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第三十二話 不器用な指先(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。

ここまで二人の歩みを見守ってくださり、心から感謝いたします。


皆様からいただく感想やブックマークは、二人が未知の道を切り拓くための、何より力強い「ガソリン」になります。

「今日の一話も目が離せない」と思っていただけるよう、全開の熱量でお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で応援していただけると嬉しいです!


 日記の中ほどを過ぎ、核心へと近づいたその時だった。


 それまで「静かな未練」として日記を包んでいた空間の淀みが、前触れもなく、猛烈な拒絶の波動へと変質した。


 (……なんだ、この圧は!? 空間が……歪んでるんじゃない、『怒って』やがる!)


 指先を通じて脳内に逆流してきたのは、静かな死の間際の情景ではなかった。

 それは、自由を奪われ、光を失い、それでもなお「死にたくない、まだここにいたい」と、世界の縁にしがみつく人間の、剥き出しで醜悪なまでの生存本能。


 水濡れで固まった日記の最奥部で、夫が息を引き取る直前に感じたであろう凄絶な「恐怖」が、残留思念として結晶化していた。

 それはもはや思い出などという綺麗な言葉で語れるものではない。


 出口を失い、数週間のあいだ日記の中に閉じ込められていた、一種の呪いに近い負の質量だ。


 俺が最後の数ページに竹べらを差し込もうとした瞬間、日記帳を起点に空間が物理的に爆ぜた。


 「パキィィィィィン!」


 という、厚い氷が割れるような硬質な音が店内に響き渡る。

 それと同時に、俺の右腕に、数千本の赤熱した針で同時に深々と刺されたような凄絶な激痛が走った。


 「ぐ、あ、ああああああッ!!」


 あまりの苦痛に膝が折れかけ、日記を離しそうになる。

 だが、俺は歯が砕けるほど食いしばり、左手で無理やり右腕を抑え込んだ。


 今、ここで手を離せば、暴走した空間の反動圧によって日記帳は内側から粉々に粉砕される。


 そうなれば、老婦人が大切に抱えてきた夫の「生」の欠片は、二度と修復不可能なゴミに変わる。

 目の前で、この人の最後の希望を木っ端微塵にするわけにはいかない。


 「ヌッ(丈一郎、手を引け! )」


 カウンターの上で、モモがこれまでにないほど毛を逆立て、神格を帯びた鋭い金色の瞳で俺を叱咤した。


 だが、今の俺には「視えて」いた。


 苦痛の隙間、開かれようとしている最後のページの断層に、ある「色」が覗いているのを。


 それは黒いインクの文字ではない。


 もっと鮮やかで、それでいて今にも消えてしまいそうな、掠れた色彩。


 (……ここで引けるかよ。俺は古本屋だぞ。客が持ってきてくれた本を、一冊も殺したことはねぇんだ!)

 

 俺は操法を逆に「全開」にした。


 精密操作を捨て、咆哮を上げるような力を腕に纏わせる。


 「空間を優しく解く」というこれまでの試みを捨て、俺は、日記を閉じ込めている「夫の絶望」そのものを、力任せに掴み取った。


 「……ざけんなよ。死ぬのが怖いのは当たり前だ。でもな、アンタを待ってる人が、今、目の前にいるんだ! その声まで、凍りつかせてんじゃねぇ……ッ!!」


 俺は右手の指先を鉤爪のように曲げ、日記の芯に居座る「停滞」の特異点を、空間ごと物理的に抉り出した。


 俺の視界は真っ白な閃光に包まれる。

 

 空間が物理的にたわみ、店内の古い本棚が悲鳴を上げて軋む。

 日記に染み込んだ「水」が、俺の操法が放つ熱エネルギーによって瞬時に蒸気となり、カウンターの周囲に白い霧を立ち昇らせた。


 その霧の中に、何百、何千という「言葉にならない、掠れた声」がノイズとなって響き、そして霧散していく。

 脳裏に、夫の最後の数秒間が鮮明にフラッシュバックした。


 震える手で万年筆を握り、愛する人の名前を、伝えられなかった感謝を、一文字でも書き残そうとした。

 

 だが、指が動かない。


 意識が暗転する。その時の、心臓を直接握り潰されるような焦燥と無念。

 俺はその凄まじい感情の濁流を、自分自身の「器」の中に全て受け止め、無理やり噛み砕いた。


 右腕の血管が怒張して浮き上がり、爪の間から血が滲む。

 空間を「力でねじ伏せる」感覚。


 九重の爺さんが言っていた、世界の皮を剥ぐ『暴力』の本質が、一瞬だけ俺の脳を支配した。


 (掴める……。掴めるぞ、この男の最期の数秒間が、この手の中に……!)


 俺は、日記を固着させていた最後の「結び目」を、空間の繊維ごと、生木をへし折るような勢いで引きちぎった。


 刹那。


 凄まじい反動が俺を襲った。


 日記から解き放たれた「凍結されていた時間」の圧力が、津波となって俺の胸元に叩きつけられる。

 俺は数メートル後ろの書架に背中を強打し、崩れ落ちた古本の山に埋もれた。


 その衝撃で視界がチカチカと点滅し、意識が遠のきかける。


 「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」


 立ち込めていた白い霧が、店内の冷えた空気によってゆっくりと引いていく。

 カウンターの上には、あの一冊の日記帳が、無防備に、そしてどこか晴れやかな顔をして静かに横たわっていた。


 先ほどまでの、琥珀のような、あるいは鋼鉄のような硬質感はもうない。

 そこにあるのは、ただの水に濡れて少し表紙が波打った、どこにでもある古い紙の束だ。

 

 そして、その「最後のページ」は、俺の手を借りずとも、小雨混じりの窓から流れ込んだ微かな風に吹かれて、ひらりと……、まるで止まっていた針が動き出すように、独りでに開かれた。


 「……っ、あ……」


 老婦人が、震える声で息を呑んだ。


 俺は朦朧とする意識の中で、そのページを盗み見た。

 そこには、整った文字など書かれていなかった。


 水に濡れて大きく滲み、判別不能になったインクの染みの合間に、主人が死の直前に力を振り絞って描いたのであろう、稚拙だが力強い一輪の花の「絵」と。


 そしてその横に、ただ一言。


 『ありがとう』


 ひどく震え、紙を突き破らんばかりの筆圧で、それだけが記されていた。


 「……これ、は……、ああ……」


 婦人が日記を両手で包み込み、その開かれたページに愛おしそうに頬を寄せた。

 日記からは、もう空間を拒絶する毒々しいトゲは出てこなかった。


 代わりに、そこから溢れ出したのは、長年使い古された万年筆の古い匂いと、春の日溜まりのような、どこか懐かしく温かい「誰かの体温」だった。

 俺は右腕の燃えるような激痛に顔を顰めながら、書架に寄りかかってずるずると座り込んだ。


 バングルは役目を終えたように熱を失い、いつもの鈍い黄金の輝きに戻っている。

 

 (……掴めた、のか。今の……)

 

 俺が最後に掴み取ったのは、空間の座標でも、紙の繊維でもない。

 絶望の底で、誰にも届かずに凍りついていた、たった一言の「想い」だったのかもしれない。


 俺は震える手で自分の顔を覆い、自分の中に残る、あの夫の凄絶な「生」の余韻が静かに消えていくのを、ただじっと待っていた。


 店内に停滞していた、あの重苦しい「死の残滓」は、最後の一ページが開かれた瞬間に霧散していった。

 老婦人は、開かれた日記帳を胸に抱きしめ、しばらくの間、静かに、本当に静かに涙を流していた。


 その涙は、店に来た時の絶望的な色とは違い、ようやく届くべき場所に届いた言葉を受け止めた、安堵と感謝の証のように見えた。


 「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます、店主さん」


 彼女は何度も何度も頭を下げ、丁寧に、しかし今度は確信を持った手つきで風呂敷を包み直した。

 

 主人が最期に遺した『ありがとう』という五文字。


 それは、彼女の中に空いていた暗く冷たい穴を、静かに、しかし完璧に埋めたのだ。

 本という器が持つ、情報以上の価値。それを守り抜けたという感覚が、ようやく俺の強張った神経を少しだけ緩ませてくれた。


 「いいんですよ。俺は……ただ、少しだけ本のページをめくる手伝いをしただけですから。……腕は、ただの使いすぎです。大したことありませんから、気にしないでください」


 俺は書架に寄りかかったまま、引き攣った笑みを浮かべて彼女を見送った。

 実際には、右腕の筋肉は過剰な精密操作の負荷で数箇所断裂し、皮膚には、焼きごてを当てられたような生々しい赤い筋が残っている。


 全身の倦怠感は、巨大な怪異と正面から殴り合った後よりも酷い。

 一人の人間の、それも「感謝」という純粋な思念の質量は、時にどんな呪いよりも重く、鋭く、世界を歪ませるのだと知った。


 老婦人が去った後、店には再び雨音と、カビ臭い古書の匂いが戻ってきた。

 俺は這うようにしてカウンターの内側に戻り、崩れ落ちるように椅子に深く沈み込んだ。


 右腕を少しでも動かそうとすると、指先の周囲の空間が「キシキシ」と軋む音が聞こえる。  

 無理やり出力を抑え込み、針の穴を通すような整律を続けたせいで、俺の操法の回路が一時的に熱暴走を起こしているのだ。


 「ヌ、ナ。(満身創痍とは。呆れるわ)」


 モモが、いつの間にか俺の膝の上に飛び乗ってきた。

 その温かさと、どっしりとした生物特有の重みが、現実の世界の座標を俺に思い出させてくれる。


 生物は掴めない。


 だが、こうして触れることはできる。


 その当たり前の事実に、指先の激痛がわずかに和らぐ気がした。


 「……悪かったな。修行の成果を、こんな内職みたいなことに使っちまって」




 「そうでもない。ただ暴力的に空間を操り、破壊するしか能のない九重の老いぼれよりは、貴様の方が幾分か、空間の『質』を理解し始めておるようだ。……まあ、代金とあのおはぎの代償としては、これでも安すぎるがな)」


 モモはそう言って、老婦人がお礼にと置いていった小さな包みを鼻先で突いた。

 中には、まだ微かな温かさが残る、手作りのおはぎが二つ。


 今日の労働時間は数時間に及び、電気代の支払いにもならない。

 だが、今の俺にとっては、どんな希少な古書よりも、どんな金貨よりも、価値のある報酬に思えた。


 俺は感覚の麻痺した右指で、慎重におはぎを掴み上げようとした。

 だが、指先にわずかでも意識を向けた瞬間、バングルが過敏に反応し、おはぎの周囲の空気が不自然に圧縮された。


 おはぎの餡子が、見えない指で押されたように不格好にへこむ。


 「……あ、危ねぇ。これじゃ食う前におはぎを空間ごと握りつぶしちまうな」


 俺は苦笑いしながら、左手を使って、壊れ物を扱うようにしてその甘味を口に運んだ。


 口いっぱいに広がる、素朴で優しい小豆の甘さ。


 それは、空間を切り裂き、物理法則をねじ曲げるような非日常の力とは対極にある、泥臭くて、温かくて、愛おしい、この現世の味だった。


 外の雨は、いつの間にか上がっていた。


 雲の切れ間から差し込んだ僅かな光が、埃の舞う店内を白く、美しく照らし出す。

 俺はボロボロになった右腕をさすりながら、明日もまた、この世知辛い日常を守り、誰かの止まった時間を動かすためにシャッターを開けることを、静かに心に決めていた。



 結局、あの日のおはぎ以降、一週間くらいは右指の加減が全く効きませんでした。

 おかげで、大事な売り物の値札を書こうとしたら、ペンを握る指先が勝手に紙を貫通してカウンターの木面に直接『五〇〇円』という消えない刻印を刻んでしまう始末。


 ……想いを掴むのは結構だが、それで商売道具を壊してちゃ世話ねぇよ。

 神様だか修行だか知らねぇが、俺の日常に、もう少しだけ「手加減」ってやつを教えてほしいもんだよ、全く。

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