち自分が食い殺されるぞ」
男が火箸を振るうと、周囲の空気が重く澱んだ。
それは高度な魔術というより、空間の密度を物理的に歪める、卑劣で強引な収奪の術式だ。
丈一郎の膝が、急激な重力加速度に押し潰されそうになる。
「……商売の邪魔をするなら、それ相応の賠償金を請求するからな」
丈一郎は懐から、一冊の薄い冊子を取り出した。
表紙には『幼児のための、はじめてのあいうえお』とある。
背表紙の擦れ具合からして、仕入れ値は相当に安かったはずだ。
「……銀貨一・五枚の料理本より、こっちのほうが単価は安い。だが、文字の密度はこっちのほうが上だぜ」
丈一郎の右指が、冊子の『い』の文字を捉えた。
世界が剥がれ落ちるような摩擦音が、静かな路地に響く。
丈一郎の指先に、淡い光を纏った『い』の文字が、まるで粘着質のラベルのように貼り付く。
空間そのものを物質として扱う「剥離」の感触は、いつやっても自分の神経を直接削り取られるような不快な痛みがあった。
剥がれ落ちるような摩擦音が、静かな路地に響く。
空間そのものを物質として扱う「剥離」の感触は、いつやっても神経を直接削り取られるような不快な痛みがあった。
「……息」
丈一郎は残虐な笑みを深め、指先に込められた『息』を、ある能力へと変質させる。
「『息』の『い』だ。お前の側から、その空気をすべて奪い去ってやる」
丈一郎が指先を男の胸元へ突き出した瞬間、世界が不自然に歪んだ。
放たれた『息』が『空気』という概念へ収束した瞬間、男の胸に不可視の重圧が叩きつけられる。
物理的な打撃ではない。
肺という器官が「息」という漢字の持つ静的な質量に押しつぶされ、呼吸そのものが強制終了させられたのだ。
「がはっ……な、何を……っ!?」
男の喉から強制的に空気が引きずり出される。
酸素を求める反射すら許さぬほどの真空。
男の胸部が、まるで透明な巨大な槌で叩かれたかのように凹み、呼吸を封じられた苦悶と共にその場に崩れ落ちた。
男は火箸を落として地面を掻いた。
丈一郎は男がピクリとも動かなくなる前に能力を解除した。
「ガハァ、ハ、ハァ……」
丈一郎はすぐさま懐から『あいうえお』の冊子を取り出した。
ページを捲り、無惨に剥がれた『い行にあった息』の空白を確認する。
「……ああ、クソッ! まただ、また欠損しやがった。完璧な状態で売るのがプロの仕事だってのに、このありさまだ」
丈一郎は血の涙を流さんばかりの形相で、穴の開いたページを指で撫でた。
このゴロツキといい、デナリウムの治安が最悪なのは知っていたが、これでは仕入れの自転車操業すら追いつかない。
「ヌッ(……来るぞ)」
モモが呆れたように尻尾を振った。
広場の奥、瓦礫の山が崩れ、先ほどまで戦っていたものよりもさらに凶悪な、錆びついた金属鎧を纏ったパペットたちが這い出てくる。
それらは生前の主の執念か、あるいは街の地下に眠る呪術的な廃棄物か。
「またか……飯を食う暇もねえのかよ。今日はもう店じまいだ。在庫整理は明日にしようと思ったのにな」
丈一郎は悪態をつきながら、残った『あ』から『ん』までの文字をざっと見渡した。
このパペットの群れを処理するには、最低でも「爆」や「砕」といった、文字が必要になる。
「……この際、あの『白紙の禁書』に手をつけるか?」
丈一郎は懐にある、重厚で存在感のないあの禁書に手を伸ばしかけた。
しかし、指先が触れる直前、右手首に埋め込まれた真鍮のバングルが、警告するように冷たく脈動する。
あれに触れれば、今の自分の器では魂まで「穴」が開くかもしれない。
「……いや、まだだ。俺の商売は、今日を生き抜いて、明日また誰かに本を売るためのものだ。在庫を全滅させるようなリスクは冒せねえ」
彼はギリリと奥歯を噛み締め、再び『あいうえお』の冊子を握り直した。
古本屋としてのプライドと、生き汚いサバイバル精神が、極限で衝突していた。
文字を剥ぐ代償と泥臭い自転車操業回でした。
ボロボロになる商売道具に泣く丈一郎ですが、背後にはさらに凶悪なパペットの群れが……。




