第三十話 生けるもの(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
皆様からいただく感想やブックマークは、二人が困難を乗り越え、より遠くへ進むための最高の「ガソリン」になります。
「この先、一体どうなるんだ!?」と手に汗握る展開をお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で見守っていただけると嬉しいです!
黄金のバングルが、摩擦熱と空間の摩擦によって「キィィィィィン!」と、鼓膜を物理的に抉るような高周波を上げた。
俺の右腕の指先が捉えたのは、男の「肉」ではない。
男が自分をこの現世に繋ぎ止めるために、周囲から無理やり手繰り寄せていた「歪んだ空間の継ぎ目」そのものだ。
その手応えは、生易しいものではなかった。
まるでもの凄く重い、濡れた厚手の牛革を素手で引き千切るような、あるいは固まりかけたアスファルトを力任せに剥がし取るような、指の関節が一つずつ砕けるのではないかと思えるほどの重厚で粘り気のある抵抗が、右腕を伝って全身の骨に響く。
「……ッ、が、ああああああッ!!」
生物を掴もうとした際の「拒絶反応」は、依然として俺の神経を内側から焼き続けていた。脳内に逆流してくる数万の罵詈雑言が、俺の自我を冷たい泥水のように汚染していく。
視界が点滅し、一瞬、自分の右腕が「文字の塊」に変わる錯覚に陥る。
だが、俺はその「汚染」すらも、逆にバングルを駆動させるための歪な燃料へと無理やり叩き込んだ。
左腕に絡みついた黄金の環が、三次元の物理法則を無視した速度で回転を始める。
回転の遠心力が周囲の空気を薄い膜のように削り取り、火花が火球となって店内の暗がりを照らした。
男の顔……蠢く無数の文字の渦が、初めて恐怖に歪んだ。
俺は、男がまとう漆黒のレインコートごと、その背後にある「世界の断面」を鷲掴みにしたまま離さない。
指先を空間の繊維に深く突き立て、座標という名の目に見えない糸を全力で手繰り寄せる。
「逃がす、か……ッ!!」
俺は腰を低く落とし、古武術の基礎歩法、「縮地」に近い、空間の隙間を滑るような動きで一歩踏み込んだ。
空中に固定した三つの環を、見えない「ボルト」のように空間に打ち込み、それを支点にして体を独楽のように反転させる。
慣性を無視した真横への超高速移動。
怪異の反応速度を上回るその軌道で、俺は男の懐の、最も無防備な死角へと潜り込んだ。
狙うのは、男の胸の中央。
最も文字が密集し、男という怪異の「核」となっている、歪みの特異点だ。
俺は空間を掴んだままの右拳を、その一点へと、魂を削り出すような勢いで叩きつけた。
打撃の瞬間、響いたのは肉を打つ音ではなかった。
巨大なプレス機が厚い鉄板を瞬時に押し潰すような、あるいは真空の容器が外部の気圧でひしゃげるような、「ドォッ」という逃げ場のない重低音が古書店の床を激しく揺らした。
拳に纏わせたリングが、ドリル状に超高速回転しながら男の肉体、文字の集合体を物理的に「掘り進む」。
男を構成していた文字が、堪えきれずに剥がれ落ち、俺が圧縮した空間の特異点へと、吸い込まれるように消えていく。
「……あ……が……あ……消え……たく……ない……嫌だ……」
不協和音の悲鳴が、店内の本棚をガタガタと震わせ、古い本の表紙を次々と弾き飛ばす。
男は逃れようと、文字で形成された長く不気味な触手を、俺の首筋へと鞭のようにしならせて伸ばしてきた。
それに触れられれば、今度こそ俺の存在の境界線が完全に決壊し、俺自身が文字の海に溶かされてしまう。
だが、今の俺には「視えて」いた。
男が動こうとするたびに、周囲がどのようにたわみ、どの一点が「世界の喉笛」すなわち、その空間の最も脆い支点になっているのかが。
俺は左足で、何もない空中の「点」を蹴り上げた。
そこにリングを瞬時に固定し、透明な階段とする。二段、三段。
重力を嘲笑うように跳ね上がり、天井近くまで位置を上げると、黄金の鎖を連結させて巨大な「鐘」の形に成形したバングルを、男の頭上から一気に振り下ろした。
空間を掴む指先が、男の全身を包む輪郭を、ついに完全な射程に捉える。
肉を掴むのではない。
肉が存在するための「容積」そのものを、万力のような力で締め上げるのだ。
バングルが限界を超えた輝きを放ち、白熱した黄金の光が店内を埋め尽くす。
俺の右腕の筋肉が、パチンと不吉な音を立てて数箇所断裂した。
凄絶な激痛が脳を焼き、一瞬意識が飛びかける。だが、それと同時に、俺の指先が、男の存在を規定している「文字の芯」に触れた。
それは、男の心臓にあたる位置に潜んでいた、最も濃く、最も重い「一文字」。
すべての悪意の起点となっているその墨の塊を、空間ごと無理やり引きずり出す。
「……これで、店じまいだッ!!」
俺は渾身の力を込め、その「結び目」を、生木をへし折るような勢いで引きちぎった。
パキィィィィィンッ!!!
耳元で、巨大な氷山が内側から爆発したような、あるいは精巧なジオラマの背景が物理的に崩壊したような、現実離れした硬質な音が響き渡った。
男の巨体が、糸の切れた操り人形のように無様に崩れ落ちる。
全身を維持していた無数の文字が、支えを失った砂の城のように、床へとバラバラにこぼれ落ちていった。
黒いレインコートだけが抜け殻のように床に沈み、その上を、行き場を失った悪意の文字たちが、行き場を失って黒い虫のように這いずり回る。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
俺は膝をつき、激しく肩で息をした。
右腕は自分のものとは思えないほど真っ赤に腫れ上がり、指先一つ動かすのにも、全身を無数の針で刺されるような苦痛が伴う。
バングルは異常な熱を持ったまま、チリチリと微細な、しかしどこか凱歌を上げるような共鳴音を立て続けていた。
「ヌッ、ヌッ(相変わらず、力任せで品のない戦いよ)」
モモが、神格の余韻を残した鋭い金色の瞳で、床に散らばった「文字の残骸」を見下ろした。
それらは、まだ完全に消滅したわけではない。
放置すれば、再びこの古書店のカビや湿った紙の匂いを苗床にして、新たな怪異へと再構成されるだろう。
俺は震える手で、懐から一枚の、和紙のお守りを取り出した。
環家に代々伝わる、汚れを閉じ込めるための、世知辛い「掃除道具」。
「……モモ。お前の……神気、少しだけ貸してくれ……。これ、今の俺じゃ……封じきれねぇ」
「ナッ(仕方のない男だ)」
モモが俺の肩に飛び乗り、その柔らかく、しかし圧倒的な質量を感じさせる前足を、俺の手首にそっと添えた。
瞬間、和紙の表面に黄金の幾何学模様が浮かび上がり、床を這っていた文字たちが、強力な磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、断末魔のような紙音を立ててお守りの中へと吸い込まれていく。
不気味な罵声の残響が、和紙の中で「カサカサ」という乾いた音に変わり、やがて店内に、元の埃っぽい静寂が訪れた。
手元に残ったのは、真っ黒な墨で塗りつぶされたような、物理的な重量以上の「重さ」を宿した、一枚のお守り。
俺はそれを、店内の小さな仏壇へと、投げ入れるように放り込んだ。
これで、今夜の戦いは、ようやく終わりだ。
だが、立ち上がろうとした俺の膝は、生まれたての小鹿のように無様に震えていた。
右腕の感覚は、今もなお、現実と虚構の狭間で、不気味に揺れ続けている。
静まり返った店内に、焦げ付いた匂いと、俺の肺がひしゃげるような荒い呼吸音だけが停滞していた。
仏壇。
その中へ投げ込まれた和紙のお守りは、今もなお内側から無数の「文字」が逃れようと暴れているのか、箱の壁面を内側から叩くような、コトコトという不気味な乾いた音を立てて震え続けている。
いつもの供養では駄目だ。
俺は、感覚の麻痺した右腕を、まるで見知らぬ他人の荷物でも運ぶようにして引きずり、店の奥にある小さな、しかし煤けた台所へと向かった。
環家の「掃除屋」としての仕事は、怪異を屈服させただけでは終わらない。
むしろ、そこからが本当の意味での「後始末」だ。
この世に無理やり食らいついた異物の残滓を、完全に消滅させ、世界の帳尻を合わせなければならない。
俺は、先祖代々使い古されて黒ずんだ土鍋をコンロに置いた。
そこへ、清めの塩を指三本分、そして地元熊本の辛口の酒をひと回し注ぐ。
これが正式な供養、などという高尚な響きとは程遠い、それはどこか「毒物の廃棄処理」に近い事務的な冷徹さを伴う作業だ。
封じられた和紙を火にかけ、その執着を熱エネルギーへと変換して霧散させる。
いわば、残滓を「デリート」する作業工程である。
「……南無三、とは言わねぇよ。お前らがネットの海で撒き散らした言葉の毒、ここで全部、灰にしてやるからな」
震える指先でマッチを擦り、仏壇から取り出した真っ黒に変色したお守りに火を灯した。
火は、通常の紙が燃えるのとは明らかに異なる、不気味なほど鮮やかな青紫色の炎を上げて一気に燃え上がった。
和紙の中から、何千、何万という人間の罵声や泣き声が、最後の一叫びを上げるようにして「カサカサ」というノイズに混じって響き、黒い煙となって換気扇の奥へと吸い込まれていく。
その煙が完全に消え去るのと同時に、俺の右腕を内側から苛んでいた、あの呪わしいほどの不協和音も、ようやく潮が引くように静まりを見せた。
「……終わったな……」
俺は、土鍋の底に残った、ほんのひと握りの灰を見つめ、深く、長く、肺の底にある淀みをすべて吐き出すようにして息をついた。
灰は、ただのゴミだ。
かつて誰かを死の淵まで追い詰め、匿名性の盾の後ろで肥大化した悪意の集合体も、燃え尽きてしまえば、風に舞うだけの軽い炭素の残骸に過ぎない。
この虚しさこそが、環家の仕事の正体なのだと、改めて痛感する。
俺は、きしむ腰をさすりながら、這うようにして表のカウンターへと戻った。
だが、そこで俺を待ち受けていたのは、精神的な達成感を一瞬で粉砕する「現実」だった。
激闘の最中に弾け飛び、床に散乱した古本たちの無惨な姿。
一冊、また一冊と拾い上げるたびに、俺の心臓は怪異に触れられた時以上の激痛で収縮した。
「……あ、ああ……。絶版の『肥後武士道考』が、表紙から真っ二つじゃねぇか……。これ、補修したところで古書としての価値は三割以下だ。……それに、こっちの明治期の全集も、角が潰れて装丁が死んでる……。今夜の純利益どころか、今月の食費と、下手したら家賃の半分がこの数分で吹き飛んだぞ……」
俺は床に這いつくばり、散らばったページを一枚一枚、愛おしむように拾い集めた。
そこには、空間を物理的に引き裂き、世界の喉笛を掴み取った「掃除屋」の威厳など微塵もなかった。
あるのは、一円、十円の損害に本気で狼狽し、脂汗を流しながら頭を抱える四十代の、寂れた古本屋の亭主の無様な姿だけだ。
「ナッ(器の小さな男だ)」
モモが、いつの間にか俺の使い古された椅子の上で香箱座りをしていた。
その瞳は、先ほどまでの土地神としての峻烈な輝きをすっかり隠し、ただの「飯を催促する猫」のそれに戻っている。
「……モモ。お前には分からねぇんだよ。俺はこの破れた本と、電気代の督促状を交互に眺めながら、飢えを凌がなきゃならねぇんだ。……あぁ、右腕の筋肉が笑ってやがる」
俺は、カウンターに突っ伏した。
九重の爺さんが説いていた「世界の理」だの「空間の質」だのという高尚な理屈よりも、今の俺にとっては、破れた和紙を繋ぐための特製糊の代金や、明日の朝食を彩るはずだった少し高いカップ麺の在庫の方が、よほど切実で、重たく、この世の真理に近い気がしていた。
外では、明け方の商店街に新聞配達のバイクが走る乾いた音が響き始めている。
新しい一日が、俺の世知辛い家計事情やボロボロの肉体を置き去りにして、容赦なく、そして平然とやってくる。
俺は震える手で、備え付けのガムテープを手に取った。
まずは壁の穴を仮止めし、破れた本の背表紙を慎重に繋ぎ合わせる。
「……よし。……とりあえず、開店準備だ。死んでる暇も、落ち込んでる暇もねぇからな」
俺はヨレヨレの半纏を羽織り直し、ミシミシと鳴る膝を叩いて立ち上がった。
左腕のバングルは、鈍い黄金の輝きを湛えたまま、俺の熱を持った皮膚に冷たく、重く馴染んでいる。
「俺には生物は掴めない」。
その決定的な不自由さを改めて思い知ったことで、皮肉にも俺は、この「不自由で世知辛い日常」を、この手で必死に繋ぎ止めていく覚悟を、昨日よりは少しだけ深めていた。
ガラガラと、錆びついたシャッターを上げる音が朝の冷たい空気に響く。
「いらっしゃい……。あぁ、悪いがまだ準備中だ。……え? その棚の本が気になる? ……あぁ、それは表紙に難があるから、五百円でいいよ」
環古書店の、いつも通りの、一円を笑う者が一円に泣く、泥臭くも愛おしい一日が、また始まった。
結局、あの怪異が脱ぎ捨てた漆黒のレインコート(の成れ果て)は、翌朝にはアスファルトが溶けたような、真っ黒で粘り気のある巨大な塊になって固まっていました。
自治体のゴミ収集に出していいのか、それとも産業廃棄物として特別な処理が必要なのか。
……必死にスマホで「溶けた何か分別」なんて検索してる自分を見てると、世界の危機を救うヒーローなんて職業、絶対に俺には向いてねぇなって、心の底から思うよ。




