第四十話【異世界出張編】 ③招かれざる「品」(後編)
【作者より】
いつも本作をお読みいただき、本当にありがとうございます。
丈一郎の腰の痛みと、モモの食欲、そして増え続ける「負債」と共に、ここまで歩んでくることができました。
皆様のブックマークや評価は、彼らにとって何よりの「報酬」であり、作者にとっては最高級の「ガソリン」です。
世知辛い異世界の空の下、二人が何を掴み取るのか。これからも熱量を絶やさずお届けしますので、引き続き応援のほど、よろしくお願いいたします!
静まり返った広場に、丈一郎の荒い呼吸だけが重く響く。
男たちが泥のように転がる地面を冷ややかに見下ろしながら、丈一郎は右腕をさすった。
空間の「繊維」を無理やり手繰り寄せ、力任せに引き寄せた代償は、全身を駆け巡る鋭い筋肉痛と、内臓を素手でじかに掴み回されているような、凄まじい吐き気となって彼を襲っていた。
「……あー、クソ。たった三人相手にこれかよ。煙草吸ってる方が、よっぽど身体に優しいぜ」
丈一郎が毒づき、肩に乗ったモモの重みに耐えていた、その時だった。
広場の隅で伏し拝んでいた長老が、何かに取り憑かれたように顔を上げた。
その目はもはや、目の前のヨレヨレの半纏を着た男を見ていない。
数十年前にその目に焼き付けた、あの「無敵の背中」の残像……勇者ココの神話的な幻影を追っているようだった。
「……おお、思い出したぞ! あの構え、あの不遜な物言い! 間違いない、ココ様がこの村を去る間際、あのお方は不敵に笑ってこう仰ったのじゃ! 『いずれわしの孫か、あるいは一番出来の悪い弟子が来る。そいつに遺産を全部渡せ』となぁ!」
丈一郎の動きが、凍りついた。
背筋を嫌な汗が伝う。
そのセリフには、あまりにも聞き覚えがあった。
阿蘇の山奥でクソ爺が、使い古したハンマーを叩きつけながら「お前に全部譲ってやるよ」と笑った時の、あの邪悪な表情が脳裏にフラッシュバックする。
「おい、爺さん。今、なんて言った?」
「そうじゃ! ココ様はさらに仰った! 『この地には、偉大なる【品】を置いていく。それを受け取る者が現れた時、この村は真の清算を迎えるであろう』と! まさか、あんた様がその……!」
長老が叫ぶと同時に、丈一郎の背後に停まっていた馬車が、ガタリと地響きを立てて揺れた。
荷台の奥、ボロ布を幾重にも被せて隠していたはずの、あの不気味な一冊『重要禁書・不良在庫管理帳(黒本)』が、周囲の光をブラックホールのように吸い込みながら、狂ったように震え始めたのだ。
「丈一郎、不味いぞ! あの老いぼれの言葉が『鍵』になりおった。本が、封印の隙間から溢れ出しておる!」
モモが毛を逆立て、牙を剥いて馬車の荷台を威嚇する。
黒本の隙間から、泥のような黒い霧が溢れ出し、夕暮れの広場を侵食し始めた。
それは物理的な「影」ではない。
世界に存在してはならない「無」の質量が実体化したものだ。
霧が触れた地面は音もなく削り取られ、空間そのものが腐食していく。
「……冗談じゃねえぞ。返品だ! 返品させろ!」
黒い霧は、先ほど丈一郎が叩き伏せた男たちが撒き散らした「恐怖」や「敗北感」を栄養にするように膨れ上がり、不定形の巨大な魔物の形を成していく。
多分、九重の爺さんが昔、無理やりここの空間をいじった結果、この場所の「世界の強度」が低下したままなのだろう。
そこを、爺さんの残した負債、世界の終末の断片が突いたのだ。
「ココ様の再来よ! どうか、あの災厄を再び封じてくだされ!」
「うるせぇ!」
丈一郎は激しい眩暈を押し殺し、指の関節を鳴らした。
今度は「本」を飛ばすような、お遊びの空間操法ではない。
目の前の黒い霧は、この世界の「理」そのものを食い破ろうとしている。
「空間の繊維……今度は厚手の牛革どころじゃねえな。分厚い錆びた鉄板を、素手で強引に引きちぎるような手応えだ……!」
丈一郎は右足で地面を強く踏みしめた。
古武術の歩法。大地の反発を脊髄を通し、指先にまで伝え、世界の「骨組み」を鷲掴みにする。
掌を、迫りくる黒い霧に向けて突き出す。
「ヌォォラァッ!!」
バキバキと、目に見えない鏡が粉々に砕け散るような異音が、広場全体に轟いた。
丈一郎の視覚には、もはや平和な村の風景は映っていない。世界が精巧なジオラマどころか、今にも崩落しそうな、ハリボテの廃墟模型に見えていた。
日常という皮が剥がれ、世界の裏側の不気味な回路が露呈する。
強烈な吐き気が彼を襲い、意識を暗闇へと引きずり込もうとする。
(長老の熱狂的な独白)
「これじゃ! これぞ、かつてココ様が振るった神の鉄槌! 空間を握りつぶし、無を無へと還す絶対の権能! あのお方は、空を覆う暗雲すらもこうして一掴みで消し去り、星々の配置を書き換えたのじゃ……!」
現実は、丈一郎の爪の間から鮮血が噴き出していた。
空間操作の反動が、肉体の許容量を超えている。
未熟な丈一郎が、本来扱いきれないはずの「世界の終末」という巨大な質量に干渉した報いだ。
血管が浮き上がり、半纏の袖が激しい圧力で震える。
「がっ……、は……っ! クソ、重てえ……っ!」
膝をつきそうになる丈一郎。
その時、肩に乗ったモモが、これまでにない凛とした、かつて「土地神」であった頃の威厳に満ちた声で咆哮した。
『ミャアァァァーーン!!』
モモの背後に、夕闇を圧するように巨大な猫の「神体」が揺らめいた。
神威。
モモが大きく口を開くと、侵食する黒い霧の一部を物理的に「食べて」無力化していく。
だが、その代償は激しく、モモの身体もまた、エネルギー不足で透けるように淡くなり始めていた。
「モモ……! 燃費が悪いのはお互い様かよ!」
丈一郎は、口の中に溜まった血の混じった唾を地面に吐き捨てると、最後の、そして最深の集中力を振り絞った。
爺さんが残した最強にして最悪の伝説、そしてその巨大な負債。
それを「勇者」として継承するつもりなど毛頭ない。
だが、自分の商売道具であるこの馬車を、この世知辛い生活を、爺さんの気まぐれで潰されてたまるかという、ドブネズミのような執念が彼を突き動かす。
「俺のやり方で、きっちり片付けさせてもらうぜ……!」
丈一郎は再び、震える右手を黒い霧の中心へと伸ばした。
それは勇者の聖剣などではなく、ただの「掃除屋」が、目の前の邪魔なゴミを片付けるための、泥臭くも切実な空間の「処理」だった。
広場を包む死の霧と、長老の狂信的な祈り。
そして、丈一郎の世知辛い執念が、夕闇の中で激しく火花を散らそうとしていた。
「せいやぁぁぁッ!!」
丈一郎の、およそ勇者とは程遠い、火事場の馬鹿力じみた叫びが広場に響き渡った。
空間を「クシャクシャに丸める」手応えは、もはや鉄板どころではない。
錆びついたマンホールの蓋を素手で握りつぶし、その密度を極小の一点にまで押し込めるような、脳が痺れるほどの負荷が丈一郎の右腕を襲う。
バチンッ! と、世界のどこかで特大の輪ゴムが弾けたような、間の抜けた音がした。
次の瞬間、広場を飲み込もうとしていたどす黒い霧は、丈一郎の掌に吸い込まれるようにして、一冊の古びた帳面『不良在庫管理帳(黒本)』の中へと強引に押し込めた。
あまりの勢いに、バタンッ! と音を立てて表紙が閉じ、丈一郎はそのまま勢い余って尻餅をついた。
「……はぁ、はぁ……っ。死ぬ、マジで死ぬわこれ。誰だ、異世界に行ったら無双できるなんて言った奴は」
丈一郎が地面にひっくり返り、ぐるぐる回る空を仰いで喘いでいると、肩から転げ落ちたモモが「プィッ」とそっぽを向いた。
その姿は、先ほどの神々しい巨獣の面影など微塵もない、ただの腹を空かせた、現金な三毛猫に戻っている。
「ナッ(不甲斐ない)」
「……自分だって透けて消えかかってたじゃねえか。ったく、神様なら霞でも食って路銀を浮かせてくれよ」
丈一郎がモモと不毛な言い争いをしていると、不意に、周囲から地響きのような歓声が上がった。
見れば、村の長老を筆頭に、震えていた村人たちが涙を流し、何やら陶酔しきった表情で丈一郎を取り囲んでいるではないか。
「おおお! 見たか! 災厄を一瞬で、しかも掌の中の小さな本へと封じ込められたぞ!」
「これぞ勇者の御業! ココ様が仰った通り、一番出来の悪い……いや、最も謙虚なお弟子様が、我らの救世主として現れてくださったんじゃ!」
長老が丈一郎の足にしがみつき、鼻水を垂らしながら地面に額を擦り付ける。
「勇者様! ぜひ、我が村の守護聖人として、いや、いっそこのまま村長としてお留まりください! 毎日、最高級の干し草の寝床と、山盛りの木の実、そして精一杯の濁り酒を献上いたしますぞ!」
丈一郎の目が、一瞬だけ「最高級」という言葉に反応して輝いた。だが、すぐに彼は周囲を見渡した。
乱闘でひっくり返った馬車の看板。
角が潰れ、泥がついた自分の商品たち。
そして、足元で「ヌッ(まだか、肉だ)」と執拗に脛を噛んでくるモモ。
「……いや、いい。丁重にお断りするわ。俺はただの移動古本屋だ。爺さんの伝説なんて、これ以上関わりたくねえ」
丈一郎はよろよろと立ち上がると、泥のついた半纏を叩き、地面に落ちた『税制概論』を拾い上げた。
「それより長老さんよ。さっきの話、本当なんだろうな? その、『遺産』とかいう話」
「は、はい! ココ様は確かにそう仰いました! 災厄を片付けた御仁には、村の地下に眠る『勇者の最大遺産』を授けるようにとも!」
遺産。
その響きに、丈一郎の耳がピクリと動いた。
遺産といえば、金だ。
あるいは、元の世界(熊本)へ帰るための、超常的なポータルを開く秘宝かもしれない。
期待に胸を膨らませ、丈一郎は長老に案内されるまま、村の中央にある古い祠の地下へと降りていった。
重厚な石の扉が、ギギギ……と数十年ぶりに開かれる。
暗い地下室の中央、祭壇の上に、一点の曇りもない白銀の箱が置かれていた。
「これこそが、勇者ココ様がこの村から去る際、唯一残された究極の遺産にございます……!」
丈一郎は息を呑み、震える手でその箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、一通の手紙と、分厚い「紙の束」だった。
『よぉ、誰だか知らねえが。ここまで来たってことは、お前もよっぽど暇か、あるいは食い詰めて他の世界から逃げ出したんだな。この世界での生活はどうだ? 異世界の女は気が強えだろ、腰は痛めてねえか。さて、勇者の遺産だが……残念ながら、金はねえ。ここに置いてあるのは、わしがこの世界で豪遊したり、つまみ食いしたり、宿に泊まったりした時の【未払いの領収書】だ。勇者がタダで世界を救うなんて、そんな虫のいい話があるか。あ、ちなみに知り合いの魔法使いに頼んで、呪いをかけてあるから、捨てると死ぬぞ。誰だか知らんが全部お前が肩代わりして、この世界の経済を回してやれ。じゃあな、サンキュー。九重より』
静寂。
地下室に、丈一郎の引きつった笑い声が虚しく響き、そして木霊した。
「……サンキュー……って、お前……あのクソ爺……っ!」
ポケットの中にある、たった三十九円の硬貨がジャラリと虚しい音を立てる。
遺産どころか、数十年分の利子が上乗せされた莫大な「負債」を、彼は異世界にまで来て背負わされたのだ。
「ヌッ?(おい、何をしている)」
空気を読まないモモが、手紙をバリバリと噛み砕こうとして丈一郎に跳ね飛ばされる。
「……う、うわぁぁぁぁぁぁッ!! クソ爺ぃぃぃ!! 熊本に帰ったら、重機で地面に埋めてやるからなぁぁぁ!!」
丈一郎の絶叫は、長老によって「魔物を封じた勇者の咆哮」として新たな一頁に刻まれた。
夕暮れの荒野を、領収書の山という名の新たな重荷を載せて、馬車を改造した古書店が今日も世知辛く進んでいく。
勇者のツケを払うための旅は、まだ始まったばかりだった。
……聞いたか? 勇者の遺産が『領収書の束』だぜ? 笑えねえよ。
おかげで村人たちからは『借金王の二代目』みたいな尊敬の目で見られるし、長老は『さすがココ様のお弟子、背負う負債の桁が違う!とか言って拝んでくるし……。
あー、もう。神様、日本に帰してくれ。
せめて、領収書じゃなくて割引クーポンか、せめてポイントカードにしてくれよ……




