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第三十三話 聖誕祭(前編)

 平和なんてものは、いつだって薄氷の上に成り立っている。

 俺はそんな当たり前のことを考えていた。

 

 でも、あの時、俺の恥部を燃料にしてこじ開けられた世界の「ガタ」は、モモの真言をもってしても、完全には塞がってはいなかった。

 

 嫌な予感がする。


 降り積もった古本の埃が、嵐の前の静けさに震えている。

 神様、もし見てるなら、せめて今夜の残務整理が終わるまで、この壊れかけの世界を繋ぎ止めておいてくれ。


 その日の夕刻、環古書店の空気は、まるで高圧電流が走っているかのように張り詰めていた。


 俺は、ガムテープで補強された引き戸の建付けを何度も確認し、それから力なくレジカウンターに突っ伏した。

 視界の端では、モモが「聖水」を啜るのをやめ、耳をぴんと立てて店の入り口を睨みつけている。


 その黄金の瞳には、現世の猫としての愛嬌など微塵も残っていなかった。


 「ナッ(……来るぞ)」


 モモが低く喉を鳴らした直後、建付けの悪いはずの引き戸が、音もなく横に滑った。


 「環さん。……あら、今日は一段と、店内の『不協和音』が激しいですね。まるで、世界そのものが悲鳴を上げているような……」


 現れたのは、四方あかりだ。


 彼女は、奪っていった俺の湯呑みを、あろうことか「首から下げる数珠」の装飾として改造し、神々しい布で包んで持ち歩いていた。

 彼女が一歩踏み込むたびに、店内の澱んだ空気が白く浄化され、鼻をつく白檀の香りが充満していく。


 だが、今日の彼女の瞳は、いつもの「略奪者の熱」以上に、鋭く、狂気的な警戒心に満ちていた。


 その指先には、常に銀の数珠が絡みつき、微かな音を立てて空間を刻んでいる。


 「あかり。……悪いが、今日は休業だ。これ以上、お前の『浄化』を食らったら、店が消えちまう」


 「いいえ、環さん。私は調律師として、この場所に『致命的な欠陥』が生じているのを感じます。下卑た方法で最適化しようとする、吐き気を催すような執着の再来を……」


 あかりが数珠をジャラリと鳴らし、店内の「汚れ」を無理やり一つの点に集約しようとした、その時だった。


 店の外、商店街の街灯が一斉にショートし、火花を散らした。


 それと同時に、窓ガラスが外側から「黄金の文字列」によって塗り潰されていく。


 「フハハハハ! 聖典の続きは、まだ書き終えていないのだ! キーマンの魂に刻まれた『卑弥呼様への愛』は、今この瞬間も、次元の壁を穿つための純粋な熱源として脈打っている!」


 バリン、という景気のいい音を立てて、あかりが張り直していたはずの結界が、電子的な衝撃波によって粉砕された。

 現れたのは、亀裂の入ったタブレットを狂ったようにスワイプし、周囲の空気を直接「書き換えて」いく数門教祖だ。


 「……お前ら、少しは俺のプライバシーを尊重しろと言ったはずだ!」


 俺は叫びながら、左腕のバングルを構えた。

 

 「あら、教祖様ではないですか、神聖なる沈黙を情報の羅列に貶める汚らわしい男。……環さんの『汚れ』は、私の聖域でこそ輝くもの。あなたの薄っぺらなシステムには、一滴たりとも渡しません」


 あかりの周囲で、幾重もの魔方陣が展開される。彼女が放つ「静寂の力」が、教祖の放つ「情報の濁流」と、狭い店内で正面から衝突した。


 白檀の香りと、高価な香水の匂い。


 清浄なる祈りと、歪んだ最適化。


 二つの『最強』が、俺という世知辛い日常を土俵にして、無慈悲な綱引きを始める。

 

 「汚らわしい? 数門の一員であるお前が、教祖である私に汚らわしいと?私は、この男が十年前、孤独の中で綴った『世界、一回再起動しないかな』という切なる祈りを、現実に反映させているだけだ! 四方よ。貴様の古臭い『清浄』で、この溢れ出す真実を消せると思っているのか!」


 教祖がタブレットを横に薙ぐ。


 瞬間、店内に浮遊していた埃が、俺がかつて書き殴った残滓の『卑弥呼様マジ尊い』という黄金の文字へと結晶化し、あかりの展開した結界に体当たりを繰り返す。


 「くっ……! なんという不純な熱量……! 環さん、あなたの抱えるこの『執着』、あまりにも重すぎて、私の法力でも調律が追いつきません!」


 「俺の執着じゃねぇ、若気の至りだと言ってるだろ! 頼むから二人とも、よそでやってくれ!」


 俺はバングルのリングを最大加速させ、黄金の障壁を張って無理やり二人を分け隔てようとした。


 だが、俺が力を込めれば込めるほど、バングルは二人の法力を吸収し、制御不能な唸り声を上げ始める。


 黄金色のノイズと、白銀の閃光。

 

 互いの術式が食らい合い、相殺し、エネルギーが逃げ場を失って店内の空間を歪ませていく。

 本棚の本が、あるものは真っ白に浄化されて消え、あるものは教祖の言葉を代弁するように「尊い」という文字に書き換えられて弾けた。




 「丈一郎。もはや言葉の通じる段階は過ぎたぞ。この場所の『理』が、限界を超えた。……器が、耐えきれずに裂ける」




 モモが、俺の肩に爪を立てて強く蹴り、宙に舞った。


 その瞬間、店の中央、レジカウンターがあったはずの空間が、パキリと乾いた音を立てた。

 

 それは、目に見える破壊ではなかった。

 空気にヒビが入ったのだ。

 

 あかりの「清浄」が空間を削り、教祖の「最適化」が空間を歪め、俺のバングルがその両端を無理やり繋ぎ止めようとした結果。

 

 世界の皮が、耐えきれずに剥がれ落ちる。


 「な……んだ、これ……。俺の店が……俺の日常が……!」


 俺の目の前で、現実が「剥離」していく。


 崩れゆく空間の向こう側から、この世のものとは思えない不気味な風が吹き抜け、あかりの白檀の香りを一瞬で掻き消した。


 空気に「亀裂」が入る音を、俺は生涯忘れないだろう。

 それは古い羊皮紙が裂けるような、あるいは凍り付いた湖面が重戦車に踏み抜かれたような、絶望的な破壊音だった。


 レジカウンターの上、ちょうどモモが昼寝をしていたはずの虚空に、細い、だが決定的な漆黒の線が走る。

 そこから溢れ出したのは、あかりの放つ神聖な冷気でも、教祖の放つ狂信的な熱量でもなかった。


 ただ、ただ重い。


 胃の腑を直接掴まれ、地面へと引き摺り込まれるような、異質な重力。


 「な……んだ、これは!? 卑弥呼様の楽園は、もっと輝かしく、黄金に満ちた場所のはず! なぜこれほどまでに不浄な『重圧』が溢れ出すのだ!」


 教祖が初めてその声を震わせた。


 彼の手元のタブレットは、過剰な負荷に耐えきれず、画面が真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされている。

 店内に舞っていた『尊い』の文字列は、その黒い亀裂に吸い込まれた瞬間、無惨に捻じ切られ、ただの無機質な記号へと分解されて消えた。


 「調律が……不可能です。空間の旋律そのものが、存在しない音階で上書きされている……。環さん! 離れて! 」


 あかりの絶叫が響く。


 彼女が展開していた幾重もの魔方陣は、漆黒の風に吹かれる蝋燭の火のように、次々と吹き消されていった。

 彼女が大切に首から下げていた、俺の「奪われた湯呑み」が、その重圧に呼応してパキリと小さな音を立ててひび割れる。


 「離れろって言われても、足が動かねぇんだよ!」


 俺はバングルを嵌めた右腕を盾にするように構えたが、リングは悲鳴のような高音を奏でたまま、制御を完全に拒絶していた。

 バングルから放たれる黄金の光が、漆黒の亀裂と触れ合うたびに、店内の什器が「存在の形」を保てなくなっていく。

 

 俺が昨日、半日かけて修繕した『明治時代を生きる軟派術』が、一瞬で砂のように風化した。


 逆に、ただのボロ布だった雑巾が、見たこともない硬質の鉱物へと変質し、床を突き破って沈んでいく。




 「丈一郎。これはお前の蒔いた種だ。お前の『黒歴史』という名の重りが、あ奴らの余計な法力で過加熱され、ついにこの世界の底を抜きおった」




 モモの声は、もはや重低音の警鐘だった。


 店の天井が、ゆっくりと、だが確実に「内側」へと向かって巻き取られていく。

 屋根がなくなったのではない。


 そこにあるはずの「空間」という概念が、別の何かに書き換えられて消滅しているのだ。


 「モモ! どうにかしろ! お前、土地神なんだろ!? この店を守るのが仕事じゃないのかよ!」




 「我はこの土地を繋ぎ止めることはできるが、剥がれた皮の向こう側までは知らん。……来るぞ。向こう側の『法』が、この場所を侵食し始める」




 モモがそう言った瞬間、黒い亀裂が大きく「口」を開いた。

 

 どくん、と。


 世界が脈動した。


 亀裂の奥から、数多の「目」のような光が俺たちを見つめている。

 それは意識を持った怪物ではない。


 もっと巨大な、一つの「世界」という単位が、俺の古本屋という小さな穴を通じて、こちら側を覗き込んでいるのだ。


 「フ、フハハ……。見ろ! これが、これこそが真の最適化! 現世という名のバグを排除し、完全なる物語へと移行する聖域への扉だ!」


 教祖が狂ったように笑い、亀裂に向かって一歩踏み出した。

 だが、その瞬間、彼の法衣の裾が漆黒の風に触れた。

 

 「……え?」


 教祖の足元が、一瞬で「消失」した。


 比喩ではない。


 彼の仕立ての良い靴も、鍛えられた足先も、そこに「在った」という事実ごと、消しゴムで消されたように無くなったのだ。


 「ぎ、ぎあああああああ!!」


 教祖の悲鳴が、「音の遅延」を伴って店内に響き渡る。


 あかりが反射的に数珠を投げ、教祖の胸ぐらを強引に引き戻したが、彼が手にしていたタブレットは無情にも漆黒の渦へと吸い込まれていった。


 「数門の愚か者が……! 扉を開けた代償は、あなたの安い命では足りませんよ!」


 あかりの顔からも、余裕が完全に消え失せていた。

 

 店内の空気が、急激に薄くなっていく。


 俺の右腕のバングルが、亀裂から伸びる「目に見えない触手」と繋がっているのを感じた。


 俺の書いた。


 『世界、一回再起動しないかな』


 という、十年前のあの無責任な言葉が、今、最強のログインパスワードとして機能し、向こう側の世界をこちらへ引き寄せている。


 「俺か?俺のせいなのかよ……」


 バングルのリングが、これまでにない速度で逆回転を始めた。

 

 俺の「世知辛い日常」を構成していたすべての要素である、ローンの悩み、腰の痛み、猫の餌代、古びた本の匂い。

 それらが一つずつ、黄金の粒子となって漆黒の渦へと捧げられていく。




 「抗うな、丈一郎。もはや現世の理では、この穴を塞げぬ。……お前の『重み』が足りぬなら、向こう側の重みを喰らって、バランスを取るしか道はない」


 

 

 現実が、裏返る。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

丈一郎とモモの旅もここまで積み重なり、物語の輪郭がより色濃く、深く動き始めています。


僕自身も二人の行く先をガシガシと追いかけるように執筆しています。

皆様から届く感想や評価、ブックマークは、二人が暗闇を突き進むための眩しい「ガソリン」になります。

「次の更新が楽しみで仕方ない!」と感じていただけるよう、常に全開の熱量で書き進めていきますので、ぜひこれからも二人の旅路の目撃者として、熱い応援をよろしくお願いいたします!

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