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第三十一話 不器用な指先(前編)

 右腕の痺れが、ようやく落ち着いてきた。


 だが、相変わらず加減が難しい。

 今朝も、寝ぼけて目覚まし時計を止めようとしたら、無意識に指先が空間の繊維を引っ掛けてしまい、時計が壁に吹っ飛んでいった。


 九重ここのえの爺さんに叩き込まれた「掴む」感覚が、脊髄にまで染み付きすぎているのだ。


 今の俺の指先にとって、この世界はもはや安定した物質の集まりじゃない。薄い和紙を幾重にも重ねたような、脆くて、それでいて指を入れればどこまでも裂けてしまいそうな「層」の連続に見える。


 おかげで、繊細な古本の修復作業は、今の俺にとって「生卵を大型のパワーショベルで運ぶ」ような、神経を削る重労働に変わっちまった。


 環古書店の朝は、しっとりとした小雨の匂いと共に始まった。

 アーケードを叩く雨音は、どこか遠い記憶の底を叩く音に似ている。


 湿り気を帯びた空気は、店内に積み上げられた古本の山に染み込み、カビと古いインクが混じり合った、この店特有の「時間の匂い」を濃くしていた。


 俺はカウンターの上で、一冊の江戸時代の写本と格闘していた。

 長年の湿気でボロボロになった和紙の端を、ピンセットで慎重に整える。


 本来なら、指先の重みすら感じさせないほど軽やかに行うべき作業だ。

 だが、今の俺が集中力を高めれば高めるほど、右腕が俺の脈動に呼応して、周囲の空間を「物質」として定義し直そうと暴れ出す。


 「……っ、くそ、またか」


 あと一ミリ。典具帖紙てんぐじょうしという、羽毛よりも軽い補修用の紙を置こうとした瞬間、指先に不必要な「空間の密度」が宿った。


 俺の目には、ピンセットの先が触れる直前の空気が、まるで水面に落ちた油膜のようにぎらついて見えた。

 

 空間が反発し、ピンセットの先が微細に跳ねる。結果、せっかく整えた和紙の繊維が、目に見えない風に煽られたように不自然に折れ曲がった。


 「ナッ(無様だな)」


 カウンターの端、一番日当たりの良い場所(今日は雨だが)を占拠している三毛猫のモモが、薄く開けた金色の瞳で俺を蔑むように見た。

 九重の爺さんにさえ「神様気取り」と言わしめるこの土地神様には、俺の指先がどれほど不器用に世界の「皮」をいじくり回しているのかが、手に取るように分かっているのだろう。


 「……うるせぇ。今の俺の目には、空気の粒子一つ一つが砂利みたいに硬く視えてるんだよ。お前にこの、精密機械を泥水の中でいじってるような感覚が分かるか?」


 「ナ。ヌッ(凡人の言い訳よ。少しは力を『逃がす』ことを覚えぬか)」


 モモは退屈そうに尻尾でカウンターを叩いた。


 その一振りで、周囲の空間の歪みがすっと凪ぐ。神格を持つ者の、あまりに自然な「調律」。 

 それを見るたびに、自分の未熟さが嫌になる。


 言い返そうとしたその時、店の入り口の古い引き戸が、戸車に噛んだ砂を噛むような、遠慮がちな音を立てて開いた。

 

 入ってきたのは、薄紫色のカーディガンを品よく羽織った、一人の老婦人だった。

 年齢は七十をいくつか越えたあたりだろうか。


 丁寧に整えられた銀髪と、長年連れ添ったであろう深い皺が刻まれた穏やかな顔立ち。

 だが、その瞳には、雨の日の空のような、拭いきれない寂寥感が漂っていた。


 婦人の腕には、何層にも風呂敷で包まれた「何か」が、まるで赤ん坊でも抱くような手つきで大切に抱えられている。


 「……あの、こちらが環古書店さんで、よろしいかしら。難しい本の修復をしてくださると伺って……」


 「ええ。一応、古本の修復も承ってますよ。……どうぞ、そこの椅子へ」


 俺は腰の痛みを堪えて立ち上がり、客用の丸椅子を勧めた。

 婦人は「恐縮です」と小さく会釈をして座ると、膝の上で震える手つきで風呂敷を解き始めた。

 

 現れたのは、一冊の古い、焦げ茶色の革装の日記帳だった。


 一見して、それがただの古本ではないことが分かった。

 表紙の革はひどく波打ち、表面には何かが飛び散ったような乾いた水滴の跡が無数に残っている。


 そして、日記の小口(ページの断面)は、まるで一つの木塊のように完全に固着していた。

 だが、それ以上に俺を驚かせたのは、その日記帳から放たれている「気配」だった。


 今の俺の目には、その日記帳の周囲の空間が、不自然に淀んで見えた。

 

 それは怪異のような刺々しい悪意ではない。


 もっと静かで、重たく、それでいて剥き出しの「生の残滓」。

 誰かが死の間際までそのページに注ぎ込み続けた、言葉にならない祈りや執着が、物理的な質量となって日記を包み込んでいるのだ。


 「……主人が、先月亡くなりまして」


 婦人の声は、雨音に溶けてしまいそうなほど静かだった。


 「最後の方は病床で、ずっとこの日記を書いていたんです。何かを、必死に綴っておりました。でも、主人が息を引き取った夜、私が……動揺してしまって、枕元にあった花瓶の水を、この日記の上にこぼしてしまったのです」


 婦人の指先が、日記の傷んだ表紙を愛おしそうになぞる。


 「すぐに乾かしたつもりだったのですが、ページ同士がぴったりとくっついてしまって……。一度、大きな書店の方に相談したのですが、無理に剥がせば紙が破れて、二度と読めなくなると言われてしまいました」


 俺は手袋をはめ、慎重にその日記帳を受け取った。


 受け取った瞬間、ずしりとくる重み。それは革と紙の重量を遥かに超えていた。

 日記に染み込んだ「水」は、主人の最期の時間と、婦人の後悔、その二つの強い感情が混ざり合い、和紙ごと「糊付け」してしまっている。


 軽く指を添えて、空間の感触を探ってみる。

 

 (……あぁ、やっぱりだ)


 日記帳の周囲数ミリの空間が、まるで分厚い琥珀こはくの中に閉じ込められた標本のように硬質化している。

 これは単なる物理的な固着じゃない。


 主人の「まだ伝えたい」という想いと、婦人の「壊してしまった」という拒絶が、この日記を一つの『閉じられた箱』として世界から隔離してしまっているんだ。


 「無理に開けば、和紙の繊維が剥がれるどころか、空間の矛盾で中身ごと霧散しますね。……これは、ただの修復じゃ済みません」


 俺の言葉に、婦人は悲しげな、しかしどこか見透かしたような表情で頷いた。


 「中身を、完璧に読みたいわけではないのです。ただ、あの人が最期に何を思い、どんな空気の中でこれを綴っていたのか……。その欠片だけでも、もう一度だけ感じられたらと。……勝手な願いですわね。壊したのは私なのに」


 婦人の瞳から、一筋の涙が溢れそうになる。


 その瞬間、俺の右腕に走ったのは、暴力的な怪異のそれとは違う、切なくなるほど静かな「脈動」だった。

 それは戦うための熱ではなく、凍りついた空間を解かすための、微かな徴候のように感じられた。


 「……やってみましょう。ただし、普通の竹べらや糊じゃ、この日記の『心』には触れることすらできません。俺のやり方で、やりますよ」


 俺は日記帳を、カウンター中央の特等席……モモが欠伸をしているすぐ横の、最も安定した場所に据えた。


 日記に宿る、夫の強い執着と沈黙。


 そして、今の俺の、空間を掴みすぎてしまう不自由で傲慢な指。

 

 この相反する二つの歪みを、どうやって「調和」させ、閉ざされた時間を開放するか。

 だが、俺は掃除屋である前に、古本屋だ。


 本には、文字情報だけじゃない、その本が呼吸してきた「空気」がある。

 俺は深く息を吐き、右腕の力を意識的に「抜いた」。


 空間を掴むのではない。空間の中に、俺の指を『溶かす』。

 

 古本屋、環丈一郎としての、戦いではない「仕事」が始まろうとしていた。




 日記帳を前に、俺は数分間、ただ静かに呼吸を整えていた。


 カウンターの向こうで、老婦人は祈るような手つきで自分の膝を握りしめ、微動だにせずこちらを見つめている。

 その視線は、俺にではなく、俺の手の中にある「夫の一部」に注がれていた。


 隣では、モモが「さっさと始めろ」と言わぬばかりに、不機嫌そうに尾の先でトントンとカウンターを叩いている。

 俺はまず、右腕を意識の底で「鎮める」ことから始めた。


 九重ここのえの爺さんに叩き込まれた環家伝来空間操法は、空間を無理やり手繰り寄せ、握りつぶす、握って物を無理矢理動かし、飛ばし、空中に固定する「暴力」だ。

 だが、今この日記帳に必要なのは、剥き出しの力ではない。


 水濡れによって固着した和紙の繊維、そこに染み込んだ持ち主の執着、そして閉じ込められたままの「時間」。

 それらを一つずつ解きほぐす、気の遠くなるような精密作業だ。


 (……掴むんじゃない。寄り添うんだ。世界を壊す力じゃなく、世界の隙間に指を差し入れる感覚だ……)


 俺は右手の五指を、日記帳の小口(断面)から数ミリ浮かせた位置に固定した。


 視界が、ゆっくりと変質していく。


 通常の視覚では焦げ茶色の革の塊にしか見えない日記が、操法の解像度を上げるにつれ、無数の「層」の重なりとして浮かび上がってくる。


 水によってふやけ、再び乾くことで物理的に絡み合った繊維の鎖。


 そしてその鎖をさらに強固に締め上げているのは、持ち主である夫の「まだ終わりたくない」という、喉の奥に詰まった声のような思念の塊だった。

 その思念が、空間の密度を異常に高め、日記全体を一つの堅固な「石」に変えてしまっている。


 「……っ!」


 指先をほんのわずか近づけた瞬間、凄絶な「抵抗」が右腕を走った。


 それは先日戦った怪異のような外側からの攻撃ではなく、内側からの、純粋な拒絶に近い悲鳴だった。

 日記帳を包む空間が、俺の指を異物として排斥しようと、目に見えないトゲとなって突き刺してくる。


 今の俺の指先は、空間の機微に敏感になりすぎている。


 ただの静止した空気でさえ、意思を持って押し返してくる刃物のように鋭く感じられた。


 「ヌ、ナ(腰が引けておるぞ、不甲斐ない)」


 モモの冷ややかな声が店内に響く。


 俺は歯を食いしばり、逃げ出そうとする右腕を左手で強引に押さえつけた。

 これを抑え込まなければ、次の瞬間には日記帳ごとカウンターが粉砕されるだろう。


 「……分かってるよ。だが、これ以上力を込めれば、日記ごと空間を砕いちまう。そしたら、この人の思い出も粉々だ。そんな真似、古本屋ができるかよ」


 俺が求めているのは「破壊」ではない。


 俺は意識を右手の指先、その爪の先ほどの一点にまで凝縮させた。

 空間を「面」で掴むのではなく、空間の繊維……その一本を、糸通しをするような精密さで「点」として捉える。


 九重の爺さんが、ハエを空間ごと握りつぶした時の感覚を、逆回しにするんだ。

 握りつぶすのではなく、握られた拳を、指の一本一本から優しく解いていくイメージ。


 俺はバングルの黄金の輝きを、攻撃的な閃光から、凍った湖を溶かす月光のような淡い燐光へと無理やり抑え込んだ。


 「ふ……っ!」


 指先に、冷たい水の中に手を入れたような、不思議な感触が伝わってきた。日記を固着させている「淀んだ空間」に、俺の意思が浸透し始める。

 すると、脳裏に、この日記が置かれていた病室の情景が、断片的な映像となって流れ込んできた。


 消灯時間を過ぎた、薄暗い病室。カチ、カチと規則正しく時を刻む時計の音。


 荒い呼吸。


 そして、紙の上を走るペンの、かすれた音。


 (……あぁ、苦しかったんだな。書きたいことが溢れているのに、指が動かなくて、時間が足りなくて。それでも、この人は最後まで、この『箱』の中に自分の生きた証を詰め込もうとしたんだ)


 それは執着という名の、最も純粋な「希望」の記録だった。


 俺は、その思念の波長に、自分の心拍を同期させていく。

 日記帳の周囲で強固に固まっていた空間の殻が、俺の指先の熱によって、わずかに、本当にわずかに、硬い氷が水に還るように柔らかくなっていく。


 俺は左手に持った、自慢の極薄の竹べらを日記の隙間に差し込んだ。

 だが、物理的な刃を差し込むのではない。


 竹べらが通るための「道」となる空間を、先

回りして俺の指先が切り拓いていくのだ。


 パシッ。


 小さな、しかしこの静かな店内では驚くほど鮮明な、乾いた音が響いた。


 日記帳の小口に、髪の毛一本分ほどの「隙間」が生まれた。


 「あっ……」


 老婦人が、思わず身を乗り出す。


 だが、俺の作業はここからが本当の本番だった。日記の中には、花瓶からこぼれた水だけではなく、夫を見送った時に婦人が流した「涙」も混じっている。

 水濡れで固まった紙を剥がす際、最も恐ろしいのは「裏移り」だ。


 片方のページの文字が、もう片方のページに張り付いて剥がれてしまう。

 今の俺の「視界」には、文字を形作っているインクの粒子一つ一つが、空間の歪みの中に浮いているように見えていた。


 (このインクを、現世に固定する。紙の繊維だけを、外側の層へ引き剥がす……!)


 右腕の筋肉が、過剰な精密操作に耐えかねてミシミシと悲鳴を上げる。

 本来、空間操作は巨大な怪異を滅ぼすためのものであり、こんなミクロン単位の「整律」に使うものではない。


 エンジンの出力を、針の穴を通すような作業に転用しているのだ。


 脳が焼けるような感覚。


 自分の指が、どこまでが自分の肉体で、どこからが空間の延長なのかが分からなくなる。

 俺は、日記の中に閉じ込められた「夫の最期の時間」を、その手で物理的にすくい上げ、現代の空気へと繋ぎ直そうとしていた。


 額から脂汗が滴り、カウンターの木面に落ちて弾ける。


 俺は震える竹べらで、ゆっくりと、祈るような速度で、日記の第一ページを「空間から引き剥がした」。

 ベリリ、という嫌な音はしなかった。代わりに聞こえたのは、静かな、あまりに静かな、絹が擦れるような音。


 「……一ページ目、いきました」


 俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 だが、開かれたページには、まだ文字はなかった。ただ、そこには主人が生前に貼り付けたのであろう、押し花のような、枯れた小さな花の破片が、奇跡的に形を保ったまま現れていた。


 その花が視界に入った瞬間、老婦人の顔色が劇的に変わった。

 彼女の瞳に、止まっていた時間が再び流れ出すような、激しくも温かい感情の光が宿る。


 (……よし。この調子だ。核心の『最後のページ』まで、この空間を維持する)


 だが、日記の奥に進むにつれ、空間の淀みはさらに深く、冷たくなっていった。

 夫の、言葉にできなかった「最期の未練」が、物理的な氷のように日記の芯を凍りつかせている。俺は、もはや熱ささえ感じなくなった右指を、その凍てついた時間の深淵へと、さらに深く突き入れた。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

丈一郎とモモの旅もここまで積み重なり、物語の輪郭がより色濃く、深く動き始めています。


僕自身も二人の行く先をガシガシと追いかけるように執筆しています。

皆様から届く感想や評価、ブックマークは、二人が暗闇を突き進むための眩しい「ガソリン」になります。

「次の更新が楽しみで仕方ない!」と感じていただけるよう、常に全開の熱量で書き進めていきますので、ぜひこれからも二人の旅路の目撃者として、熱い応援をよろしくお願いいたします!


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