第四十四話【異世界主張編】 ④世知辛い風(後編)
突進してくる十数匹のスクラップ・シザース。
多脚が赤土を叩く振動は、もはや地鳴りに近く、丈一郎の足の裏から内臓へと不気味に響き渡る。
本来、空間操法の極致とは「静と動」である。
最小限で世界の理を静かに動かす、かつ完璧に処理する。
だが、今のエネルギー切れの丈一郎にそんな芸当は望むべくもない。
彼は泥臭く、全身のバネと筋肉を使い、この世界の「物理」という暴力と真正面から格闘しなければならなかった。
「ギチィィィッ!」
左右から同時に迫る、巨大な鎌の挟み撃ち。
逃げ場を断たれたかに見えたその瞬間、丈一郎は空間を「踏んだ」。
何もない中空。
そこに一瞬だけ、厚手の絨毯、あるいは使い古されたキャンバスのような「密度の偏り」を強引に作り出す。
丈一郎の使い古された靴底が空気を捉え、重力を無視して真上へと跳ね上がった。
「……っ、ぐああぁ!」
頭蓋の内側を直接火炙りにされるような激痛。
集中力が極限に達した時のみ許される、空間の踏み台。
それは空間を一点に強固に固定し、慣性を無理やり反転させる。
滞空時間は、瞬き二つ分。
だが、戦場を知り尽くした彼にとっては十分すぎる時間だった。
宙で逆さまになった丈一郎の視界に、獲物を逃して衝突しそうになった魔獣たちの、無防備な背中がパノラマのように広がる。
彼は後方の荷台、そこにある「売り物にならない、湿気た古本の山」を思い出した。
「モモ! 重たいやつだ!」
「フンッ(注文が多い!)」
モモが荷台で、面倒そうに前足を一振りする。
それだけで、数百ページの厚みがある『異世界植物図鑑(表紙なし・落丁あり)』が数冊、弾丸のように空中に放り出された。
丈一郎はその本の一冊一冊に、目視すら伴わない速度で空間の「牽引ワイヤー」を繋ぐイメージを叩き込む。
「ふんぬぅぅぅぅ!」
落下する本の速度が、一気に臨界点を突破した。
それは自由落下ではない。
丈一郎が本の周囲の空間そのものを手繰り寄せ、強引に地面へと「落とした」のだ。
ドゴォォォン!
と、紙の束からはおよそ想像もつかないような重低音が、荒野の静寂を粉砕した。
加速した本は、もはや情報の詰まった媒体ではなく、超高速で撃ち出された鉄塊の弾丸と化し、魔獣の一匹の頭部を文字通り消失させた。
飛び散る青白い体液と、ぐしゃりとひしゃげた外殻。
ページが数枚、血に染まって宙を舞う。
「な、なんだ……魔術じゃない、詠唱も魔陣も……あんな戦い方、見たことがない……!」
後方で立ち尽くすレオが、戦慄に声を震わせる。
彼ら異世界の騎士にとって、魔法とは精緻な術式と魔力の美しい変換によって成る「聖なる芸術」だ。
だが、丈一郎のそれは違う。
そこにあるのは、世界の構造を無理やり捻じ曲げ、日用品を凶器に変え、効率的に命を奪う「無機質な作業」だ。
そのあまりに合理的で、かつ品性のない「暴力の純粋形」に、レオは畏怖と嫌悪、そして抗いがたい敬意を覚えていた。
だが、その対価はあまりに重い。
着地した丈一郎の膝が、ガクリと折れた。
「はぁ……はぁ……、クソ……。視界が、二重に……ズレやがる……」
眼前の景色が、まるで高熱に浮かされたように不気味に歪んで見える。
空と地面が混ざり合い、魔獣の動きが断続的なパラパラ漫画のようにノイズを伴う。
深刻なダメージ。
腕の血管が丈一郎のバイタルを最後の一滴まで吸い尽くそうと、脈動している。
そこに、群れの中で最も巨大な一匹、これまで様子を伺っていた「リーダー個体」が、丈一郎の決定的な隙を見逃さずに突進してきた。
その鎌は、これまでの雑魚とは比較にならないほど巨大で、その先端には禍々しい漆黒の魔力が渦巻いている。
丈一郎は動けない。
指先に感覚がなく、空間の繊維を掴むための「集中力」が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
(……ここまでか。野垂れ死にかよ)
死を覚悟した丈一郎の脳裏に、不意に、現世の環古書店の香りが過った。
「ヌッ(不埒者が! )」
その時、モモが飛び出した。
小さな三毛猫の姿が、逆光の中で陽炎のように一瞬だけ膨れ上がる。
モモの背後に、巨大な、それこそ山脈を飲み込み、天を衝くような獣の神影が、一瞬だけ、本当に瞬きするほどの間だけ、この世界に上書きされた。
「どれ、味見してやろう」
モモが空中で、小さな顎を大きく開ける。
すると、リーダー魔獣の鎌に宿っていた、一撃で城壁をも溶かすはずの魔力が、まるでブラックホールに吸い込まれる塵のように、モモの喉元へと吸い込まれて消失した。
「ギチッ!? ギチィッ!?」
力の源である魔力を喰らわれ、因果を狂わされた魔獣が、完全に硬直する。
モモは優雅に着地すると同時に、人間の言葉で「ケッ」とでも吐き捨てるような、ひどく現金な顔で丈一郎の足元に丸まった。
「フンッ(不味い)」
その一瞬の、土地神による超常的な介入が、丈一郎に最後の「呼吸」を与えた。
魔力を食われた魔獣の周囲。
そこだけが、世界の法則から一時的に切り離され、柔らかい「無防備な空間」を剥き出しにしている。
「……サンキュー、モモ。……借りは、最高級の干し肉で返すぜ……ツケでな」
丈一郎の瞳に、極寒の殺気が戻る。
彼は残った寿命を前借りするように、右手を魔獣の剥き出しになった胸元へと突き出した。
もはや、遠回しな空間操作で遊んでいる余裕など残っていない。
「環家伝来……空間操法」
丈一郎の拳が、魔獣の胸殻に触れた。
その瞬間、対象の「空間」そのものを強引に掴み取る。
ギチギチギチッ、と。
この世の物理法則が悲鳴を上げるような、不快な摩擦音が響いた。
空間は洗練された消失など選ばず、分厚い牛革を力任せに絞り上げるような、凶悪なまでの「歪み」となって魔獣を襲う。
魔獣の巨体が、その一点に吸い込まれるようにして、内側から「ひしゃげて」いく。
空間の継ぎ目がガタガタに狂い、視界が吐き気を催すほどに歪曲した。
音さえもひび割れた空間の裂け目に吸い込まれ、一瞬、世界から色が消える。
次の瞬間、溜まりに溜まった空間の「跳ね返り」が、容赦のない衝撃波となって炸裂した。
「がはっ……!」
丈一郎の体は木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。
背中を乾燥した赤土に叩き付けられ、全身を駆け巡る猛烈な筋肉痛と嘔吐感に、視界がチカチカと白く染まっていく。
「……っ、ぐ……。……請求……倍増……」
意識が急速に遠のく中、丈一郎は自分の右腕が、まるで他人の石像になったかのように冷たく、重くなっているのを感じていた。
無理やり空間をこじ開けた右手の指先からは、感覚が完全に消失している。
酷い空間のズレを残したまま、静寂が、赤土の荒野を支配していた。
先ほどまで大気を震わせていた魔獣の咆哮も、空間が軋む不気味な音も、今はもうない。
ただ、熱を帯びた風が砂を巻き上げ、何事もなかったかのように通り過ぎていくだけだ。
丈一郎は、大の字になって空を仰いでいた。
背中に伝わる地面の熱は、現世の舗装されたアスファルトのそれよりもどこか生々しく、自分が今、本当に「別の世界」に立っているのだという事実を嫌というほど突きつけてくる。
視界の端では、リーダー格だった魔獣が、丈一郎によって一点の染みのような肉塊に成り果てていた。
周囲には、その部下たちの残骸が、まるで不法投棄されたスクラップのように散乱している。
「……生き、てるな。俺も、お前も」
掠れた声で呟くと、胸の上にずしりと重みが加わった。
モモが、何食わぬ顔で丈一郎の腹の上に乗ったのだ。
その三毛の毛並みには汚れ一つなく、ただ「不味いものを食わされた」と言いたげに、不機嫌そうに前足で顔を洗っている。
「ナッ(当然)」
「モモ様は、頼もしいねぇ……」
丈一郎は震える右腕を動かし、懐を弄った。
取り出したのは、シワだらけになった空の煙草の箱だ。
中身はもう一分前に尽きている。
彼はそれを虚しく眺め、ポイと砂の上に投げ捨てようとして、思い直して、再び懐に仕舞い込んだ。
「……ゴミのポイ捨ては、いけませんってね」
そんな丈一郎の元へ、恐る恐る近づいてくる足音があった。
騎士の少年、レオだ。彼は抜いたままの剣を鞘に収めることすら忘れ、驚愕と、言いようのない畏怖の入り混じった表情で丈一郎を見下ろしていた。
彼らからすれば、魔力も詠唱もなしに、ただ「手をかざすだけ」で巨大な魔獣を物理的に折りたたんだ丈一郎の存在は、既存の魔法体系を根底から覆す怪異そのものだろう。
「あ、あの……! 助けていただき、心から感謝します。私は、この先の街『デナリウム』の守備隊に所属する、レオ・アルカードと申します。貴方は……一体、何者なのですか? 聖教会の隠密騎士……あるいは、東の果ての隠者様……?」
丈一郎は、レオの問いにすぐには答えなかった。
彼は痛む腰を叩き、地面を這うようにして、近くに転がっていた「魔獣の鎌」の破片を拾い上げた。
その目は、すでに戦士のそれではなく、冷徹な「古物商」の目に戻っている。
「何者、ねぇ……。見ての通り、ただの、しがない古本屋だよ」
丈一郎は、レオの腰に下げられた革袋を、あからさまに指差した。
「それより、騎士の坊ちゃん。感謝の言葉はいいから。……俺の労働は、この世界のどんな魔法よりも高くつく。あんたの命の値段、まさかその袋の中身より安いなんて言わねえよな?」
「え……? あ、ああ! も、もちろんです! これは、少ないですが謝礼として……! 本来なら詰所に持ち帰って正式な報酬を支払うべきですが、今はこれしか……!」
レオは慌てて革袋を差し出した。
丈一郎はそれをひったくるように受け取ると、袋を軽く振って、中の硬貨が触れ合う音を耳元で聞いた。
ジャラリ。
「……フン、命の値段にしちゃあ、買い叩かれた気分だが……。まあ、妥協してやるよ」
丈一郎はよろよろと立ち上がると、愛車の移動式馬車へと歩き出した。
荷台では、モモが「早くしろ」と急かすように尻尾を振っている。
レオは、去りゆく半纏の背中を、ただ呆然と見送るしかなかった。
常識を、物理を、そして騎士道の美学を、一円単位の計算で塗り替えていったその男の姿は、彼が知るどの英雄譚にも記されていない、ひどく泥臭く、それでいて強烈な異彩を放っていた。
「……ああ、そうだ。坊ちゃん」
丈一郎が、御者台に乗る直前で振り返った。
「この先に『環古書店』を開く予定だ。……もし、あんたの周りに、手放したい『本』がある奴がいたら、教えてやりな」
丈一郎は、今度こそレオに背を向け、馬車を動かした。
馬のいない馬車が、空間を軋ませながら、赤土の荒野をゆっくりと進んでいく。
「モモ。まずはメシだ。それから、寝床だ。今夜くらいは屋根のある場所で、せめてこの世界の安物でもいい、タバコに似た何かを吸えるだろうよ」
「フンッ(飯)」
「分かってるって。……ったく、どこの世界にいても、金に追われる生活は変わらねえなぁ……」
太陽が、西の地平線へと沈んでいく。
異世界の夕闇が、丈一郎のヨレヨレの半纏を、濃い影で塗りつぶしていった。
それは、伝説の勇者の再来などではない。
ただ一人の、ケチで、生き汚く、そして誰よりも現実的な「古本屋」が、この世界の理をゆっくりと、確実に侵食し始めた瞬間だった。
「疲れた……」
丈一郎の愚痴が、風に流されて消えていく。
移動式古書店の車輪が立てる軋み音だけが、夜が迫る荒野に長く、長く響き続けていた。
……はぁ。やっと一息か。
ったく、異世界転移なんて、もっとこう「全自動」でチート能力が発動して、寝てる間に金が貯まるもんじゃねえのかよ。
なんで俺が、わざわざ赤土にまみれて、カマキリの化物相手に「空間の端っこ」を握り締めてなきゃならねえんだ。
あ、……モモ、お前、その顔洗うのやめろ。毛が飛ぶだろ、商品(古本)に。
あー……。
タバコがしてえ。




