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第三十六話【異世界出張編】        ① トカゲ一匹「ゼロ」円(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。

ここまで二人の歩みを見守ってくださり、心から感謝いたします。


皆様からいただく感想やブックマークは、二人が未知の道を切り拓くための、何より力強い「ガソリン」になります。

「今日の一話も目が離せない」と思っていただけるよう、全開の熱量でお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で応援していただけると嬉しいです!


 「けろ、このっ……素人が!」



 冒険者の怒号が、耳をつんざく。


 北の街道。


 そこは、丈一郎がかつて漫画や映画で見た「英雄たちの華やかな戦場」などでは断じてなかった。


 泥と血。


 飛び散る内臓の臭い。


 そして、死を目前にした人間が漏らす、言葉にならない呻き声。


 それらが混ざり合う、最悪の「不渡り現場」だ。

 

 街道の先から地響きを立てて押し寄せていたのは、巨大な角を持つ猪の魔獣『バイカホーン』の群れだった。


 一頭一頭が時速六十キロを超える殺意となって突進してくる。


 迎え撃つ街の警備兵たちは、自慢の盾を紙細工のように砕かれ、じりじりと門まで押し戻されていた。



 「ナッ(あそこだ!)」



 肩の上で、モモが鋭い爪を立てて戦場の一角を指し示した。

 そこは、群れの突進をまともに受けて半壊した荷馬車の影だ。


 そこには、命からがら逃げ出した騎士が落としたのであろう、豪奢な装飾が施された一本の長槍が転がっている。



 「……馬鹿言うな! あんな場所、行ったら一瞬で挽き肉だぞ!」



 「フン(行け、腰痛持ち!)」



 「……っ、この、守銭奴猫が!」



 丈一郎は毒づきながらも、身体は既に動いていた。


 今のデナリでは、まだ足りない。

 明日を生きる保証も、日本に帰る手がかりも、何一つ手に入っていないのだ。


 ここで引けば、一生この埃っぽい街で「一デナリ」を奪い合う生活が待っているだけだ。

 

 彼は半纏の裾を泥に浸しながら、姿勢を低くして戦場を横切った。


 頭上を飛び交う矢。


 砕け散る石礫。


 その一つ一つが、丈一郎の網膜には「物理的な物体」としてではなく、空間を波立たせる「乱れ」として映る。



 「……見えた」



 右手をかざす。


 飛来する一本の矢。


 本来なら丈一郎の喉元を正確に貫くはずの軌道。彼はそれを「避ける」のではなく、その進路にある空間の「手触り」を書き換えた。

 

 腕が熱を帯びる。


 硬い『牛革』の厚みを、一瞬だけ『絹の滑らかさ』へ。

 

 キィィィィン、と空間が悲鳴を上げるような軋み音がした。

 丈一郎の指先を掠める直前、矢はまるで目に見えない氷の滑り台に乗ったかのように、不自然な角度でクイリと軌道を逸らし、背後の土壁に音もなく突き刺さった。



 (軽いものなら、いける。……空間の『流れ』をいじるだけなら……!)



 確信を得た丈一郎は、そのまま馬車の残骸へと飛び込んだ。


 目標の長槍まであと三メートル。


 だが、運の悪いことに、一頭のバイカホーンが丈一郎の存在に気づいた。


 

 「ブモォォォォォッ!!」

 


 凄まじい咆哮と共に、大地を削る蹄の音が迫る。

 数トンの質量が、丈一郎目掛けて一閃の矢となって突っ込んでくる。

 


 「俺の腕じゃ、こいつを止めることはできない」

 


 丈一郎は立ち止まり、迫りくる巨獣を正面から見据えた。


 冷や汗が背中を伝う。


 胃の底からは、空間を弄るたびに酷くなる吐き気がせり上がってくる。

 だが、瞳は冷徹だった。



 (猪を止めるのは無理だ。だが……『こいつが今から踏む地面』はどうだ?)



 バイカホーンが前脚を振り上げ、トドメの突進に移るその一瞬。

 

 丈一郎は地面に向けて右手を叩きつけた。

 

 狙うのは、巨獣の全体ではない。

 その右前脚が着地する、わずか数センチ四方の空間。


 

 「……ッ!!」


 

 空間を縫い合わせる。


 右前脚が着地する瞬間を、左後方の「空中の空間」と、強引に一瞬だけ連結させた。


 

 「!?!?!?」


 

 バイカホーンが絶叫を上げた。


 踏み込んだはずの地面が、そこにはなかった。

 右前脚が虚空へと吸い込まれ、代わりに左後ろの空間から飛び出したのだ。


 自らの突進エネルギーを逃がす場所を完全に失った巨獣は、物理法則を裏切られた慣性に振り回され、独楽のように横転しながら、丈一郎の数センチ横を猛烈な勢いで通り過ぎていった。

 

 ズドォォォォォォンッ!!

 

 背後の廃屋に激突し、沈黙するバイカホーン。

 


 「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」

 


 視界が真っ赤に染まる。鼻から生温かい液体が垂れた。

 無理やり「生物の周囲の空間」を弄った反動だ。


 全身の毛穴から血が噴き出すような劇痛と、平衡感覚の喪失。

 これが、世界の裏側を覗き、構造を無理やり書き換「空間操法」の代償だった。

 


 「丈一郎、今だ! 獲物を掴め!」

 


 モモの叱咤に、朦朧とする意識を繋ぎ止める。

 彼は泥にまみれた長槍を、ひったくるように掴んだ。

 

 その瞬間。

 


 「……あ?」

 


 槍の石突きの部分。そこに刻まれていた小さな刻印が、丈一郎の目に飛び込んできた。


 環一族の家紋……ではない。


 だが、それに酷似した、どこか「ふざけた」意匠。

 

 『九重ココノエ工務店・異世界出張所 試作品第一号』

 


 「……あの、クソじじい……!!この世界に来たことあるのか、どういうことだ」

 


 この槍はただの高級品ではない。


 かつて爺さんがこの世界に残した、「異世界を壊すための欠陥品」。

 つまり、とてつもない価値があるのと同時に、持っているだけで「敵」全員から狙われる、最悪の『呪い』そのものだった。


 

 「ヌッ、ヌッ、ヌッ、ナッ(当たりだ! 丈一郎」

 


 「喜んでる場合か!俺にはわかる! こんなの持ってただけで、俺の命が幾らあっても……っ!」


 

 丈一郎が槍を抱えて立ち上がった時、街道の向こうから、バイカホーンの群れを「一太刀」で切り裂きながら突き進んでくる、一団の影が見えた。

 

 白銀の甲冑。瞳に宿る、異常なまでの魔力の光。

 


 「……待て。貴様、その槍……どこで手に入れた」

 


 一団の先頭に立つ女騎士が、剣を抜いたまま、丈一郎の鼻先に鋭い切っ先を突きつけた。

 その瞳には、懐かしさと、そして数十年来の「恨み」が、綯い交ぜになって燃え盛っていた。


 

 「……ああ、やっぱりだ。いつもこうだ」

 


 丈一郎は、最初の一デナリを握りしめた時と同じ、諦め混じりの乾いた笑みを浮かべた。


 

 「……これ、返した方がいいですかね?」


 

 開始早々に「死罪」の危機。


 物語は、丈一郎の予想を遥かに超える、最悪で最高に世知辛い展開へと転がり始めた。

 

 


 突きつけられた剣先が、丈一郎の鼻先で微かに震えている。

 女騎士の背後に控える十数名の精鋭たちからも、明確な殺意と、それ以上の「困惑」が伝わってきた。


 無理もない。


 泥にまみれた奇妙な半纏を羽織り、三毛猫を肩に乗せ、あろうことか「伝説の欠陥品」を抱えてへらへらと笑っている男がいれば、誰だって警戒する。



 「……答えろ。その槍をどこで盗んだ。それは、三十年前に我が王国で『勇者ココ』が作り出した、禁忌の魔導具だぞ」



 「盗んだ? 心外だな。俺は、ただの古本屋ですよ……え?勇者ココ?」



 丈一郎は、限界に近い吐き気を押し殺し、槍をゆっくりと地面に立てた。

 勇者ココ、九重(ここのえ)爺さんのココ。

何そのネーミングセンス。


 さて、この場を切り抜ける方法は二つ。


 空間操法をフル回転させて強引に逃げるか、商売人として「交渉」するか。

 前者は、今のボロボロの体では途中で力尽きて野垂れ死ぬのが関の山だ。


 ならば、選ぶ道は一つしかない。



 「団長さん。俺はこの制作者の身内ですよ」



 「……何を、デタラメを!」



 「デタラメかどうか、試してみるか? この槍の力」



 女騎士が怪訝そうに視線を落とした瞬間、丈一郎は腕に意識を集中させた。


 ブラフだ、俺は槍の能力を知らない。


 正確には、槍に秘められていた爺さんの力の残滓を、空間的に「露呈」させただけだ。


 パキィィィィン!


 乾いた金属音とともに、槍の周囲の空気が、まるで割れた鏡のようにひび割れた。

 そこから溢れ出したのは、異世界の物理法則を無視した「純粋な力」の奔流だ。

 


 「っ!? 全員下がれ! 空間が爆ぜるぞ!」


 

 女騎士が叫ぶ。


 空間の裂け目から漏れ出した光が、周囲に転がっていたバイカホーンの死体を一瞬で塵へと変えていく。暴走する魔導具。

 かつて勇者が「失敗作」として投げ出した理由が、その破壊的な不安定さにあった。

 


 「ナッ(おい丈一郎!)」



 「分かってるよ! ……ほら、団長さん。このままじゃあんたたちの街は、この『勇者ココ?の忘れ物』に飲み込まれる。……これを安全に、かつ跡形もなく『閉じる』ことができるのは、今この場にいる中では俺一人だけだ。……どうする? 没収して全滅するか、俺に協力して『商談』に乗るか!」



 沈黙が戦場を支配した。


 溢れ出す光の奔流の中で、丈一郎だけが、まるで自分の書斎にいるかのように平然と立っていた。

 鼻血を拭い、激しく痛む腰を叩きながら。



 「……望みは何だ。貴様のような男が、命を賭けてまで要求する対価など、想像もつかんが」



 女騎士が、苦渋に満ちた表情で剣を鞘に収めた。



 「簡単なことだ。第一に、この槍の『緊急鑑定料』と『保管料』。第二に、俺とこの猫の衣食住の完全保証。そして第三に……」



 丈一郎は、ニヤリと、熊本の古本市場で「誰も価値に気づいていないお宝」を見つけた時と同じ、最高に悪辣で頼もしい笑みを浮かべた。



 「日本……いや、『東方の島国』へ帰るための情報を、あんたたちの国が持っている分だけでいい、全部見せろ。それが、この槍を無傷で封印するための『対価』だ」



 一時間後。


 街道の魔物の群れは霧散し、丈一郎は王宮騎士団の厳重な護衛に付き添われ、街で最高級の宿屋へと足を踏み入れていた。

 

 目の前には、湯気を立てる極上の肉料理と、芳醇な香りのエール。

 そして、モモのために用意された、この世界で一番高級な湖魚のグリル。



 「……はぁ。死ぬかと思った。もう一生分のアドレナリンが出たぞ」



 「ヌッ(大戦果ではないか)」



 「俺がやったのは、ただの『在庫整理』だ。不良在庫を、一番高く買ってくれる客に押し付けただけさ」



 丈一郎は、銀貨がぎっしり詰まった革袋をテーブルに放り出した。


 六百五十デナリどころではない。

 

 騎士団から前払いされた「緊急コンサル料」として、眩い光を放つ金貨が数枚混ざっている。

 だが、窓の外を見れば、そこにはまだ見たこともない二つの月が浮かんでいた。


 熊本の空とは、あまりにも違う。


 

 (九重の爺さん……。あんた、どれだけのことをこの世界でしてきたんだ。……どうやって、日本に戻った?いや、まず勇者ココって何?)



 丈一郎は、冷えたエールを一気に煽った。


 空間操法の副作用による吐き気はまだ治まらない。腰の痛みも、バキバキだ。

 だが、不思議と心は落ち着いていた。

 

 物の真価を見極め、適切な場所に、適切な価格で流す。


 それが古本屋の、商売人の本懐だ。


 

 「……ま、とりあえずは、明日だな。明日は、古書の仕事……例えば、この街の古文書の仕入れるとか、そういう腰に優しい、仕事をするとしよう」



 「ナッ(無理だな)」



 「……そういえば、なんで言葉が通じるんだ?文字もわかるし……まあ、本を読めればいいか……あ!うわぁぁぁぁぁ!た、煙草が吸いたいぃぃぃぃぃ!」



 丈一郎の、異世界での長い夜は、まだ始まったばかりだ。


 誰だよ、異世界に行けば無双できるって言ったやつ。

 出てこい、一発殴らせろ。

 ……あ、ダメだ、もう殴る体力も残ってねぇわ。

 

 煙草あるかなここ……

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