第三十八話【異世界出張編】 ② 煙と馬車(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
ここまで二人の歩みを見守ってくださり、心から感謝いたします。
皆様からいただく感想やブックマークは、二人が未知の道を切り拓くための、何より力強い「ガソリン」になります。
「今日の一話も目が離せない」と思っていただけるよう、全開の熱量でお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で応援していただけると嬉しいです!
「……おい、クソ爺。あんたは、いつも次元を跨いで俺の腰を殺しにくるな」
深夜。
老戦士から手渡された「禁書庫の地図」……もとい、爺さんの殴り書きが添えられた血生臭い羊皮紙を頼りに、丈一郎は街の北端に位置する廃聖堂の地下へと潜っていた。
地上では老戦士と護衛が松明を掲げ、厳重に警備を固めている。
「ヌッ(古くて腐った匂いだ)」
肩の上のモモが、これまでにないほど深く、低く喉を鳴らして警戒を露わにしている。
その毛は逆立ち、尾は太く膨らんでいた。
「分かってるよ。……空間の節々が、無理やり継ぎ合わされた跡がある。まるで、切り刻んだ布を強引にホッチキスで止めたような……これ、間違いねぇ。爺さんの仕業だわ」
辿り着いた禁書庫の最深部。
そこには、王宮の司祭たちが数百年かけても開けられなかったという、漆黒の金属で覆われた『拒絶の扉』が鎮座していた。
扉の表面には、畏怖を誘うような魔導文字……ではなく、あまりにも場違いで、あまりにも見覚えのある「日本語」が、ノミで叩き込んだような荒々しさで刻まれていた。
『右に三回、左に二回、最後に取っ手を垂直に引き上げろ。九重』
「……セキュリティがアナログすぎるんだよ。せめて指紋認証くらい付けろっての」
丈一郎は毒づきながらも、扉の内側の空間構造を読み取った。
爺さんの残した警告は、一分のブラフも含まれていない。
解除の手順を一つでも間違えれば、この一帯は文字通り「千切り」にされる仕掛けが組まれていた。
慎重に、まるで爆弾を解体するような手つきで扉を操作する。
重厚な石の扉が音もなく滑り、その先に広がっていた光景に、丈一郎は煙草を口から落としそうになった。
そこは、書庫ではなかった。
広大な亜空間の中に、無数の「半透明の立方体」が星座のように浮かび、その一つ一つの中に、異世界の人間が見れば発狂しかねない『現代の遺物』が、完全な状態で保存されていたのだ。
「……っ、これ、全部爺さんがこっちに持ち込んだのかよ!?」
液晶の割れたノートパソコン、型落ちのデジタルカメラ、山積みの週刊漫画誌、そして——棚一つを埋め尽くすほどの『未開封の煙草のカートン』。
「……あるじゃねぇか。宝の山だわ」
だが、丈一郎の足を止めさせたのは、それらの娯楽品ではなかった。
部屋の中央、重力の法則を無視して浮遊する、一冊の巨大な「真っ黒な本」だった。
その本からは、周囲の空間を飴細工のように歪ませ、光さえも吸い込むような圧倒的な「質量」を感じる。
「丈一郎、近寄るな!」
モモの全身からは、陽炎のような淡い黄金色の光が立ち昇っている。
「……分かってる。これが、老戦士たちが言っていた『失われた技術』の正体、そして爺さんが隠した負債だ」
丈一郎は吸い寄せられるように、その黒い本へと手を伸ばした。
バングルが激しく熱を持ち、腕の皮膚をじりじりと焼く。
激痛に顔を歪め、奥歯を噛み締めながらも、彼は本の表紙に指を掛けた。
その瞬間。
丈一郎の脳内に、ダムが決壊したような濁流
の情報が流れ込んできた。
それは爺さんの思い出話などではない。
この異世界そのものが抱える、根源的な「バグ」の記録だった。
もともと、この世界は空間の構造が致命的に不安定で、数百年周期で「崩壊と再生」を繰り返さなければ維持できない欠陥住宅のようなものだった。
九重の爺さんは、その残酷な真実を知り、自らの空間操法を限界まで酷使して、世界の崩壊という事象を『本という名の空間牢獄』に一時的に封印したのだ。
(……なんてことしやがる。これ、修理したんじゃねぇ……ただの『先送り』じゃねぇか! 期限の切れた借金を、新しいローンで踏み倒しただけだ!)
本のタイトルが、日本語の光となって脳裏に浮かび上がる。
『不良在庫(世界の終末)管理帳』
「……おい、爺さん」
その時、静まり返った書庫に、コツリと硬質な足音が響いた。
「察しが良いですね」
振り返ると、そこには昼間の老戦士ではなく、純白の法衣を纏った一人の少女が立っていた。
その瞳は、熊本に残してきた「あかり」が持っていたような清浄な輝きを放ちながらも、その奥底には、無限の歳月を一人で耐え忍んできたような絶対的な虚無を湛えている。
「私はこの世界の守護者。……初めまして」
少女の手には、丈一郎のバングルと対になるような、白銀のリングが握られていた。
彼女がそれを静かに掲げた瞬間、書庫内の空間が心臓の鼓動のように激しく脈動し、浮遊していた立方体たちが一斉に丈一郎目掛けて収束を始めた。
「っ……空間の強制連結!? 待て、商売ならまず相見積もりを取らせろ! 俺はまだ契約書にサインしてねぇぞ!」
「……既に取引は成立しているのです。……代価は、あなたの『日常』のすべて」
空間が、巨大な渦となって丈一郎を飲み込もうとする。
視界が真っ白に染まり、脳漿が沸騰するような凄まじい負荷がかかる。
「……舐めるなよ。俺は古本屋だ。売れないゴミや、重すぎる責任を無償で押し付けられるのは、死ぬほど嫌いなんだわ……ッ!!」
丈一郎は、押し寄せる情報の奔流を、逆に自らの「世知辛い、泥臭い現実の記憶」で押し返した。
借金の督促電話、冷え切った食卓、深夜の古書補修、そして、唯一の安らぎだった猫の温もり。
「受け取れ!!」
聖なる空間の歪みと、薄汚れたおっさんの執念が激突し、禁書庫の空間がガラス細工のように粉々に砕け散った。
凄まじい衝撃波が丈一郎の意識を刈り取り、彼は再び、底の見えない闇へと叩き落とされていった。
崩壊する世界の中で、最後に聞こえたのは、モモの鋭い叫び声と、どこか遠くで爺さんが「ニヤリ」と笑うような、心底楽しそうな声だった。
「……さて、丈一郎。この『特大の赤字』……お前なら、どうやって黒字に変えてみせる?」
「……っ、げほっ、ごほっ! ……死ぬかと思った。あのアホ面した爺、とんでもねぇ置き土産を残しやがって……」
丈一郎が意識を取り戻したとき、そこは冷たく湿った廃聖堂の地下でも、あの狂った因果が渦巻く禁書庫でもなかった。
背中に伝わる、使い込まれた木の床の適度な弾力。
鼻腔をくすぐる、古い紙と糊が混ざり合った独特の香りと、空間をわずかに焦がした魔力の残滓。
そして微かに漂う、愛すべき煙草のバニラの残り香。
「愚か者め。お前が泡を吹いて倒れたときは、いよいよこの私が店主を継がねばならんかと覚悟したぞ。……力を使いすぎた、しばらく私に頼れると思うなよ」
胸の上にどっかりと居座り、三毛猫のモモが呆れたように前脚を舐めている。
その重みこそが、丈一郎にとっては何よりの「現実」の証だった。
そこは、彼が、執念と魂を注ぎ込んで作り上げた移動式古書店『環』の内部だった。
どうやら、禁書庫の空間が崩壊し、あの謎の少女が放った情報の奔流に呑み込まれる直前、
モモが強制的に「店舗内」へ引き戻したらしい。
店内は、昨夜よりも心なしか「馴染んで」見えた。
丈一郎は震える手で寝癖を掻きむしり、よろよろと起き上がって棚を見渡した。
「……っ、ハハ、まじかよ」
棚には、あの禁書庫の中央で世界のバグを封じていた「真っ黒な本」が、棚の最上段で、まるで最初からそこにあったかのような顔で沈黙を守っていた。
「……夢じゃなかったってわけだ。勘弁してくれよ。世界の終末を預かるなんて、古本屋の職務権限を大幅に超えてるっつーの」
窓のカーテンの隙間から、異世界の二つの月が沈み、蒼白い朝焼けの光が差し込み始めている。
丈一郎はふらつく足取りで御者台へと向かい、重いカーテンを跳ね上げた。
そこには、昨夜の商談相手である老戦士が、霜の降りた地面に直立したまま、まるで彫像のように馬車の前で待っていた。
「目覚めたか、店主殿。地下で何があったかは問わぬ。だが……我が一族が数百年守り続けてきた『誇り』は、繋がったのか?」
老戦士の目は、疲労困憊の丈一郎を射抜こうとする鋭さに満ちていた。
その背後に控える護衛の兵士たちも、息を呑んで丈一郎の口元を注視している。
丈一郎は黙って、懐から一振りの小刀を取り出した。
昨夜、手渡されたときは中ほどから無残に折れていたはずの刃。
それが今、朝日を浴びて、恐ろしいほどの透明感を持って輝いている。
断面の「ほつれ」を空間操法で編み直した、異世界の理を超越した逸品だ。
「……約束だ。あんたの一族の誇りは、俺が『修理』しておいた。前より少しばかり切れすぎるから、指を落とさねぇように気をつけな」
丈一郎は、老戦士に小刀を放り投げた。
さらに、爺さんのレシピ本から一部を書き写したメモを添える。
「それは『鋼を鍛える際の魔力循環』の翻訳だ。全部は教えられねぇが、最初の十ページ分。……これがあれば、あんたのところの若い衆も、少なくとも『粗悪品』を打って食いっぱぐれることはねぇだろ」
老戦士は震える手で小刀とメモを受け取ると、その刃紋をじっと見つめ、やがて深く、深く頭を下げた。
その姿には、王国の重鎮としての威厳ではなく、一人の職人、一人の戦士としての純粋な敬意が宿っていた。
「……恩に着る、店主殿。貴様はただの古本屋ではないな。失われた神代の技術を操る、伝説の隠者か……」
「買い被るなよ、旦那。俺はただ、在庫の回転率と腰の痛みを気にしてるだけの、しがない労働者だ。……さあ、仕事は終わりだ。どいてくれ、開店準備があるんでね」
丈一郎は老戦士を見送ると、再び馬車の中へ戻り、煙草の新しいパッケージを破った。
立ち上るバニラの煙が、棚の上の「真っ黒な本」に触れては消えていく。
この本には、この世界の終末という最大級の「不良在庫」が封じられている。
爺さんは、あまりにも重すぎる責任を丈一郎に押し付けた。
だが、見方を変えれば、これは究極の「限定品」であり、この世界の誰も持っていない「真実の原典」だ。
「……不良在庫ってのはな、需要さえ作り出せば『お宝』に化けるんだよ。爺さん、あんたの撒いた種、俺が全部『黒字』に変えてやるから見てな」
馬車がゆっくりと動き出し、車輪が異世界の乾いた大地を噛み締める。
目指すは、まだ見ぬ大都市か、あるいは爺さんが他にも「やらかし」を残しているであろう未知の辺境か。
「モモ、出発だ。……ついでに、あの『禁書庫の守護者』のネーちゃんに、返品の相談……いや、損害賠償の請求もしなきゃならねぇしな」
「ナッ、フッ(それは返品ではなく、ただの未練ではないか? )」
「うるせぇ。俺はただ、不当な契約を押し付けられた被害者として、法的な異議申し立てをしに行くんだよ。……あー、それにしても腰が痛ぇ。この馬車、サスペンションもやり直さなきゃダメか……」
移動式古書店『環』。
それは、世界を救う勇者の輝かしい馬車ではない。
四十代のしがない店主が、愛猫と共に「世知辛い現実」をサバイブするための、ただの商売道具だ。
しかし、その車輪が刻む轍こそが、歪みきったこの世界の因果を、一頁ずつ正しく書き換えていくことになる。
煙草の甘い香りを道連れに、馬車は朝焼けの荒野へと、悠然と漕ぎ出していった。
……結局、手元に残ったのは「世界の終末」が詰まった呪いの本。
割に合わねぇ商売だってのは、最初から分かってたことだけどよ。
……さて、次の街ではどんな「訳あり」が店を叩きに来るか。高く売りつける準備だけは、しておくとしよう。




