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第三十九話【異世界出張編】        ③招かれざる「品」(前編)

 ……熊本の空は遠い。阿蘇の赤牛が恋しいね。こっちの魔獣の肉ときたら、ゴム草履を噛んでるみたいで顎が外れそうだ。


 おまけに手元にある三十九円。


 異世界のデナリに両替しようとしたら『こんな子供の遊び道具、価値はねえ』と門前払いだ。


 ……ったく、世知辛い。


 「……だから、そのシミはカビだ。カビが生えた植物図鑑なんて、誰が買うんだよ。俺なら三デナリでも遠慮するね」


 異世界のひび割れた荒野にポツンと佇む小さな村の広場に、場違いな馬車が停まっていた。

 馬車を改造した移動式店舗 『環古書店・異世界出張所』。


 その軒先で、丈一郎はヨレヨレの半纏の襟を正しながら、目の前の村の少年に冷酷な査定を突きつけていた。

 四十を過ぎた男の顔には、長年の仕事で刻まれた「現実」という名の皺が深く刻まれている。


 「でも、これ……おじいちゃんが大事にしてたやつで……すごく珍しい草花が載ってるって……」


 少年は縋るような目で丈一郎を見上げる。

 だが、丈一郎は鼻先で笑った。


 「思い出を売りたいなら、教会の神父様にでも説法しに行きな。……わかったよ、ほら、八デナリ。嫌なら持って帰りな」


 八枚の、煤けた銅貨をカウンターに並べる。丈一郎の指先は、丁寧に古書を扱う時と同じ正確さで、本の内容をパラパラと捲っていく。

 その紙質、インクの掠れ、綴じ目の具合で「価値」は肌で分かった。


 なにより、カウンターの横で丸くなっている三毛猫のモモが、チラリと片目を開けて「フンッ(中身は本物だ)」と短く鼻を鳴らしたのを、丈一郎は見逃さなかった。


 「……ナッ(飯だ)」


 「うるせえな、この大食い猫様。お前のせいで、仕入れ資金がどんどん食費に消えていくんだよ。現世じゃ鰹節で済んでたのに、魔獣の干し肉だのなんだの、お前は熊本の猫のプライドってもんがないのか?」


 丈一郎がモモの頭を軽く小突いていると、広場の奥から、安酒の臭いを含んだ濁った笑い声が風に乗って流れてきた。

 村人たちが蜘蛛の子を散らすように道を空ける。


 その先にいたのは、上半身をはだけさせ、首筋に醜いタトゥーを入れた三人の男たちだった。

 

 中心にいる一際大きな男が、一人の若い女性の腕を乱暴に掴んでいる。


 「おいおい、そんなに震えるなよ。その古びたネックレスをよこせって言ってんだ。借金のカタにしちゃあ安すぎるが、ま、今夜の酒代くらいにはなるだろ?」


 「やめてください……これは亡くなった母の……っ!」


 「死んだ奴の遺品を持ってても幸せにはなれねえぞ? 俺たちが有効活用してやるってんだ!」


 男が女性を突き飛ばす。


 乾いた地面に叩きつけられた彼女の頬に、男の太い腕が振り上げられた。

 周囲の村人たちは、まるで石像のように固まって目を逸らしている。


 この閉塞した異世界では、力こそが正義であり、理不尽は日常の風景に過ぎない。

 丈一郎は、深く、深く溜息をついた。


 腰をさすりながら、手近な木の枝で耳を掻く。


 「……あーあ。商売の邪魔だっての。せっかくいい本を安く買い叩けそうだったのに、これじゃ雰囲気が台無しだ。なあ、モモ。こっちの世界の連中は、どいつもこいつもマナーって言葉を知らねえのかね」


 丈一郎は店から出ようともしない。


 ただ、カウンターの隅に置いてあった、一冊の分厚い『異世界の税制概論』に視線を向けた。


 彼は右手をゆっくりと持ち上げる。


 かつて熊本で、数千の黄金のリングを操り、空間そのものを切り刻んだ「環の掃除屋」の面影はそこにはない。

 右腕のバングルは、真鍮のように鈍く曇ったままだ。


 だが、彼が指先を僅かに動かした瞬間、周囲の空気が「ピシリ」と凍りついた。

 丈一郎の意識が、世界の表皮をなぞる。


  目に見える空気の層。その背後にある、目に見えない「繊維」を捉える。

 それは羊皮紙のような、あるいは分厚い牛革のような、重厚な手応えを伴って彼の神経に直結した。


 「……よっと」


 丈一郎が指を弾く。


 その瞬間、離れた場所に置かれていた『税制概論』が、まるで不可視の巨大なバネで弾き飛ばされたかのように加速した。


 ドゴォッ!!


 鈍い、肉を打つ音が響く。


 振り上げられた大男の拳が女性に届く直前、その鼻面に分厚い本が「垂直」に叩き込まれたのだ。

 男の巨体が、糸の切れた人形のように真後ろへと吹っ飛ぶ。


 数回転して地面を転がり、鼻から鮮血を吹き出して絶句した。


 「……え?」


 殴られそうになっていた女性も、残った男たちも、何が起きたのか理解できずに固まった。

 男の足元には、角が少し潰れた『税制概論』が、何食わぬ顔で落ちている。


 「おい、てめえ……今、魔法を使いやがったか?」


 仲間の一人が、震える手でナイフを抜きながら丈一郎を睨む。

 丈一郎はゆっくりと馬車のステップを降り、地面の砂を半纏で払いながら、ひょこひょこと男たちの方へ歩み寄った。


 「魔法? 冗談じゃねえ、そんな高尚なもん使えるかよ。……ただ、うちの『在庫』が、お前らの態度があまりに不愉快なもんで、つい自ら返品されにいったらしい。見ろよ、表紙に傷がついちまった。……なあ、お前ら。これ、いくらで買い取るつもりだ?」


 丈一郎の瞳から、昼行燈のような緩さが消え失せた。


 底冷えするような、絶対的な「個」の殺気。

 男たちは知る由もなかった。


 目の前に立つヨレヨレの半纏の男が、数多の戦闘を積み重ねてきた「掃除屋」であることを。


 「金がねえなら、身体で払ってもらうしかないね。……ちょうど、腰の調子が悪いんだ。いい揉み療治の相手になってもらおうか」


 丈一郎が低く構える。


 その背後で、馬車の窓から顔を出したモモが「ナッ(やれやれ)」と退屈そうに鳴いた。


 「……あ? 買い取るだと?」


 鼻をへし折られたリーダー格の男を抱え起こしながら、ナイフを持った仲間が吠えた。

 その顔は怒りと、それ以上に「得体の知れないもの」への困惑で赤黒く染まっている。


 無理もない。


 ただの本が物理法則を無視した弾道で飛来し、自分たちの頭領を文字通り「一撃」で沈めたのだ。

 魔法の詠唱も、魔力の予兆もなかった。


 「ふざけんな! 魔法使いか何か知らねえが、囲んで袋叩きにしてやる! 殺せっ!」


 男たちが三人、左右に分かれて同時に襲いかかってくる。

 丈一郎は深く重い溜息をつき、首の骨を鳴らした。


 四十を超えた身体は、異世界の慣れない空気のせいか、あるいは安宿の硬い寝床のせいか、節々が悲鳴を上げている。


 「袋叩き、か。……懐かしいね。日本でも、ナワバリ意識の強いカラスの群れに囲まれた時以来だ」


 丈一郎の瞳から、完全に温度が消えた。


 彼は動かない。


 一歩も引かず、ただ半纏の裾を軽く払い、重心をわずかに落とした。

 その瞬間、馬車の窓枠には三毛猫のモモが「ヌッ」と身を乗り出し、退屈そうに前足を舐め始めた。


 「ヌッ(飯!)」


 「うるせえな、口出すなら手伝えよ」


 丈一郎が毒づいた瞬間、広場の隅では、騒ぎを聞きつけた村の最長老が、震える指で丈一郎を指差していた。

 

 その目は狂信的な光を宿している。


 「……おお、見よ。あの構え、あの淀みのない足運び。間違いない……数十年前、この地を救い、どこかへ去っていった伝説の勇者ココ様の再来じゃ……!」


 老人の枯れた声が、奇妙なほど朗々と広場に響き渡る。


 「おい、死ぬ気で来いよ。こちとら一分一秒が路銀に直結してんだ」


 先頭の男が、錆びたナイフを突き出し、丈一郎の喉元を狙って鋭く踏み込んできた。

 その瞬間、丈一郎は動いた。


 「ふん!」


 シュッ、と空気が鳴る。男の視界から、丈一郎の姿が消えた。


 いや、消えたのではない。


 丈一郎の一歩の踏み込みで三メートルもの距離を「短縮」したのだ。


 (長老の独白)


 「伝説によれば、勇者ココ様は一歩踏み出すだけで大陸の端から端までを跨いだという。あのお方が歩けば世界の地図が書き換わり、海は割れ、そびえ立つ連峰すらも道を開けたのじゃ……!」


  丈一郎は男の背後を取ると、そのまま男の手首を、古なじみの手を握るかのような自然さで捕らえた。

 古武術で培われた指先が、男の関節の「遊び」を完璧に殺し、骨と筋肉の隙間に食い込む。


 (長老の独白)


 「ココ様が指を鳴らせば、万の魔軍の首は一斉に捻り切れ、その血は枯れ果てた大地を潤す大河になったという。あのお方は、指先一つで星の軌道すら変え、運命そのものを捻じ曲げたのじゃ……!」


 現実は、丈一郎が「ぬんっ」と短い呼気と共に、男を泥臭く一本背負いで投げ飛ばしているだけだ。

 ドサリ、と重苦しい音が響き、男は受け身も取れずに地面へ沈んだ。


 「次は、どっちだ?」


 残る二人の男が、恐怖をかき消すように叫びながら同時に飛びかかってくる。

 一人は棍棒を振り下ろし、もう一人は低く懐に潜り込もうとする。


 丈一郎は、空中に舞っていた「葉っぱ」を、薄っぺらな書き割りのように配置した。

 空間操法の「固定」、物体をその座標に釘付けにする技だ。


 (長老の独白)


 「ココ様が一度『壁』を築けば、それは神々の住まう天界をすら隔てる絶対の守護となった。あらゆる厄災、あらゆる呪い、果ては死の概念すらも、ココ様の前では一歩も進むことができなかったのじゃ……!」


 現実は、丈一郎の作った数センチ四方の「葉っぱ」に棍棒が引っかかり、男が自分の勢いでつんのめっただけだ。


 そこへ、丈一郎の古武術が炸裂する。


 指先を揃えた鋭い貫手を、男の脇腹の「隙間」へ。

 クシャクシャに丸めるイメージで、男の着ている毛皮の「容積」を一点に収束させる。


 (長老の独白)


 「ココ様が拳を握れば、銀河の果てにある太陽ですら圧縮され、掌の中で一粒の砂となった。あのお方の怒りは宇宙を収束させ、新たな開闢を告げる光となったのじゃ……!」


 バキリ、と嫌な音が鳴った。


 それは男の肺から空気を無理やり引きずり出した音だ。


 「カハッ、あ、が……」


 男は白目を剥き、膝から崩れ落ちた。


 丈一郎は、激しい吐き気に襲われるのを必死で堪えていた。

 視界が歪み、世界が精巧なジオラマのように、ペラペラの偽物に見えてくる「空間酔い」が始まる。


 (……クソ。やっぱり燃費が悪すぎる)


 その横で、モモが「フッ(情けない)」と鼻を鳴らす。

 最後の一人が、恐怖に駆られて無我夢中で瓦礫の石を投げつけた。


 丈一郎はそれを、手のひらで受け流し、ゆっくりと流れに従わせる。


 (長老の独白)


 「見よ! 飛来する邪悪な星々を、ココ様は一瞥するだけで空中に静止させた! そしてあのお方は、そのまま空へと駆け上がり、月の裏側に潜む魔王を素手で引きずり出したという……!」


 (……行くかよ。窒息して死ぬだろ普通)


 丈一郎は心の中で毒づきつつ、近くのテーブルを「踏み台」にして空中へ跳躍した。

 そのまま、鋭い蹴りが男の顎を捉えた。


 (長老の独白)


 「これぞ、天を歩む神の御業! ココ様が空を踏めば、天は大音響と共に震え、雷鳴が世界を祝福したのじゃ……!」


 実際には、丈一郎の足元で「ビキッ」と顎がひび割れる嫌な音がしただけだ。


 「……あー、痛て。腰に響くわ、これ……」


 最後の一人が地面に伏す。


 村には不気味なほどの静寂が訪れた。

 丈一郎は肩で息をしながら、半纏についた砂をパッパと払った。

 一方、広場の隅では、長老が涙を流して地面に額を擦り付けている。


 「おお、ココ様……なんと慈悲深く、なんと神々しい。そのお姿、まさに救世の……」


 「……誰がココ様だ。俺はただの古本屋だっつーの」


 丈一郎は、転がっている自分の商品(税制概論)を拾い上げた。

 モモが馬車から飛び降り、丈一郎の肩に我が物顔で飛び乗る。


 その重みが、今の丈一郎には酷く堪えた。


 「ナッ(飯)」


 「はいはい、わかったよ。……おい、お前ら。治療費はいらねえから、この本の修理代、きっちり百デナリで請求させてもらうぜ。……世知辛い世界だけどよ、払えねえとは言わせねえからな」


 丈一郎の冷めた声だけが、長老の崇高な伝説を木っ端微塵に台無しにしながら、夕暮れ迫る異世界の空に響き渡った。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

丈一郎とモモの旅もここまで積み重なり、物語の輪郭がより色濃く、深く動き始めています。


僕自身も二人の行く先をガシガシと追いかけるように執筆しています。

皆様から届く感想や評価、ブックマークは、二人が暗闇を突き進むための眩しい「ガソリン」になります。

「次の更新が楽しみで仕方ない!」と感じていただけるよう、常に全開の熱量で書き進めていきますので、ぜひこれからも二人の旅路の目撃者として、熱い応援をよろしくお願いいたします!

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