第四十五話 【異世界出張編】⑤在庫(前編)
……ったく、街に着くなりこれかよ。
路銀を稼ぐために店を開けば、役人には「営業許可証を出せ」だの、ガキには「パンをよこせ」だの。
挙句の果てに、この世界のタバコ代は日本の三倍だと?
世知辛い。あまりに世知辛すぎて、俺の血管が「空間操法」する前に弾けそうだ。
ええいモモ、お前も商品の上で香箱座りしてんじゃねえ!
「客が来ねえ」
丈一郎の第一声は、もはやデナリウムの乾いた風に溶けて消えるのが習慣になりつつあった。
そこは、商業都市デナリウムの西区、通称『錆びた歯車』と呼ばれる路地裏の広場だ。
中央広場のような華やかさはないが、日雇いの労働者や、訳ありの冒険者が行き交う、淀んだ活気だけはある場所だった。
丈一郎は、レオからせしめた銀貨の半分を「場所代」として怪しげな胴元にむしり取られ、ようやくこの場所に、愛車である移動式馬車を停める許可を得た。
「環古書店」
馬車の側面に立てかけられた看板は、ゴミ捨て場から拾ってきた廃材に、炭を唾で溶かして書いたものだ。
跳ね上げた荷台のフラップが即席のカウンターとなり、そこには「商品」が並んでいる。
といっても、そのラインナップはあまりに貧相だった。
魔獣戦の返り血でページが数枚くっついた『果物図鑑(落丁あり)』、爺さんの蔵書の底に眠っていた「現世」の週刊誌、そして、この世界の紙質を調べるために近所のゴミ箱から回収し、丈一郎がアイロン(熱した石)でシワを伸ばした「古紙」の束。
「ナッ(暇だ)」
「暇なのはお前の胃袋だけにしとけ。ほれ、看板娘らしく客の一人でも釣ってこい。三毛猫の招き猫なんて、現世じゃ商売繁盛の神様なんだぞ」
丈一郎は、商品である植物図鑑の上で丸まっているモモの尻尾を、指先で軽く弾いた。
モモは不機嫌そうに片目を開け、「フンッ」と鼻を鳴らして前足で耳を洗う仕草を見せる。
その態度は、神としての威厳など微塵もなく、ただの食い意地の張った野良猫のそれだ。
「おい、店主。さっきから見てりゃあ、なんだその汚ねえ紙屑は」
通りすがりの、皮鎧を着たガラの悪い男が足を止めた。
腰には安物の短剣、手にはこの世界で一般的な「魔石灯」を持っている。
「紙屑じゃねえ、在庫だ。あんたのその短剣と同じさ。使い道を知ってる奴にしてみりゃ、命を繋ぐ道具になる」
「ハッ、笑わせんな。この街で本っつやぁ、金持ち様が使う『紙』のことだ。こんな湿気た紙束に銀貨三枚? 冗談は顔だけにしな」
男は汚い唾を石畳に吐き捨てた。
丈一郎の瞳の奥に、一瞬だけ、現世の「環の掃除屋」としての冷徹な光が宿る。
だが、彼はすぐにそれを押し殺し、営業用の力ない笑みを浮かべた。
「冗談ならもっと安くしてるさ。……あんた、最近夜道で足がもつれねえか? 右の膝裏、空間の繊維が少し解れてるぜ。そのままだと、次の狩りで魔獣に追いつかれるな」
「……あ? 何言ってやがる。不吉なこと抜かすんじゃねえ!」
男は気味悪そうに肩をすくめ、足早に去っていった。
丈一郎は男の背中を見送りながら、深く溜息をつく。
(……いけねぇな。あんな親切、一銭にもなりゃしねえ)
丈一郎は懐を探った。
指先に触れたのは、最後の一箱、空っぽの「煙草」の箱だ。
中身はとっくに尽きているが、その甘いバニラの残り香だけが、唯一の正気を保たせてくれる。
「モモ。俺は今、煙草が吸いたい」
「ヌッ(知らん)」
「……お前、今絶対『ざまあみろ』って言ったろ」
そんな軽口を叩き合えるのも、今のうちだった。
広場を通り抜ける風の匂いが、一瞬で変わった。
それは、埃っぽく、血と脂が混じったデナリウム特有の生活臭ではない。
古い図書館の奥底に溜まった冷たい空気のような、高純度の「魔力」の香気だ。
カラン、カラン……。
石畳を叩く杖の音が、喧騒を物理的に切り裂いて近づいてくる。
行き交う労働者たちが、誰に指示されるまでもなく道を空け、壁際で頭を下げた。
彼らの表情には、尊敬よりもむしろ「異質なものへの恐怖」が張り付いている。
丈一郎は御者台からゆっくりと腰を上げた。
右腕のバングルが、呼応するようにドクンと一度、脈動した。
真鍮色に錆びついたはずの表面が、ごくわずかに熱を帯びる。
(来るな……。こりゃあ、単なる客じゃねえ。……面倒な『在庫』を抱え込まされそうな予感がしやがる)
広場の向こうから、一人の人物が現れた。
引きずるような長い漆黒のローブ。
その裾には、銀色の糸で、この世界の天体図を模したような複雑な紋様が刺繍されている。
手にした杖は、磨き上げられた黒檀に、大粒の青い魔石が埋め込まれており、そこから溢れ出す冷気が周囲の石畳をうっすらと白く凍らせていた。
その魔術師は、丈一郎のボロ馬車の前で、ピタリと足を止めた。
深く被ったフードの奥から、鋭く、それでいてどこか虚無を抱えた瞳が丈一郎を射抜く。
魔術師の視線は、並べられた古本には向いていない。
ただ、丈一郎という存在そのもの、あるいは彼が扱っている「違和感」を、じっと観察しているようだった。
「……ほう。この澱んだ街の片隅に、本屋を開いてる者がいると聞いたが」
魔術師の声は、若々しくもあり、老いているようにも聞こえる、不思議な響きを持っていた。
丈一郎は、半纏の襟を正し、最大限に「金に意地汚い商人の顔」を作った。
「旦那。……ここは古本屋です。知識を買うか、あるいは、あんたの抱えてる『重たい知恵』を売りに来たのか。どっちです?」
魔術師は薄く笑った。
その細い指先が、ローブの懐から一冊の「本」を取り出す。
それは、表紙も背表紙も真っ白な、異様なほど存在感のない冊子だった。
「売りたいのは、これだ。……ただし、これが見える者にしか、対価を支払う権利すら与えられんがな」
魔術師がその本をカウンターに置いた瞬間、丈一郎の視界がぐにゃりと反転した。
空間操法の「繊維」が、その真っ白な本に吸い込まれ、猛烈な勢いで編み直されていく感覚。
「……っ。おいおい、旦那。……随分な代物を持ってきたじゃねえか」
丈一郎の目に、その白紙のページから、文字の奔流が溢れ出し始めるのが見えていた。
「……しかし、薄汚れた御仁だな」
魔術師の言葉は、氷の礫のように丈一郎の鼓膜を打った。
フードの奥から覗く瞳は、夜空を凝縮したような深い藍色。
その杖が石畳を叩くたびに、周囲の熱が奪われ、空気中の水分がキラキラとダイヤモンドダストとなって舞い落ちる。
「……薄汚れてて悪かったな。こちとら少しでも安く仕入れて、高く売るのが仕事なんだよ。旦那みたいな、空の上で霞でも食ってそうな高貴な魔術師様には分からねえだろうがね」
丈一郎は鼻を鳴らし、あえて不遜に御者台に座り直した。
魔術師は不快感を示すどころか、面白そうに唇を歪め、杖を高く掲げた。
「魔法とは、選ばれし者が理を導く聖なる芸術だ。君のような『物理の残骸』をこねくり回すだけの者に、これが理解できるかな?」
魔術師が目を閉じ、静かに、しかし朗々と呪文を紡ぎ始めた。
その声が響くたび、広場の大気が目に見える波紋となって震える。
「《久遠の深淵に眠る蒼き溜息よ。凍土の抱擁を以て、無秩序なる流転を縛らん。具現せよ、静寂の極致》」
杖の先に埋め込まれた巨大な青魔石が、脈打つような光を放つ。
「……《蒼氷の薔薇》」
刹那。
無機質な石の噴水から、透き通るような青い氷の蔦が爆発的に伸び、一瞬にして広場の中央に巨大な氷の薔薇が咲き誇った。
それは単なる凍結ではない。
水の一滴、空気の一粒子までもが魔術師の意志によって「再構成」された、完璧な造形美。
花弁の一枚一枚が、月光を反射して鋭利な輝きを放ち、周囲の温度を一気に零下へと叩き落とす。
デナリウムの住人たちが思わず溜息を漏らし、膝をつくほどの圧倒的な「正統派」の魔法だった。
「……ちっ、これだから天才様は嫌いなんだ。理屈が通りすぎてて、隙がねえ」
「私はこの街の禁書庫を管理している者だが、一つ、どうしても読み解けぬ在庫があってね。……歴代の賢者たちが手に取っても、ただの『白紙』にしか見えなかったという、曰く付きの奇書だよ。いかなる解析魔術も、この表紙一枚すら捲ることは叶わなかった」
魔術師は、その白い本を指差した。
「……これに何が書かれているか、当ててみせたまえ」
丈一郎は、怪訝な顔でその白い本を手に取った。
その瞬間だった。
右腕のバングルが、肌を焼くほどの熱を放った。
錆びついた真鍮色の隙間から、暴力的なまでの黄金の光が漏れ出し、丈一郎の視界を真っ白に染め上げる。
(……あ。これ、違う。空間を掴むんじゃねえ、これは……)
空間操法の感覚が、勝手に「変質」していく。
これまでは『空間という布』を掴んでいた。だが今は、指先の神経が、本という物質を超えて、その中にある「事象の重なり」を直接撫でている感覚。
真っ白だったはずのページから、黒いインクが湧き出すように、文字が立ち上がってきた。
「……旦那、白紙だなんて、冗談がキツいぜ。……こいつ、うるさいくらいに喋ってやがる」
丈一郎の目には、ページの上を奔流のように流れる無数の文字が見えていた。
それはこの世界の言語ではない。
九重の爺さんの倉庫で、幼い頃に嫌というほど見せられた、あの古めかしい明朝体の活字体。
『硬』、『重』、『鋭』、『熱』……。
単一の概念を閉じ込めたような文字たちが、ページの中で脈動している。
丈一郎は、無意識に、その中の一つに指をかけた。
空間を掴むのではない。
その文字という「情報」だけを、紙の上から自分の指先へと、一ミリだけ浮かせ、ズラすイメージ。
ピリッ。
まるで、貼り付いたシールの端を爪で慎重に剥がし取るような、奇妙に生々しい手応え。
丈一郎の右手の指先に、ぼんやりと光る『硬』の一文字が、物理的な手触りを伴って転写されていた。
「……抜けた」
丈一郎が呟くと同時に、魔術師の表情が、驚愕へと塗り替えられた。
彼ら高名な魔法使いが、どんな高火力の魔法を叩き込んでも一傷もつけられなかった「白紙の禁書」。
それが、目の前の、ヨレヨレの半纏を着た男の指先一つで、文字通り「解体」されたのだ。
「君……今、何をした? 術式も、魔力の循環もなかった……。ただ、そこに『あった』ものを、横に動かしただけのように見えたが……!」
「知るかよ!」
丈一郎は吐き捨てるように言ったが、その目は、手元の本に釘付けになっていた。
彼が文字を剥ぎ取った跡。
そこには、一文字分の、ぽっかりとした無機質な「穴」が空いていた。
周囲の文章は、その一文字を失ったことで整合性を失い、ぐにゃりと歪んで価値を損なっている。
「あ、あああああああ!!」
丈一郎は、広場全体に響き渡るような絶絶望の声を上げた。
「何してくれてんだ俺の右手ぇ!! 見ろよこれ、ページの真ん中に穴が空いちまったじゃねえか! 美品どころか、こんなの『重度の欠損あり』で、二束三文にもなりゃしねえ!!」
「な、何を言っている。君は今、世界の理の一部を切り出したのだぞ!? 歴史的な快挙だ!」
「快挙だか何だか知らねえが、古本屋としちゃあ大破産だ!どんな罰ゲームだよ、これ」
丈一郎は、指に張り付いた『硬』の文字を呪わしげに見つめ、それから穴の空いた本を抱きしめて、血の涙を流さんばかりに項垂れた。
その様子を、モモは欠伸をしながら眺め、「フンッ(自業自得だ)」と、鼻を鳴らした。
だが、その時。
広場の隅、暗がりに潜んでいた魔獣たちが、丈一郎が本から引き出した「異質な情報の匂い」に当てられ、不気味に動き出した。




