第四十一話【現世編】 ①黄金の身代わり(前編)
……ったく、主人が出張中だってのに、この店ときたら湿気と埃だけは一人前に溜まりやがる。
あかりの奴、やり方が極端なんだよ。
あいつが「浄化」って叫ぶたびに、俺の耳の毛が逆立つんだ。
え? 俺? 俺なら今頃、異世界の泥水でも啜って、一円玉のありがたみを噛み締めてるだろ。
虹色の光に包まれて店主が消失したあの日から、環古書店の時間は、奇妙な形で静止し、そして腐敗し始めていた。
シャッターは固く閉ざされ、表向きには「店主急病のため、当面の間休業いたします」という貼り紙が出されている。
だが、その文字はあかりの達筆すぎる筆致で書かれており、どこか香典の表書きのような不吉なオーラを放っていた。
近隣の住人たちは、店の前を通るたびに、シャッターの隙間から漏れ出してくる強烈な白檀の香りと、サーバーが唸るような低い駆動音に首を傾げ、足早に去っていく。
今の環古書店は、もはや「本を売る場所」ではない。
そこは、四方あかりという一人の「狂信者」によって支配された、現世の物理法則が通じない「聖域」……あるいは、度を越した執着が作り出した「黄金の檻」だった。
「……違います。ここ、ここの角度です。環さんの右肩の落とし方は、もっとこう、将来への不安と、昨夜の晩酌の安酒が絶妙に混ざり合った、世知辛い傾斜を伴っているはずなのです」
店内のレジカウンター。
かつて丈一郎が、客の持ち込む古本の査定に目を光らせていたその場所に、あかりは鎮座していた。
彼女の目の前には、場違いな輝きを放つ「金の延べ棒」が五本、几帳面に並べられている。
一本につき十キロ、五本合わせれば時価にして七億円に迫るその黄金の塊を、あかりはまるで「工作用の粘土」か何かのように扱っていた。
彼女の手には、ホームセンターで買ってきたばかりの彫刻刀が握られている。
本来、純金の延べ棒を彫刻刀で削るなど不可能に近い。
だが、あかりの指先から溢れ出す白銀の法力は、その金属の分子構造を「彼女の意志」に従って無理やり組み替えていた。
彼女が刃を滑らせるたびに、黄金の破片がキラキラと、まるで呪われた雪のようにカウンターへ降り積もる。
「……四方よ、正気か? 科学的、あるいは魔術的観点から言わせてもらえば、その金一本で、私がどれだけ高性能な演算チップと予備の言霊サーバーを買い揃えられると思っているんだ。それを、そんな……像を作るためだけに消費するなど、データの無駄遣いにも程がある!」
カウンターの足元。
ゴミ箱の横に転がされた「上半身だけの男」……数門の教祖が、タブレットを血眼で叩きながら叫んだ。
あの日、丈一郎に敗北し、足を失った彼は、あかりによって「店の管理システムの一部」として捕獲されていた。
あかりが店全体に張り巡らせた結界により、彼は店から一歩も出ることができず、毎日、あかりが「不浄排除」の名の下に作る味のない精進料理を無理やり食べさせられるという、地獄のような日々を送っている。
「黙りなさい、数門の粗大ゴミ。貴方に環さんの美学が分かってたまるものですか」
あかりは彫刻刀を動かす手を止めず、冷徹な視線を教祖に向けた。
「この金塊の一本は、環さんがその手で触れ、そして『こんなものは不浄だ』と明確に拒絶された聖遺物です。彼が拒絶したという事実は、そこに彼の強い思念が残留しているという証明。これを触媒にして彼を模り、この世界に固定する……。これこそが、次元の彼方に消えた彼を呼び戻すための、最も清浄で確実な『錨』となるのです」
「錨だと!? 支離滅裂だ! 物理的な像を作ったところで、次元の壁を越えるエネルギーにはなり得ん! 必要なのは、向こう側の世界に干渉するための……」
「五月蠅い」
あかりが笑顔で、法力によって白熱した彫刻刀を教祖の鼻先に突きつける。
「ひっ……!」
「作業に戻りなさい。貴方の役割は、私の作る『黄金の環像』に、貴方の得意な言霊術から抽出した彼を流し込むための回路を設計することです。いいですね?」
あかりは再び、金の延べ棒に向き直った。
彼女は、削り出した金のカケラを一切無駄にはしない。
削りカスを丁寧に集め、天井から吊り下げられた「雨漏り受けのバケツ」の中に溜めていく。
「丈一郎さんが帰ってきた時、屋根が直っていないのは不浄です。この金の屑を溶かして、瓦をすべて金箔で埋めておきます」
「……悪趣味な成金の寺院か、ここは」
「愛と言いなさい。これは、救済のための設備投資です」
あかりはそう言うと、レジカウンターに置かれた「丈一郎の予備の半纏」に、優しく、しかし執拗な手つきで触れた。
その半纏の中には、すでに延べ棒一本分を費やして削り上げた「黄金の骨組み」が無理やり差し込まれている。
半纏は、金の重みで不自然に右側へ傾き、今にもレジから転げ落ちそうだったが、あかりの目には、そこに丈一郎が座っている幻影が見えているようだった。
「丈一郎さん。今日は、この粗大ゴミが隠し持っていた言霊を法力で煮出した、徳の高いお粥ですよ。……さあ、あーんしてください」
あかりが空に向かってレンゲを差し出す。
その横で、金の延べ棒を「文鎮」代わりに置いて固定された、丈一郎の愛読書『劇画・男の土下座』が、異様な重圧でミシリと鳴った。
環古書店の夜は、異世界の荒野よりもはるかに狂気に満ちていた。
金塊が、あかりというフィルターを通ることで、一円の価値もない「愛の部品」へと、着実にかつ再起不能なまでに解体されていく。
あかりは、次の一本に手を伸ばした。
「次は……丈一郎さんの、あの独特な『加齢臭』の再現ですね。粗大ゴミ、香気成分の分子構造の解析を急ぎなさい」
「……私は数門教祖だぞ! なぜおじさんの匂いを合成させられなきゃならんのだ!」
不気味な震動が、閉ざされたシャッターをガタガタと震わせる。
次元を越えようとする狂信者の執念が、今、現世の理を静かに、しかし確実に壊し始めていた。
数時間後
あかりは恍惚とした表情で、自ら調合した液体を霧吹きに入れ、黄金の骨組みを仕込んだ「環さんの半纏」へと丁寧に噴霧した。
店内に、なんとも言えない「疲れた四十代男性の生活臭」が充満する。
それは一般的には異臭と呼ばれる類のものだったが、あかりにとっては、天界に咲く蓮華の香りよりも尊いものだった。
「素晴らしいわ……。まるでそこに、お風呂上がりの環さんが座っているかのようです。少しだけ加齢臭が足りない気がしますが、そこは私の愛で補いましょう」
「私もよく言われたが……気が狂っている。いや、もともと狂っていたが、もはや取り返しがつかんレベルだ」
カウンターの下で、教祖が顔を引きつらせながら毒づいた。
彼はあかりに命じられ、環さんの過去の言動、表情、さらには筋肉の弛緩率に至るまでを、店の言霊ログから抽出させられていた。
数門教祖として世界を電脳の楽園に変えようとした彼が、今や「おじさんの完全再現」という、あまりにスケールの小さい、しかし密度だけは異常に高い作業に従事させられている。
「黙りなさい、粗大ゴミ。これは環さんを現世に繋ぎ止めるための『儀式』です。……さあ、次の工程へ移ります。環さんの『愚痴』の音声データをこの黄金の骨組みにインストールしなさい」
「何を言っている!? 私は音響エンジニアではない!」
「浄化しますよ?」
「……分かった。第142番ログ、『腰が痛い、明日が来なけりゃいいのに』をループ再生させればいいんだな?」
あかりが法力で黄金の骨組みを調整すると、半纏の胸のあたりから、低く、重たく、この世の終わりを呪うような環さんの声が漏れ出した。
『……あー、痛て。腰にくるわ、この雨……。こんな日当で何が食えるっつーんだよ……』
「ああ……っ! なんて神々しいお言葉……!」
あかりが両手を組み、半纏を拝む。
その姿は、もはや聖職者のそれではなく、新興宗教の教祖(本物の教祖は床に転がっているが)のようだった。
だが、その執着が、密閉された環古書店の「場」の力を歪め始める。
あかりの過剰な法力と、教祖の無駄に精密な言霊データ、そして「金の延べ棒」という物質的な重みが混ざり合い、物理法則が悲鳴を上げ出したのだ。
ガタガタ、と店の奥の「エロ本の山」が崩れる。
あかりが「環さんの煩悩の集積地」として隔離していたその一角から、妙な磁場が発生し、店内の空気が渦を巻き始めた。
「……っ!? 何ですか、まだ浄化が足りないのですか? 環さんの煩悩が、私の愛に反抗していると?」
あかりが彫刻刀(金の破片が付着して、もはや聖なるノミのようになっている)を構える。
すると、黄金の骨組みを仕込まれた半纏が、ミシリ、と重厚な音を立てて椅子から立ち上がった。
その動きは、あかりが教祖にプログラムさせた精密なものではない。
もっと泥臭く、もっと重力に逆らうような、生々しい「環 丈一郎」そのものの、力の抜けた足取りだった。
「ハハハ……! 見ろ! 私のデータが、次元の歪みに反応して、彼の『概念』をこちら側に引き寄せたのだ!」
教祖が歓喜の声を上げるが、あかりの表情は険しい。
立ち上がった『黄金の環さん(半纏)』は、ふらふらとカウンターを回ると、足元に置いてあった残りの「金の延べ棒」を一本、ひょいと持ち上げた。
そして、あかりが止める間もなく、その延べ棒を全力で店の奥の「雨漏り受けのバケツ」へと叩き込んだのだ。
ガッシャーン!!
という、凄まじい金属音が響く。
「あ……環さん? 何を……」
あかりが困惑する中、半纏姿の像は、今度は教祖の頭をスリッパ(店に落ちていた、踵がすり減ったやつ)でパコォォォン! と叩き伏せた。
「痛い! なぜ私だ! 私は貴様を再現した協力者だぞ!」
『黄金の環さん』は、返事をする代わりに、虚空に向かって何かを「掴む」動作をした。
まるで「ガムテープ」でも扱うような手つきで引きちぎり、店の壁のひび割れた箇所にベタベタと貼り付け始めた。
「不浄……いえ、これは『世知辛い補修』? まさか、環さんの意識の一部が、宿ったのですか?」
あかりの目が輝く。
「ああ、やはり金は不浄でした! 環さんは向こう側でも、お金の心配をして、店の壁を直そうとしている……! なんて健気で、なんて世知辛いお方……!」
あかりは、半纏に歩み寄り、背後からそっと抱きしめた。
「安心してください、環さん。この店の補修は、私が、金の延べ棒すべてを使って完遂させます。瓦の一枚一枚まで純金で埋め尽くし、世界で一番『維持費のかからない聖域』にしてみせますから!」
「建物が金の重みで潰れるぞ!」
教祖の叫びが響くが、あかりには聞こえていない。
彼女は、半纏から漏れ出す「腰が痛い……」という音声ループを聞きながら、残りの延べ棒を熱い法力でドロドロに溶かし始めた。
「……粗大ゴミ。システムの仕様変更です。次は、この店全体を黄金でコーティングし、次元の振動に耐えうる『弾丸』に作り変えます。環さんが帰る場所は、私が物理的に異世界へ届けます」
あかりの瞳が、黄金の反射を受けて魔的な輝きを放つ。
「おーい、誰かいるのか?」
シャッターの外で、男の声がしたような気がした。
【作者より】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
丈一郎とモモの旅もここまで積み重なり、物語の輪郭がより色濃く、深く動き始めています。
僕自身も、二人の行く先をガシガシと追いかけるように、熱を込めて執筆しています。
皆様から届く評価やブックマークは、二人が異世界の暗闇を突き進むための眩しい「ガソリン」そのものです。
「次の更新が楽しみで仕方ない!」と感じていただけるよう、常に全開の熱量で書き進めていきます。
ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として、熱い応援をよろしくお願いいたします!




