第三十四話 聖誕祭(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
ここまで二人の歩みを見守ってくださり、心から感謝いたします。
皆様からいただく感想やブックマークは、二人が未知の道を切り拓くための、何より力強い「ガソリン」になります。
「今日の一話も目が離せない」と思っていただけるよう、全開の熱量でお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で応援していただけると嬉しいです!
「……丈一郎、 この空間はもう、お前の知る『店』ではない!」
モモの鋭い叫びが脳内を震わせる。
俺の右腕に嵌まったバングルは、レジカウンターの真上に現れた「漆黒の亀裂」から伸びる、見えない鎖に繋がれたように固定されている。
俺がどれほど力を込めて腕を引き抜こうとしても、空間そのものが俺の腕を「向こう側」の部品として認識し始めているかのように、びくともしない。
「くっ……この!」
俺が無理やり腕を引くと、バングルのリングから激しい黄金の火花が散り、代わりに店の奥の本棚が「空間の歪み」に呑み込まれてバキバキと音を立てて砕け散った。
いつだったか、あかりが「超不浄だ」と言ってた。潔癖なまでに並べ替えたエロ本のバックナンバーも、俺が血眼になって買い集めた絶版の劇画も、すべてが漆黒の渦の中で無機質な情報の断片、あるいは、ただの色のついた砂へと分解されて吸い込まれていく。
「ああ、見てください、環さん! あれが、あなたが溜め込んできた『澱み』の正体です! 十年分の負の感情が、臨界点を超えて現世を食い破ろうとしている!」
あかりが銀の数珠を両手で引き絞り、亀裂に向かって叩きつける。
彼女の背後には、巨大な千手観音のような幻影が立ち上がり、その無数の掌から放たれる清浄な白銀の光が、漆黒の渦を一時的に押し留めた。
白檀の香りが店内に爆発的に広がり、一瞬だけ、崩壊の音が止む。
だが、その聖なる光さえも、渦の中に潜む「底なしの世知辛さ」に喰われ、じわじわと黄金色の濁りに変色していく。
「清浄な光? 笑わせるな四方! その『光』という名の押し付けがましい秩序こそ、卑弥呼様の楽園においてはただのノイズ、除去されるべきバグに過ぎない!」
教祖が、片足を消失させたまま地面に膝をつき、狂ったように笑いながら予備のタブレットの画面を血の滲む指で叩いていた。
「最適化だ……すべてを最適化してやる! キーマンの黒歴史も、四方の独りよがりな祈りも、この街の澱んだ空気も! 全部まとめて、一つの『物語』へと圧縮し、向こう側の門に叩き込んでやる! そうすれば、真の聖典が完成する!」
教祖が放った黄金の文字列、俺が昔書いた『上司のハゲ頭を物理法則で消滅させたい』という怨嗟の言葉が、あかりの放つ白銀の光と絡み合い、二重螺旋を描いて漆黒の亀裂へと吸い込まれていく。
白と金。聖と俗。
相反する二つの極大の力が、俺のバングルを媒介にして、逃げ場のない「環古書店」という小さな箱の中で混ざり合い、ついに臨界点を超えた。
「あ……」
俺は見た。
漆黒だった亀裂が、突如として眩いばかりの「虹色」に変質するのを。
それは万華鏡を覗き込んだような美しさでありながら、この世のどんな暴力よりも無慈悲で破壊的な輝きだった。
「……不味い。二人の法力が、お前のバングルをキーにして『異界の門』の鍵を完全に回してしまったぞ!」
モモが俺の肩に爪を立て、必死に踏ん張る。
毛を逆立てたその姿は、もはや神使としての威厳に満ちていたが、その足元の床板はすでに虹色の光に溶け、消失しかけていた。
虹色の渦から、巨大な「引力」が発生した。
店内の空気が一気に吸い出され、凄まじい風切り音が鼓膜を打つ。
耳鳴りがひどく、天地の感覚が消失する。
あかりの法衣が激しくなびき、彼女の首にかかっていた「俺の湯呑み」が、ついに重圧に耐えきれずにパリンと砕け散った。
「私の……聖遺物が……!」
「聖遺物じゃねぇ、近所のホムセンで買った百円の湯呑みだよ! 返せって言った時に返してりゃ、こんなことには……!」
俺は叫んだが、その言葉さえも虹色の渦に吸い込まれ、奇妙なエコーを伴って変換されていく。
渦の向こう側から、巨大な「意志」のようなものが手を伸ばしてくるのを感じた。
それは、あかりが求めた救済の神でも、教祖が崇めた電脳の卑弥呼でもない。
もっと原始的で、もっと傲慢な、一つの「新しい世界」そのものが持つ強烈な空腹感。
こちら側のリソースを、丈一郎という「キーマン」ごと喰らい尽くそうとする渇望だ。
「丈一郎さん! 離してはダメです! バングルを……その腕を切り捨ててでも、こちら側へ留まって!」
あかりが必死に手を伸ばす。彼女の顔には、もはや調律師としての冷徹な仮面はなく、一人の人間としての、剥き出しの恐怖と、俺を失うことへの焦燥があった。
その指先が、わずかに俺の左手に触れる。
だが、俺の右腕は、すでに「現世の肉体」ではなくなっていた。
バングルのリングが、現世の物理法則を嘲笑うような超高速で逆回転を始め、俺の肉体と精神を、向こう側の言語……魔力と呼ばれるエネルギーへと変換し始めている。
『明日、仕事に行きたくない』
『あと一万円あれば、あの限定フィギュアが買えたのに』
『神様、俺の人生、どこでボタン掛け違えたんですかね』
俺がこれまで掃き溜めのように積み上げてきた世知辛い独り言のすべてが、虹色の渦の中で巨大なエネルギーの奔流となって、俺を「正しい場所」へと押し流そうとする。
「あかり……、教祖……、お前ら……いい加減にしろよ……!」
俺は、残った左手で、消えかかっている店柱を掴もうとした。
だが、柱自体がすでに飴細工のようにぐにゃりと歪み、俺の指をすり抜けて、光の粒子へと変わっていく。
「フハハ……ハ……。素晴らしい。これだ、これこそが真の『物語の再起動』……。環、お前が先に行け! 私は……私はこの散らばった聖典の残骸をすべてログに残してから、必ず追いかける!」
教祖が、血の涙を流しながら、狂ったような歓喜の表情で叫んでいる。
その時。
虹色の渦が、店という空間のキャパシティを完全に超え、環古書店の建屋そのものを内側から爆発させるかのように膨張した。
「……決まりだ。運命の歯車が、一回転したぞ、丈一郎! 腹を括れ!」
モモが、俺の背中に向かって全力の頭突き
土地神としての重みを乗せた最後の一撃を食らわせた。
「うわあああああああ!」
俺の身体は、弾丸のような速さで虹色の中心へと射出された。
あかりの絶叫が遠ざかる。
教祖の狂笑がノイズに消える。
そして、崩れ去る環古書店の看板が、最後に視界の隅で砕け散った。
俺の意識は、加速する虹色のトンネルの中で、ただ一点の「消えない世知辛さ」だけを抱えて、未踏の領域へと突き進んでいった。
視界が、白と黒の混濁に塗り潰された。
環古書店の、あの埃っぽくて、どこか安らげる「現世」の匂いが、猛烈な引力によって一瞬で遠ざかっていく。
俺の身体は、もはや自分の意思では一ミリも動かなかった。
右腕のバングルが、異世界の重力と無理やり結びつけられた「黄金の錨」となり、俺の魂ごと漆黒の渦の深淵へと引き摺り込んでいく。
加速する虹色のトンネルの中で、俺の「世知辛い人生」が、まるで古いフィルムの逆再生のように脳裏を駆け巡った。
必死に切り詰めて溜めた、端数ばかりの貯金。
九重の爺さんに、有無を言わさず押し付けられた空間操法の真髄。
四方あかりに「不浄だ」と言われ、勝手に略奪された愛用の湯呑み。
教祖によって街中にバラ撒かれた、俺の痛々しい若気の至りの数々。
それらすべてが、向こう側の世界に支払う「入場料」として、バングルのリングに吸い込まれ、激しい黄金の火花へと変換されていく。
俺の「日常」という名の皮が、一枚ずつ剥がされていくような、形容しがたい喪失感が全身を貫いた。
「丈一郎!!」
あかりの叫び声が、水底で聞く音のようにくぐもって響いた。
彼女が伸ばした指先が、俺の袖をかすめ、虚しく空を切る。
その隣で、足を失い地面に這いつくばった教祖が、自らが招いた破滅の光景に呆然と口を開けていた。
彼の周囲に舞っていた黄金の文字列も、今はただの燃えカスとなって、崩壊する店内の床へと降り積もっている。
だが、俺が完全に「無」の闇に飲まれる直前、首筋に強烈な、そして確かな「重み」を感じた。
「……ったく。世話の焼ける飼い主だ。独りで放り出せば、一分と持たずに魂まで買い叩かれるのが目に見えておる」
モモだ。
いつの間にか、俺の肩に鋭い爪を立ててしがみついていた。その黄金の瞳は、吹き荒れる次元の嵐の中でも、不遜な輝きを一切失っていない。
「モモ……お前、ついてくるのかよ……!」
「勘違いするな。お前のバングルが、我が聖地のエネルギーを勝手に道連れにしていったのだ。利息分まで含めて、きっちり回収せねばならん。それに……この先、お前一人では『帳簿』も付けられまい? 向こうの世界の理を読み解く『目』が必要だろう」
モモの力強い声が、俺の脳内に響いた。
それは絶望的な孤独感に苛まれていた俺にとって、最高に世知辛く、そして最高に心強い真言だった。
次の瞬間、俺を包んでいた空間が猛烈な勢いで収束し、パチン、と電球が切れるような音と共に、環古書店の風景は、熊本の街並みは、俺が三十数年過ごしてきた「地球」という星のすべては、俺の視界から完全に消失した。
俺の『黒歴史』が、十年前の俺の『泣き言』が、黄金のバングルにすべて吸い込まれ、それが巨大な推力へと変わる。
『世界、一回再起動しないかな』
その、かつて俺がキーボードで叩き出した無責任な一節が、最後の一片となってバングルのリングに嵌まり込んだ。
その瞬間、俺と一匹の猫は、未知の光の中へと、弾丸のように弾け飛んだ。
同じ時刻。
熊本県、人里離れた深い山の奥底。
静寂を切り裂くのは、リズミカルに響く鉄槌の音だけだった。
火花の舞う薄暗い鍛治場の中で、一人の老人が黙々と鉄を打っていた。
九重。
丈一郎に「環家伝来空間操法の真髄」を背負わせた、全ての元凶とも呼べる老人だ。
老人は、打っていた鉄を水槽へと突っ込み、立ち上がる激しい水蒸気の中に目を細めた。
ふと、彼は作業を止め、天を仰ぐ。
鍛治場の外では、五月の爽やかなはずの夜空が、一瞬だけ異様な黄金色の震動に震えていた。
遠くの山々が、その光を受けて不自然な影を落としている。
「……ほう。ようやく、皮が剥けたか」
九重は、煤けた手で白く長い顎髭を撫で、満足げに口角を吊り上げた。
その瞳には、愛弟子の受難を愉しむような悪戯っぽさと、その先に待ち受ける運命をすべて見通しているような、底知れない、神域に近い光が宿っている。
彼は壁に立てかけられた、数多の神剣を打ち出してきたであろう古い金槌を手に取ると、再び真っ赤に熱せられた鉄へと向き直った。
「現世の理はちと、あの馬鹿には狭すぎたようだな。……精々、向こうの連中に『世知辛さ』ってやつを、魂の底から教えてやってこい」
九重はニヤリと、獲物を見つけた猛禽のような、鋭くも温かい笑みを浮かべ、再び力強く鉄槌を振り下ろした。
その一打は、次元を超えて丈一郎の背中を押し出すかのように、山中に響き渡った。
「……行ってこい、丈一郎。お前の物語は、ここからが本番だ」
※プロローグ※
環古書店の世知辛き黄金〜バングル・ビート 編
完
※本編※
環古書店の世知辛き黄金
開幕
特別編 39円
最果ての荒野。
乾いた風が吹き抜ける音だけが響くその場所に、およそファンタジーとは無縁の「ヨレヨレの半纏」を羽織った男が、泥を舐めるように突っ伏していた。
「……あー、腰が。腰が逝ったわこれ……」
環 丈一郎(40)は、顔を上げた。
視界に広がるのは、熊本の山奥の瑞々しい緑ではない。
赤茶けた大地と、空を流れる異常なほど巨大な紫色の雲。
「生きてるか、丈一郎」
肩の上で、三毛猫のモモが欠伸をしながら言い放つ。
その声は相変わらず不遜だが、今はどこか「翻訳機」のような奇妙な響きを帯びていた。
「モモ、ここどこだ? 」
「知らん。だが、お前の故郷よりはるかに『魔』が濃いな。……ナッ(飯だ)」
「早ぇよ! 飛ばされて1分でメシの催促か! こっちはな、異界に送られて所持金これだけなんだぞ!」
丈一郎が泥まみれのポケットから取り出したのは、10円玉が3枚、5円玉が1枚、1円玉が4枚。
「合計、39円……。サンキューってか!」
震える手で小銭を見つめる丈一郎。
だが、嘆いている暇はなかった。荒野の地平から、砂煙を上げて「それ」が迫っていたからだ。
体長3メートル。全身が岩のような鱗で覆われた巨大なトカゲみたいなやつ。
その眼灯りは、明らかに目の前の「半纏姿の獲物」を、エサとして認識している。
「……おいモモ。あいつ、妖怪か何か?」
「……泥臭そうだな。良くわからん」
「とりあえず……」
丈一郎が立ち上がる。
腕の黄金のバングルは、真鍮のようにくすんだまま。
以前のような、数千のリングを操る全盛期の輝きはない。
だが。
丈一郎は、目の前の空間をじっと見つめた。
空気が揺らいで見える。
いや、空気の外側にある「空間」が、ザラついた牛革のような手触りで指先に伝わってきた。
「ん?いつもと違う……」
丈一郎が右手を前に出し、虚空を「掴む」。
ガリ、と嫌な音が脳内で響く。
空間を強引に引き寄せる。
それは物理的な糸を引くというより、重厚なキャンバスを力任せにたわませるような感覚だ。
ドォン!
トカゲが飛びかかろうとした瞬間、その足元の「地面」が数センチだけ、右へ強引に縫い合わされた。
「ギャッ!?」
踏み出すはずの地面がズレたトカゲは、無様に横転する。
そこへ、丈一郎は落ちていた「尖った石」に狙いを定めた。
石に触れるのではない。
石を包み込む「空間」を、拳の中に無理やり捻じ込むように「握り締めた」。
「ミ、リ……」
と、何もないはずの空間が、強すぎる握力で絞り上げられた雑巾のように軋む。
「……『環家伝来空間操法』。……ま、今の俺にはこれで精一杯だ」
石を固定する空間を「支点」に、丈一郎は自身の体を独楽のように旋回させる。
掴んだ空間と己の腕が、目に見えない鋼鉄の棒で繋がれたかのような剛性。
限界まで加速した遠心力が、握りしめた拳を弾き飛ばす。
一気に「解放」された石は、真空を切り裂くような高音を響かせ、トカゲの眉間に突き刺さった。
「ギャゥ」
荒い息を吐きながら、丈一郎は激しい吐き気と筋肉痛に顔を歪めた。
「……ゲホッ、……あー、気持ち悪ぃ。世界が薄っぺらく見えやがる……」
視界の端で、世界の輪郭が剥がれ落ちた「書き割り」のように見える。
これが能力の代償。
日常という偽物の皮を剥ぐ感触。
「……決めたぞ、モモ。俺はここで、古本屋をやる」
「ナッ(この世界でか?)」
「生きるにも金稼がないと、やってられねえからな……本、あるかな?……ここ」
丈一郎は、奪ったトカゲの死骸を引きずりながら、遠くに見える町らしき影へと歩き出した。
異世界での、環古書店・異世界支店の開店初日。
手持ちは39円。
「とりあえず……あのトカゲの肉、売れるかもしれないから、高く買ってくれる奴を探すぞ。商売の基本は、仕入れ値ゼロからだ」
……おいおい、ちょっと待ってくれ。
『行ってこい』じゃないんだよ、爺さん。
……っていうか、おい。
まだ『プロローグ』だったのかよ?
……ったく。
俺の人生、ガムテープどころか、もう日本円すら通用しねぇ予感しかしないんだが。




