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第四十六話 【異世界出張編】⑤在庫(後編)


 「……っ、おい! 旦那、笑い事じゃねえぞ! この本に触ったせいで、俺の右手が変な感触になっちまったじゃねえか!」


 丈一郎の怒声が響く中、事態は待ってくれなかった。


 魔術師が放った高潔な魔法《蒼氷の薔薇》の残滓。

 その甘美な魔力の香気に誘われ、路地の奥から不気味な足音が響く。


 「グルゥ……ッ、アアアァ!」


 現れたのは、全身が汚れた包帯のような皮膚で覆われた、二足歩行の魔獣『カダバー・パペット(死体人形)』の群れだ。

 デナリウムの地下に潜む、魔力に飢えた死霊の成れの果て。


 そいつらは、丈一郎が持つ「白紙の禁書」から漏れ出す、濃密な情報の匂いに当てられ、食らいつこうと跳躍する。


 「……ちっ、興が削がれたな。……使い道を見せてもらえるのかな?」


 魔術師は優雅に一歩下がり、まるで高みの見物を決め込むかのように杖を突いた。


 「他人事だと思って……! モモ! 馬車を守れ!」


 「ヌッ(言われずとも!)」


 モモが荷台に飛び乗り、牙を剥く。


 目の前には、腐敗した爪を振りかざす三匹のパペット。

 丈一郎は咄嗟に「白紙の禁書」を懐に放り込み、カウンターに並んでいた『格安・今日の料理レシピ集』をひったくった。


 (……禁書を壊す勇気はねえ。だが、この仕入れ値銀貨一枚の安物なら、まだ……!)


 丈一郎は右手の指先を、その安っぽい料理本

のページに滑らせた。


 指先が「情報の繊維」を捉える。


 料理本の『焼(やく)』という文字に指をかけ、空間操法の要領で、その概念を現実へと強引に引き剥がした。

 

 ピリッ。


 剥がれた文字は、丈一郎の指先に淡い光の破片となって付着する。

 迫りくるパペットの胸元へ、その指先を叩きつけた。

 

 刹那、火気もないはずの空中で、パペットの体が内側から爆発的に発火した。

 それは魔術師の炎とは違う。ただ「焼ける」という結果だけがそこに固定され、因果を無視して肉体を灰へと変えていく、無慈悲な現象。


 「……よし、効いた。……だが!」


 丈一郎は、手元の料理本を見て、血の涙を流した。

 彼が文字を抜いた『野菜のオーブン焼き』のページ。


 そこには、一文字分の、ぽっかりとした虚無の穴が開いていた。


 「……ああああ! 完品なら銀貨三枚で売れるはずだったのに! これじゃあレシピとして成立しねえじゃねえか! 『野菜を……く』って、何をすりゃいいんだよ! 客からクレーム確定だわ!」


 「何を騒いでいる、命と天秤にかければ安いものだろう」


 魔術師が冷ややかに笑う。


 「旦那には分からねえんだよ! 古本屋にとって、ページに穴を開けるのは、自分の体に風穴を開けるのと同義なんだよ!」


 追い打ちをかけるように、さらに巨大なパペットの親玉が、仲間の灰を振り払って肉薄してきた。

 その巨大な腕が、丈一郎の頭上から振り下ろされる。


 丈一郎は絶望に顔を歪めながら、再び本を捲った。


 (……クソ、次はどの一文字を犠牲にする!? 熟語はやめろ、単価が高い! 助詞か? いや、助詞じゃパンチが足りねえ……!)


 彼はページの隅にあった『重(おもき)』という文字に指をかけ、爪の先で引っ掛けるようにして剥ぎ取った。

 

 「……一文字失うごとに、本屋としての志が遠のいていくぜ……!」


 振り下ろされる巨大な腕。


 丈一郎はその腕を避けるのではなく、あえてその「肘」の空間へ、剥ぎ取った『重』を押し付けた。


 ドォォォォォォン!!


 丈一郎の目の前で、パペットの腕が自身の質量に耐えきれず、石畳を粉砕して地面にめり込んだ。


 「重い」という概念を上書きされたその腕は、もはや魔力や筋力で持ち上げられるレベルの重さではない。


 「……返品不可だ。そのまま、その重みと心中してな」


 丈一郎は、動けなくなったパペットの頭部に、空間操法で加速させた「別の古本(非売品)」を、鈍器として叩き込んだ。


 戦いには勝った。


 だが、広場には、ひしゃげた魔獣の残骸と、一文字ずつ欠落し、もはや売り物にならなくなった料理本を抱えて、魂が抜けたように項垂れる丈一郎の姿があった。


 「……おい、旦那。これ、どう落とし前つけてくれるんだ? 『難あり品』の在庫が増えるたびに、俺の寿命が縮んでるんだが……」


 魔術師は、その無様で、しかし底知れない可能性を秘めた姿を眺め、不敵な笑みを浮かべたまま霧のように姿を消し始めた。


 「……実に良い力だ。やっと謎が解けた。

何でもとりあえず、持ってるものだな」


 「逃げるな、こら! 損害賠償の請求書を送るぞ! 郵便受け空けとけよ!」


 丈一郎の叫びも虚しく、夜の静寂が戻る。


 手元には、穴だらけの料理本と、懐にある謎の「白紙の禁書」。

 

 「……モモ。俺、明日から何食べて生きていけばいい?」


 「ナッ、ヌッ(知るか。それより飯だ)」

 

 異世界の月光が、ボロ馬車の看板と、一人の絶望した古本屋を、寒々と照らしていた。

 先ほどまで空間を支配していた《蒼氷の薔薇》の残滓は、主(あるじ)である魔術師の消失とともに、陽炎のように揺らぎ、キラキラとした光の粒子となって夜風に溶けていった。


 あとに残されたのは、石畳に深く刻まれたクレーターと、もはや「ゴミ」というカテゴリーに分類するしかない、魔獣の成れの果てだ。


 「……終わったのか?」


 丈一郎は膝をついたまま、脂汗の浮いた額を手で拭った。

 右腕のバングルは、もはや熱を帯びることもなく、相変わらず古びた真鍮の鈍い色を放っている。


 だが、その右手に残った感覚は、先ほどまでとは決定的に違っていた。

 指先を動かすたび、世界の「表面」ではなく、その裏側に張り付いている「意味」に直接触れてしまうような、奇妙に生々しく、そして悍ましいほどの高解像度。


 「ヌゥ(腹が減った)」


 モモが荷台から飛び降り、丈一郎の足元に体を擦り寄せた。

 その喉の鳴る低い振動が、ようやく丈一郎の意識を現実の土俵へと引き戻す。


 彼は老人のような動作でゆっくりと立ち上がり、震える手でカウンターの上に置かれた惨状を確認した。


 「……ああ、クソ。見るんじゃなかった。見なきゃよかったよ」


 そこに転がっているのは、先ほどまで「仕入れ値銀貨一枚、販売見込み銀貨三枚」として計算に入れていた『格安・今日の料理レシピ集』だ。


 『焼』と『重』。


 たった二文字を失ったその本は、今や呪術的な欠陥を抱えたアーティファクトのような不気味さを漂わせている。

 ページを捲れば、抜き取られた場所だけが漆黒の虚無となって、こちらの視線を吸い込んでくる。


 「銀貨三枚が、一瞬で銅貨一枚の価値もなくなった。……一文字あたり銀貨一・五枚の損失か。これ、経費で落とせるか? 無理だよな、領収書を切ってくれる敵なんていやしねえもんな」


 丈一郎は恨めしそうに、魔術師が消えた夜空の向こうを睨みつけた。


 懐から取り出した、あの「白紙の禁書」。


 歴代の賢者さえ手出しできなかったというその奇書は、丈一郎の腕の中で再び深く、静かに眠っている。

 不思議なことに、あれほど激しく文字が躍動し、右腕と共鳴していたのが嘘のように、今はただの、少し手触りのいい上質な白紙の本に戻っていた。


 「とんでもねえ本を店に残してくれたもんだぜ」


 今の自分の右手には、確かにその本に見合うだけの「異端」が宿ってしまった。

 文字を抜き、事象を現実の座標に貼り付ける力。


 それは万能の魔法などではない。


 自分の「商品」を、つまりは積み上げてきた自分の「生活」そのものを物理的に削り取り、無理やり武器へと変質させる、極めて効率の悪い、呪いにも似た暴力だ。


 「……在庫の再検品だ!」


 丈一郎は重い腰を叩きながらボロ馬車の御者台に腰を下ろした。


 デナリウムの街の、あの排気とスパイスが混ざったような不潔な空気が、再び商売の喧騒を運んでくる。


 「よし、次はもっと画数の少ない、安上がりの本を大量に仕入れないとな。……『ひらがな入門』とか、一文字あたりのコストが低そうでいいじゃねえか。いや、待てよ……『。』とか『、』でも何か起きるのか? 句読点一発で魔王を倒せりゃ、これ以上の節約術はねえぞ」


 丈一郎は独り言を言いながら、馬の鼻面を撫で、手綱を握り直した。

 新しく手に入れた能力。


 その真の対価を、この異世界という不条理な帳簿にどれだけ支払わされることになるのか。


 「……あー、腰が痛え。……モモ、飯は帰ってからだ。俺の財布は今、お前以上に飢えてるんだからな」


 古びた馬車が、ギシギシと悲鳴を上げて動き出す。

 夜の帳の向こう、まだ見ぬ未知の在庫(お宝)と、さらなる赤字の予感を抱えて、丈一郎の世知辛い旅は続いていく。


 能力を極めるほど貧乏になる俺……。


 ある意味、修行よりもきつい戦いになりそうです。

 次はもう少し、ページを汚さずに勝てる方法を考たいものです。

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