第四十三話【異世界主張編】④世知辛い風(前編)
……ったく、どいつもこいつも「異世界」ときたら、やれ伝説の剣だの聖女の祈りだの、耳障りのいいことばっかり並べやがって。
現実はこれだ。
見渡す限りの赤土。
喉を焼く乾いた風。
誰に感謝をすりゃいいんだ。
俺は、シワだらけの煙草に火をつけた。
紫煙が、異世界の異常に高い空へと吸い込まれていく。
太陽が二つあろうが、空が妙に紫がかってなかろうが、結局のところ、人間が生きていくために必要なのは「金」と「食い扶持」だ。
環 丈一郎は、馬車の御者台に腰掛け、深く溜息をついた。
彼が今操っているのは、現地で「廃棄寸前の荷車」を改修した、移動式古書店『環古書店・異世界主張所』である。
馬がゆっくりと、地面そのものを後ろへ押し出すようにして車輪を回していた。
「……っ、おぇ。……クソ、乗り物よいか?」
丈一郎は口の端を歪め、込み上げる吐き気を強引に飲み下した。
右腕に嵌まった「黄金のバングル」は、かつての輝きを失い、今はくすんだ真鍮のような色に成り果てている。
異世界への転移でエネルギーを使い果たしたこのバングルは、今や丈一郎のバイタルを燃料として食い散らかす、呪いの足枷に近い。
空間操法。
それは、この世界の魔法使いが使う「魔力を練って現象を起こす」ものとは根本的に異なる技術だ。
丈一郎の視界には、世界が「精巧なジオラマ」のように映っている。
目の前の荒野も、遠くに見える山々も、彼にとっては分厚い牛革、あるいは使い古されたキャンバスのような「面」でしかない。
その背後にある世界の骨組みに指をかけ、無理やり手繰り寄せる。
その手応えは、ザラりとしていて、重い。
一度空間を動かせば、まるで自分の筋肉が世界の摩擦に削り取られるような激痛が走る。
何より、操法を使うたびに、この世界そのものが「薄っぺらな書き割り」に見えてくる感覚が、丈一郎の精神を削っていた。
「……本気で、帰りてえな。熊本のあの湿った埃の匂いが、今じゃ天国みたいに思えるぜ」
丈一郎は、ヨレヨレになった半纏の袖で額の汗を拭った。
現在の彼の目的は、世界を救うことでも、魔王を倒すことでもない。
とにかく「飯」だ。
そして、いつか現世に帰るための路銀を稼ぐこと。
そのために彼は、この「移動式古書店」という、異世界では正気の沙汰とは思えない商売を始めた。
だが、商品は現地で安く買い叩いた、文字の読めないような連中が捨てた古い紙片や、九重の爺さんの「ツケ」の副産物で得た怪しげな古書ばかり。
今のところ、自分と猫の食費で完全に赤字だ。
「ヌッ(音が聞こえる)」
肩の上のモモが、鋭く耳をそばだてた。
三毛猫の細められた瞳が、地平線の彼方から上がる砂煙を凝視している。
丈一郎は、吐き気を抑えながら御者台の上に立ち上がった。
荒野の先、砂煙を上げてこちらへ死に物狂いで走ってくる集団があった。
装飾だけは立派だが、あちこちが凹み、傷だらけになった鎧を纏った数名の騎士たち。
そして、その背後から彼らを執拗に追い詰めるのは、巨大なカマキリとムカデを悪魔合体させたような、節足動物の魔獣の群れだ。
「助けてくれ! 誰か、誰かいないのか!」
先頭を走る若い騎士が、こちらに向かって必死に腕を振る。
丈一郎は、その騎士の装備を一瞬で査定した。
(……あの胸当て、魔導系のコーティングか。安物だが、質屋に入れれば三日分の食費にはなる。……いや、あのアホみたいにでかい魔獣の殻、薬屋に売ればいい値がつくか。だが、解体は面倒だな……)
丈一郎の瞳から、さっきまでの「しがない店主」の倦怠感が消え、底冷えするような「掃除屋」の冷徹さが宿る。
彼は深く息を吐き、タバコの吸い殻を灰皿に捨てた。
「モモ、仕入れの時間だ。……労働の対価は、きっちり精算させてもらうぞ」
「フンッ(勝手にしろ)」
丈一郎は荷台の隅に転がっていた、売り物にもならない「欠けた陶器の皿」を一枚、右手の指先に引っ掛けた。
空間の繊維を、指先で捉える。
世界が、ミシリと軋んだ。
彼にとって、騎士も魔獣も、この荒野というキャンバスの上に置かれた「記号」に過ぎない。
丈一郎は、魔獣の首筋に意識を集中させ、空間を「掴む」準備を整えた。
「赤字になったら、笑えねえな」
彼は皿を軽く、まるでおもちゃを放り投げるような動作で空中に放った。
だがその皿は、放たれた瞬間に物理的な放物線を無視し、空間の「継ぎ目」を滑るようにして、魔獣の群れへと吸い込まれていった。
放たれた欠けた皿は、空中で一瞬だけ「ブレる」ような不自然な残像を残した。
次の瞬間、その皿は物理的な放物線を完全に無視し、魔獣「スクラップ・シザース」の先頭集団の鼻先に、音もなく出現していた。
回転すらしていない。
ただ、空間そのものが「皿という物体を内包したまま」移動するという、この世界の魔法体系では説明のつかない異質な挙動だった。
「ギチィィッ!?」
魔獣が困惑の声を上げる間もなかった。
皿は魔獣の堅牢な外殻を力任せに粉砕するのではない。
丈一郎が空間の「繊維」を強引に引き寄せたことで、皿が魔獣の喉元へと食い込んだのだ。
例えるなら、分厚いキャンバスに無理やり別の絵を上書きするような、世界そのものへの強姦に近い手触り。
「……っ、ぐ。やっぱり、重てえな……ここの空気はよ……!」
丈一郎の右腕、真鍮色に沈んだバングルから、肌を焼くような熱気が噴き出した。
かつての彼なら、数千のリングで空を埋め尽くし、一瞬ですべてを塵に帰していただろう。
だが今の彼にあるのは、枯れかけたバングルの魔力と、自分の内臓を燃料にして無理やり座標を書き換える「腕力」に近い操法のみだ。
一回の「掴み」ごとに、脳漿を直接かき混ぜられるような吐き気が襲う。
視界の端で、世界の背景がペラリと剥がれそうな違和感に、丈一郎は奥歯を噛み締めて耐えた。
「おい、あんた! 何をしている、危ない! 下がっていろ!」
逃げてきた若い騎士レオと名乗る少年が、丈一郎のヨレヨレの半纏姿を見て、絶望に顔を歪めながら叫んだ。
レオの目には、丈一郎がただ「運良く適当に投げた皿が、魔獣の動きを止めた変な浮浪者」にしか見えていない。
この世界における戦闘の常識……すなわち魔力を練り、魔法を放つというプロセスが一切見えない丈一郎の動きは、あまりに不気味で、同時に弱々しく映っていた。
「下がってろ? 冗談じゃねえ。……この労働、タダで済ませる気はねえんだよ。お前らが持ってるそのピカピカの鎧、質に入れたら幾らになるか……その査定で頭がいっぱいなんだ」
丈一郎は御者台から泥臭く飛び降りた。
着地と同時に、彼の身体が異様な加速を見せる。
空間操法による「引き寄せ」だ。
一歩踏み出すたびに、足元の地面という「皮」を数センチずつ自分の側へと手繰り寄せ、歩幅という概念を物理的に無視して距離を詰める。
それは洗練された歩法というよりは、世界を無理やり自分に合わせさせるような、傲慢で暴力的な移動だった。
魔獣が巨大な鎌を振り下ろす。岩をも断つ、鋭利な一撃。
だが、丈一郎はそれを避けない。
「ヌッ(左だ!)」
肩の上のモモの警告。
同時にモモは肩から後方へ飛んだ。
丈一郎は左手を、鎌が通過するはずの「通り道」へと添えた。
触れてはいない。
ただ、鎌が通過するはずの空間を、指先で「スルリ」と流すイメージを持った。
キン! ヒュッ!
まるで見えない鋼鉄の壁に激突したかのように、巨大な鎌の軌道がそれた。
一瞬の空間固定による、受け流し。
本来なら巨大な城門すら固定できるはずの力だが、今の燃費最悪な丈一郎では、魔獣の攻撃を受け流すだけで精一杯だ。
左腕の筋肉が悲鳴を上げ、毛細血管がプツプツと切れる感触が伝わる。
「……ああ、腰に来るわ……! この重圧……熊本の雨の日より酷え……!」
丈一郎の額に青筋が浮かぶ。
彼はそのまま、コンパスのように体を翻した。
重心移動と遠心力を利用した、柔の理に基づく古武術の体捌き。
がら空きになった魔獣の腹部に向けて、丈一郎は掌を突き出した。
「うぉらぁぁぁ!!」
ドシュッ
という空気の抜けるような音。
魔獣の腹部が、目に見えない巨大なプレス機にかけられたように、中心に向かって数センチだけ「凹んだ」。
生物そのものを直接掴むことは、今の未熟な彼にはできない。
「ギィ、ギィ、ギェェェッ!?」
たまらず悶絶する魔獣。
その断末魔にすら、丈一郎は同情の欠片も見せない。
「モモ!『矢』を寄越せ!」
「ナッ!」
荷台から、一本の粗末な、鏃さえ欠けかかった矢が飛び出した。
モモが尻尾で弾き飛ばしたその矢を、丈一郎は目視せずとも「空間の手応え」で把握している。
彼はその矢を空間の中に流れる「川」に乗せた。
シュンッ、という乾いた音と共に、矢が視界から消えた。
直後、魔獣の複眼のど真ん中に、深々とその矢が突き刺さる。
「……ふぅ。……おい、騎士の坊ちゃん。見てる暇があったら、残りの雑魚を片付けな。俺は、一分経つごとに『特別料金』が加算される仕組みになってるんだぜ」
丈一郎は肩で激しく息をしながら、冷徹な瞳で残りの群れを睨みつけた。
視界がチカチカと点滅する。
世界が、薄汚い書き割りのセットにしか見えない。
そんな嫌な視界を、首を振って振り払う。
魔獣の群れは、仲間の無惨な姿に怯むどころか、その青白い体液の匂いに刺激され、さらに凶暴性を増していく。
十数匹のスクラップ・シザースが、一斉に丈一郎を取り囲むようにして、砂塵を上げて一斉突進を開始した。
「……ったく。……これじゃ『地獄への招待状』じゃねえか。……あーあ、タバコ、もう一本吸っておけばよかったぜ」
丈一郎は、ヨレヨレの半纏の袖を乱暴に捲り上げた。
そこには、かつて数えきれないほどの修羅場を渡り歩き、一円一銭を奪い合ってきた男の、生き汚くも鋭い拳が握られていた。
異世界出張。
その対価は、この荒野に飛び散る魔獣の殻と、騎士が腰に下げた財布の重み、そして何より「明日を生き延びるための飯」にかかっていた。
丈一郎は腰を落とし、世界の「革」を両手で握り締めた。




