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第三十五話【異世界出張編】        ① トカゲ一匹「ゼロ」円(前編)

 ……おい、誰か説明してくれ。

 出張っていうのは、普通、会社から「新幹線代」とか「宿泊費」が出るもんだろ?

 

 百歩譲って、強制転移だから交通費が出ないのは我慢しよう。

 だがな、支給された装備が「洗濯し忘れた半纏」一枚と「空腹」だけってのは、労働基準法以前に人道に対する罪だと思うんだ。


 

 あー、腰が痛ぇ。誰か湿布持ってきてくれ。

 ……あ、そうか。ここには湿布もなけりゃ、ホムセンもねぇんだわ。





 耳の奥で、パチンと電球が弾けるような音が響き続けていた。

 視界を塗りつぶしていた虹色の奔流はいつの間にか消え、代わりに強烈な乾燥した風と、焼けるような土の匂いが鼻を突く。

 

 環 丈一郎は、頬に伝わる硬い感触で、自分が地面に突っ伏していることに気づいた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。そこにあるのは、熊本の瑞々しい新緑でも、環古書店の埃っぽくも愛おしい天井でもなかった。

 

 赤茶けた大地が地平線の彼方まで続き、空には不自然なほど巨大な、毒々しい紫色の雲が澱んでいる。

 

 「……っ、げほっ、ごほっ……!」

 

 咳き込みながら上体を起こすと、右腕のバングルが嫌な音を立てた。

 黄金色に輝き、世界の法則を書き換えるほどに荒ぶっていたそれは、今は見る影もなくくすみ、まるで道端に落ちていた古びた真鍮の輪っかのように沈黙している。



 

 「生きてるか、丈一郎」

 



 肩の上で、三毛猫のモモが欠伸をしながら言い放った。

 その声は相変わらず不遜だが、どこか遠くのスピーカーから聞こえるような、奇妙な響きを帯びている。

 

 「モモ……お前、無事だったのか……」

 

 「ナッ(当たり前だ」

 

 丈一郎は震える手で、ヨレヨレの半纏のポケットをまさぐった。


 一縷の望みをかけて。


 何かが残っていれば。


 ……だが、そこにあったのは、次元の嵐で粉々に砕け、何が書いてあるかも分からなくなったコンビニのレシートの残骸と39円だった。

 

 絶望。


 熊本での四十余年の蓄積が、一瞬で文字通りの「ゴミ」になった瞬間だった。

 

 「……あ。そうだ、トカゲ」

 

 丈一郎は這い上がり、数メートル先に横たわる巨大な獲物を見やった。

 体長三メートル。岩のような鱗に覆われた『ストーン・リザード』の巨体。眉間に深く石が突き刺さり、死んでいる。

 

 「……こいつを街まで持っていけば、少しは路銀になるはずだ」

 

 丈一郎は右手をかざした。


 全盛期の九重の爺さんなら、指先一つでこの程度の巨体を空間ごと「固定」して浮かべ、空を散歩するように運んだだろう。

 だが、今の丈一郎は、未熟な自分を嫌というほど実感していた。

 

 意識を集中する。


 空気ではなく、その背後にある「世界の外側」を指先で探る。


 ……あった。


 だが、その手触りはあまりにも重厚で、冷酷だった。

 

 日本の、あの柔らかく馴染み深い空間ではない。

 この「世界」の空間は、まるで分厚い「牛革」だ。


 それも、何十年も使い込まれて硬化した、ザラついた手触りの革。

 

 「っ……せい、のッ!」

 

 空間の繊維を掴もうと指を曲げる。


 だが、繊維はビクともしない。


 コップや皿、飛んでくる矢のような「軽いもの」なら、今の自分でも空間を捻じ曲げて制御できるだろう。

 だが、この数トンはありそうなリザードの重量は、空間の「針」を通すことすら拒絶していた。

 

 「……クソ。重すぎて、空間を『引っ掛ける』ことすらできねぇか……あ、気持ち悪い」

 

 結局、丈一郎が取った手段は、最高に原始的で、最高に腰に悪い方法だった。

 

 「ぬ、ぬぅぅぅぅぅ……ッ!!」

 

 半纏の袖をまくり上げ、トカゲの尻尾を両手でガッチリと掴む。

 火事場の馬鹿力ならぬ、「無一文の社畜力」。

 

 ズズッ、と砂を噛む音がした。


 自分の体重をすべて前傾姿勢に預け、泥を舐めるようにして地面を這う。


 一歩、また一歩。


 一歩進むたびに、膝の皿が軋み、腰が悲鳴を上げ、半纏が汗で重くなっていく。

 

 「はぁ、はぁ、……モモ、お前、少しは……手伝えよ……!」

 

 「ヌッ(下僕の仕事だ)」

 

 「……っの、クソ猫!」

 

 やっていることはただの「死に物狂いの重労働」。


 丈一郎の人生そのものだった。

 

 照りつける太陽がジリジリと肌を焼き、喉はカラカラに乾ききっている。

 ようやく、地平線の先に石造りの無骨な門が見えてきた頃には、丈一郎の意識は半分ほど飛びかけていた。




 「なんだ、その汚ねぇ身なりは。……それと、後ろのゴミは何だ?」

 

 革鎧を着込んだ、髭面の兵士が槍を向けてくる。

 丈一郎は、限界ギリギリの腰をさすりながら、体内に残る全エネルギーを絞り出して「営業スマイル」を顔に貼り付けた。

 

 「あ、えっと……商売人です。不慮の事故で荷物を失いまして。これ、立派なトカゲでしょう? 買い取ってくれる場所、教えてもらえませんか」

 

 兵士は、丈一郎が二時間かけて引きずってきたトカゲを一瞥し、鼻で笑った。

 

 「……『ストーン・リザード』か。肉は硬くて食えたもんじゃねぇし、皮も剥ぐ手間の方が高くつく雑魚だ。……まぁいい、ギルドの裏の解体所へ行け。物好きな親父が十デナリくらいで引き取ってくれるかもしれんぞ」

 

 「十……?」

 

 デナリという単位がどれほどの価値か、この時の丈一郎には分からなかった。

 だが、その後の展開は、彼の「期待」をさらなる深淵へと叩き落とした。

 

 解体所の親父は、丈一郎の泥まみれの顔を見るなり、鼻をほじりながらトカゲの死骸を蹴飛ばした。

 

 「あー、リザードね。……皮は引きずり回したせいで傷だらけ、引き取りはタダだ。肉もこれじゃあ鮮度が落ちてる。……おっと、眉間に刺さったこの『石』。お前、素人か? 脳までグチャグチャに潰しちまってるじゃねぇか。これじゃ魔石の採取も期待できねぇ。……手間賃を引いて、はい、お代だ」

 

 チャリン。

 

 丈一郎の手のひらに置かれたのは、安っぽい鉄のコインが一枚。

 

 「……え、これだけ?」

 

 「一デナリだ。文句あるか? 商品にもなりゃしねぇんだ」

 

 丈一郎は、手のひらの冷たいコインを凝視した。


 ふと、街の入り口の掲示板に目をやる。


 『特製オーク肉の串焼き:十五デナリ』


 『安宿の一晩:二十デナリ』

 

 一デナリ。


 それは、この世界において「一番安いパンの耳の切れ端」すら買えるかどうか、という絶望的な額だった。

 

 二時間。


 命を懸け、腰を粉にし、泥を舐めて手に入れた報酬が、一デナリ。

 

 「……。…………」

 

 「ナッ(お前の墓代にもならん)」

 

 「……分かってるよ! 分かってるけどよぉ!!」

 

 丈一郎は天を仰いだ。


 熊本を去り、神域の崩壊を生き延び、愛おしい古書店を失って辿り着いた先は、以前よりもさらに「世知辛い」どん底だった。

 

 だが。


 丈一郎の瞳の奥で、小さな、しかし消えない火が灯った。

 それは英雄の正義感でも、勇者の情熱でもない。


 「買い叩かれたことへの、強烈な不服」。


 商売人としての、そして社畜として理不尽に耐え抜いてきた男としての、意地だ。

 

 「……よし、決めた」

 

 丈一郎は、最後の一デナリを力任せに握りしめた。

 

 「モモ。この世界、思った以上に辛い。……いいだろう。まともに戦って稼ぐのは非効率だ。……仕入れだ。価値を知らない連中から、お宝を買い叩いてやる!」

 

 「フン(飯)」

 

 「……うるせぇよ」

 

 丈一郎は、ボロボロの半纏を羽織り直し、埃っぽい街の雑踏へと踏み出した。 

 「環古書店・異世界支店」の、あまりにも世知辛い一日目が、ここから始まる。


 一デナリ。


 それは、丈一郎がその日初めて手にした、異世界の「現実」の重みだった。

 指先に乗るその鉄貨は、表面が磨り減り、縁は欠け、まるでどこかの路地裏に何年も放置されていたボタンのような惨めさを漂わせている。


 だが、今の丈一郎にとっては、これがこの世界と自分を繋ぐ、唯一の細い糸だった。


 「……さて。モモ。これからどうする。この一枚で?」

 

 丈一郎は、街の中央広場にある石造りの水飲み場に腰を下ろした。

 喉は焼けるように渇き、胃袋は自分の存在を主張するように、内側からグゥと情けない音を立てる。


 「ナッ(仕入れだ)」

 

 「言うのは簡単だよな……。資本金が一デナリで、何を仕入れろってんだよ。うちの店の100円コーナーですら門前払いだぞ」

 

 丈一郎は、周囲の喧騒を観察し始めた。


 街の規模はそれなりに大きい。

 馬車が行き交い、露店からは香ばしいスパイスの香りが漂ってくる。


 行き交う人々は、毛皮を纏った裕福そうな商人から、全身を鎧で固めた冒険者、そして丈一郎よりもさらにボロボロの布を纏った浮浪者まで、まさに「カオス」を形にしたような光景だ。

 

 その光景を見て、丈一郎の商売人としての脳が、無意識に情報を精査し始める。


 古書店店主としての長年の経験。


 それは、膨大な蔵書から得た知識だけでなく、持ち込まれたガラクタの中から「本物の価値」を見極める、生き残るための嗅覚を研ぎ澄ませていた。


 (物価は高い。だが、流通している品の質はバラバラだ……。あの兵士が持っている槍、穂先が少し欠けているな。あっちの商人が並べている食器、焼きが甘い……)


 ふと、路地裏の隅で汚い布を広げ、不用品を並べている老人の姿が目に留まった。

 そこには、錆びた釘、割れた皿、そして何かの動物の骨……文字通りの「ゴミ」が並んでいる。

 

 「……お、おい。あんた。その隅にある『鉄クズ』、見せてくれ」

 

 丈一郎が指差したのは、ガラクタの山に埋もれていた、一見するとただの「折れたナイフ」だった。

 老人は鼻で笑い、不機嫌そうに応じる。


 「なんだい、兄ちゃん。冷やかしなら他所へ行ってくれ。そんなもん、研ごうにも芯まで錆びてる。一デナリだ。持ってけ」

 

 丈一郎は、手のひらの一デナリを見つめた。


 これを手放せば、今夜のパンの耳すら買えなくなる。だが、彼の目には、その錆びた鉄片の「歪み」が見えていた。

 

 (……これ、ただの鉄じゃない。空間の歪みをわずかに吸ってる。……おそらく、何かの残骸だ)

 

 「……買った。これ、もらうよ」

 

 一デナリを老人の手に握らせ、丈一郎は「折れたナイフ」を手に取った。

 

 「ヌッ、ナッ、フッ(馬鹿か。飯ではなく、そんな鉄を買うとは。私の飯はどうした)」

 

 「うるせぇ。これは『投資』だ。……物の真髄は、構造を『理解』することにあるんだよ」


 丈一郎は路地裏の物陰に身を隠すと、深く息を吐いた。

 右腕をかざす。微かに、本当に微かにだけ熱を帯びる。

 

 「……見えた。これなら、今の俺の馬力でも『いじれる』」

 

 対象が重いトカゲならビクともしないが、手のひらサイズのナイフなら話は別だ。

 丈一郎はナイフの表面の「錆」の構造を、空間的に認識した。

 錆とは、物質の表面に付着した不純物の層だ。


 ならば、その層と鉄の境界線を「空間的に数ミクロンだけずらす」ことができれば……。

 

 「っ……は、はぁ……ッ!!」

 

 胃を絞り上げるような強烈な吐き気が、再び襲いかかる。

 視界がぐらりと揺れ、街の景色が一瞬だけ「厚紙で作られた書き割り」のようにペラペラに見える。


 世界の裏側を覗く、最悪の副作用だ。

 

 空間を掴む。


 ザラついた牛革を、丁寧に、丁寧に剥いでいくような、神経を削り取る作業。

 パラパラと、砂のような赤い粉が地面に落ちた。

 

 数分後。


 丈一郎の手の中にあったのは、錆びた鉄片ではない。

 鈍い、しかし一点の曇りもない銀色の輝きを放つ、「特殊合金の芯」だった。

 

 「……成功だ。錆びてたのは表面だけ。中身は、何かの高い特殊な鋼だ。これなら、武器屋のオヤジの目も誤魔化せねぇはずだ」



 

 丈一郎は、ふらつく足取りで街で一番大きな「武具店」へと向かった。



 

 「……いらっしゃい。……なんだ、その泥だらけの半纏は。うちは高級店だぞ。浮浪者は他所へ行け」

 

 恰幅の良い店主が、不快そうに丈一郎を睨みつけた。

 丈一郎は構わず、懐から「銀色の芯」を取り出し、カウンターに無造作に置いた。

 

 「店主さん。これ、買い取ってくれないか。……価値は分かるだろ?」

 

 店主の顔色が、一瞬で変わった。

 彼は慌ててルーペを取り出し、その金属片を凝視する。


 「これ……『歪鋼わいがん』か?! どこで手に入れた? 採掘は数十年前に途絶えたはずだぞ! 伝説の勇者が使い切ったって……」

 

 「さぁな。……いくらで買う。今の俺は腹が減ってて機嫌が悪いんだ。安く叩くなら、隣町のギルドに持っていくが?」

 

 丈一郎は、熊本の古本市場で百戦錬磨の業者相手に磨き上げた「ポーカーフェイス」で、店主を正面から見据えた。

 

 「このサイズなら……五百五十……いや、六百デナリ。これでどうだ」

 

 「六百五十だ。この街で、この純度の鋼を使える職人があんた以外にいないのは、さっきの槍の並びを見れば分かる。職人なら、これがどれだけの宝か分かるだろ」

 

 店主は、ゴクリと唾を飲み込んだ。


 「……分かった。取引だ」

 

 「商談成立だ。……それと、おまけにこの街で一番安くて美味い飯屋を教えろ」

 

 チャリン、チャリン、チャリン。


 丈一郎の革袋に、重みのある銀貨が投げ込まれる。

 

 「フン(やるではないか)」

 

 「……まだだよ。まだ足りない。宿代に、飯代……。日本に帰る手段を探すとなると……」

 

 丈一郎は、デナリの重みを感じながら、街の広場を見渡した。


 (一デナリでゴミを買い、技術で価値を引き出し、多額のデナリに変える。……商売の基本は異世界でも変わらない)

 

 だが、同時に丈一郎の全身には、空間操法を無理に使ったことによる激しい倦怠感が広がっていた。


 一回やるだけで、意識が飛びそうになる。


 この「燃費の悪さ」をどうにかしない限り、異世界での商売は常に命懸けだ。

  丈一郎が次の一歩を踏み出そうとした時、広場の喧騒を切り裂くような、甲高い鐘の音が鳴り響いた。

 

 「……緊急招集だ! 北の街道に、魔物の群れが現れたぞ! 腕に覚えのある冒険者はギルドへ集まれ! 負傷者の手当ができる者もだ!」

 

 人々の波が、一斉に動き出す。


 「ナッ、フッ、ヌッ(行くぞ、丈一郎。落ちた剣、壊れた鎧……お前にとっては宝の山だ)」

 

 「……行きたくない。……行きたくないけど、行かなきゃ金稼ぎができなよな」

 

 丈一郎は、重い腰を叩き、人混みに逆らってそれっぽい奴を追いかけながら、ギルドへと走り出した。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

丈一郎とモモの旅もここまで積み重なり、物語の輪郭がより色濃く、深く動き始めています。


僕自身も二人の行く先をガシガシと追いかけるように執筆しています。

皆様から届く感想や評価、ブックマークは、二人が暗闇を突き進むための眩しい「ガソリン」になります。

「次の更新が楽しみで仕方ない!」と感じていただけるよう、常に全開の熱量で書き進めていきますので、ぜひこれからも二人の旅路の目撃者として、熱い応援をよろしくお願いいたします!

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