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第二十九話 生けるもの(前編)


 腕の感覚が、まだおかしい。


 指先を動かすたびに、空気の層がキシキシと音を立てて軋むのが聞こえる。

 今朝からずっと、自分の右腕が「他人の肉」を無理やり縫い付けたような違和感に支配されている。

 ……あぁ、腰も膝も痛い。


 環古書店の朝は、カビ臭い静寂と、俺の右腕から発せられる微かな振動で始まった。

 店内に差し込む朝日は、埃の粒子を白く照らし出しているが、今の俺の目には、その光の筋さえもが空間という織物に穿たれた「裂け目」のように見えてしまう。


 俺はカウンターの奥で、一冊の古い和綴じ本と向き合っていた。

 江戸時代後期の戯作本だ。経年劣化で脆くなった和紙の繊維を、竹べらで慎重に整える。


本来なら、指先の神経を一点に集中させ、紙の呼吸を読むべき繊細な作業だ。


 だが、今の俺の指先は、集中すればするほど、対象を強引に「掴み」上げ、振り回そうとする荒々しい力に変質してしまう。


 「……っ、危ねぇ」


 意識が指先に通った瞬間、わずかに空気が爆ぜた。


 竹べらで押さえていた和紙の一部が、目に見えない巨大な指で弾かれたかのように、不自然な音を立ててひしゃげ、宙へと跳ね飛ばされた。


 破れたのではない。


 風に煽られたのでもない。


 そこにあったはずの和紙の繊維が、俺の指から漏れ出た操法の余波によって、物理的な質量を持ったまま強引に捻じ曲げられたのだ。

 残されたのは、まるで見えない力で激しく握り潰されたようだった。


 「クソが。加減が効かねぇ……。これじゃ商売にならねぇぞ」


 俺は吐き気を堪えながら、右腕を左手で強く押さえつけた。


 腕の皮膚は、時折、古いテレビの砂嵐のように細かくブレて見える。

 俺という個体が、この安定した世界から剥がれ落ち、外側の虚無へと滑り出そうとするのを、意識が無理やり繋ぎ止めている。


 そんな感覚が四六時中つきまとっていた。


 「なぁ、モモ。さっきから、自分の服の袖を掴もうとするだけで、背骨の髄まで電気が走るような拒絶反応が出る」


 カウンターの隅で、日溜まりを独占している三毛猫が、半眼を開けて俺を冷ややかに見た。

 モモの瞳には、俺の右腕から溢れ出している不格好な「歪み」が、はっきりと見えているのだろう。


 「ヌッ、ナ、ナッ(意味も分からず、ただ力を振り回すからそうなるのだ)」


 モモは欠伸をしながら、退屈そうに尾を揺らした。


 「ナ。ヌ、ナッ(空間とは器だ。今の貴様は、素手で太陽を掴もうとしている羽虫と同じだ)」


 「……いや、ニャーニャー言われても、わかんねぇよ」


 俺は右腕を見つめた。


 九重の爺さんはあの日、一匹のハエを空間ごと握りつぶして見せた。

 だが、あの爺さんと俺との間には、深淵と水たまりほどの差がある。


 試しに、店の隅、古い書架の隙間を這っていた小さな蜘蛛に、意識を向けてみた。

 捕まえるつもりはない。ただ、その蜘蛛が歩いている周囲数ミリの空間を、軽く「固定」しようとしただけだ。


 「……ッ!!?」


 その瞬間、右腕に焼けた鉄棒を突き立てられたような凄絶な激痛が走った。

 心臓が一度停止し、次の瞬間に肋骨を突き破らんばかりの勢いで乱打し始める。


 視界が真っ赤に染まり、耳の奥では「ィィィィィィン」と、脳漿をかき乱すような高周波を上げた。


 それは警告であり、物理的な拒絶反応だった。


 俺の意識が、蜘蛛という「命」の座標に触れた途端、世界というシステムそのものが俺の右腕を排斥しようと暴れ出したのだ。

 脳裏には、自分の右腕が指先からドロドロの黒い液体へと変わり、この世のどこにも存在しない色となって霧散していく幻覚がよぎる。


 「あ、が……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!!」


 俺は床に這いつくばり、激しく悶絶した。


 蜘蛛は、俺の苦悶など知る由もなく、悠々と壁の隙間に消えていった。

 たった一匹の虫の「存在の強度」にさえ、俺の未熟な操法は真っ向から弾き飛ばされた。


 生命を掴むということは、相手の命だけでなく、自分自身の「存在の境界」を物理的に削り取るということに他ならない。

 もし無理に掴もうとすれば、相手を殺す前に、俺の肉体が座標の矛盾に耐えきれず、内側から破裂して消滅するだろう。


 「……ハッ、ハハ……無理だな。今の俺じゃ、生き物は掴めねぇ。……どころか、触れることすら、命がけだ」


 「フンッ」


 モモが鼻で笑ったその時、店の入り口の古い引き戸が、暴力的な音を立てて開いた。

 カビ臭い古書店の空気を一瞬で凍りつかせるような、湿った不快な熱気が流れ込んでくる。


 立っていたのは、全身を黒いレインコートで覆った、異常に背の高い男だった。

 男の顔はフードの影に隠れて見えないが、その隙間から漏れ出す「匂い」だけで、俺の直感が最悪の警報を鳴らした。

 

 腐った肉、古い墨汁、そして何より。

 

 男が立っている周囲の景色が、まるで熱気に晒されたフィルムのように、グズグズに溶けて歪んでいる。

 

 現代寄生型の怪異。


 それも、ただの残留思念や噂の類ではない。誰かの「執着」が肉を持ち、この現世に強引に根を張った、質の悪い『生きた怪異』だ。

 

 「最悪の歪み」が、今、土足で踏み込んできた。


 男が一歩踏み出すたびに、古書店の床板が軋むような乾いた音ではなく、濡れた生肉を厚いゴムで踏みつけるような、不快な粘り気のある重低音が響いた。

 男の着ている漆黒のレインコートからは、どろりとした黒い液体が絶え間なく滴り落ちている。


 それはただの水ではない。


 アスファルトが真夏の日差しで溶け出したような、あるいは誰かのどす黒い悪意が数年かけて液状化したような、形容しがたい「おり」だ。

 それが床に落ちるたび、古書店のカビ臭い空気の中に、鉄錆と腐敗した内臓が混ざったような強烈な悪臭が広がっていく。


 「……何の用だ。お門違いの依頼なら、他を当たってくれ」


 俺は右腕を隠すように半纏の袖を強く握り込み、努めて冷淡な声を絞り出した。

 だが、胃の奥は冷たい氷の塊を無理やり飲み込まされたように収縮し、心臓は早鐘のように肋骨を叩いている。


 男は答えず、ゆっくりと、しかし確実な意志を持ってフードを跳ね上げた。


 そこに「顔」はなかった。


 いや、正確には、数万、数十万という細かな「文字」が、皮膚の下でうごめく無数の蛆虫のように蠢き、目や鼻の形を無理やり模っているだけだった。


 SNSのタイムラインをそのまま肉体に貼り付けたような、現代寄生型怪異の末路。

 誰かの根拠のない誹謗中傷や、匿名性の海に投げ捨てられた底なしの憎悪が、実体を持って固まった「生ける呪い」。


 「……門。……腕……」


 男の喉のあたりから、何十人もの老若男女の声が重なり合ったような、不快な不協和音が漏れ出した。


 その視線、文字の渦が俺の右腕に固定された瞬間、仏壇のバングルが「キィィィィィン!」と、脳漿を直接かき回すような鋭い警告音を上げた。


 先ほど蜘蛛に触れようとした時とは比較にならない、物理的な「排斥」の波動。

 バングルが、目の前の存在を『この世界の異物』としてではなく、『触れてはならない生きた深淵』として認識している証拠だった。




 「丈一郎、下がれ! こやつ、器が既に割れておるぞ。自を維持できぬがゆえに、周囲の空間を喰らって継ぎ接ぎし続けておるのだ!)」




 カウンターの上で、モモがこれまでにないほど毛を逆立て、神格を帯びた鋭い金色の瞳で男を睨みつけた。


 モモの言う通りだった。


 男の指が触れた書架の背表紙が、まるで目に見えないプレス機にかけられたようにミリミリと歪み、そのまま粉々に弾け飛んで男の文字の渦へと吸い込まれていく。

 男は自分という「個」を維持するために、この世界の安定した容積を無差別に食い荒らしている、歩くブラックホールのような存在だった。


 「悪いが、あんたを直す技術は持ち合わせてねぇよ。……大人しく、元の文字の海に帰りな」


 俺は意を決して、カウンター奥の仏壇からバングルを掴み出した。


 それを左腕へ叩きつけるように押し込む。


 その瞬間、腕に食い込むような重圧感と、バングルに刻まれた幾何学模様が熱を帯びて明滅する。

 俺の脈動に応じるように、黄金の表面を火花が走り、眠りから覚醒していく。


 「……っ!」


 カウンターを蹴り、宙を舞う。


 着地の衝撃で、持病の腰痛が灼熱の針となって脊椎を貫いたが、歯を食いしばってそれを黙らせた。


 着地と同時に右腕を突き出す。


 狙うのは男の肉体ではない。

 男が立っている足元の、古びた床板の「座標」だ。


 「ふん!」


 同時に、腕のバングルが過負荷で鳴き声を上げた。

 黄金の環が弾けるように分裂し、空中に三つの光輪となって固定される。


 九重の爺さんから教わった、空間を「重厚な布」として扱う感覚。

 ザラりとした分厚い牛革を引き絞るような、あるいは世界そのものを力ずくで縫い止めるような手応えが指先に伝わる。


 逃がさねぇ。


 俺は一気に男の可動域を奪おうと、指先にさらなる力を込めた。


 だが、その瞬間。


 「……流れる……もの……」


 男の肉体が、まるで熱で溶けたゴムのように崩れ、俺が固定した空間の「縫い目」からズルりと染み出すようにして逃れた。


 それだけではない。


 男の指先から、黒い文字で構成された触手が、まるで生き物の神経系のように伸び、俺の左腕のバングルへ直接触れようと飛び込んできた。


 「っ、しまっ……!」


 咄嗟に腕を引こうとしたが、空間操法の反動で、一瞬だけ筋肉が凍りついたように動かない。

 怪異の、冷たく湿った指先が、俺のバングルを覆う黄金の磁場に、深々と接触した。


 その瞬間、視界が上下左右を失って裏返った。


 「あ、が……あ、ああああああああああああああああああッ!!!」


 凄絶な「逆流」が俺の全身の神経を駆け抜けた。

 生物、それも、強大な執着と殺意を持った「生ける歪み」の波動が、俺の未熟な操法の回路を逆に辿って、俺の脳へ直接流れ込んできたのだ。


 バングルが赤熱し、俺の腕の皮膚をじりじりと焼き焦がす。

 だが、熱さ以上に恐ろしいのは、自分の右腕というパーツの「感覚」が、目の前の怪異の文字の渦と同化し、溶けていく感覚だった。


 境界線が崩れる。


 俺の指先が、俺の意思を離れ、男の肉体の一部、文字の一画として書き換えられていくような、存在の汚染。

 脳内に、数千、数万人の罵詈雑言が、防波堤を壊した濁流のように流し込まれる。


 『死ね』『消えろ』『誰も見ていない』『お前など、最初からいなかった』

 

 言葉の一つ一つが、物理的な質量を伴った鉄礫てつれきとなって、俺の鼓膜を内側から突き破らんばかりに震わせる。

 それは、相手のドロドロとした生の本能と、その奥に潜む底なしの虚無が、自分という器の中に逆流してくるという精神的な凌辱だった。


 「……は、はな……せ……っ! 俺の……腕だ……っ!」


 俺は左手で右腕を掴み、無理やり引き剥がそうとしたが、指先が男のレインコートの表面でズルりと滑る。


 掴めない。


 掴もうとすればするほど、相手の命の熱量が毒となって俺を内側から焼き尽くしていく。

 

 男の「顔」を構成する文字の渦が、歓喜するように激しく回転を速めた。

 男は俺の腕を媒介にして、この世界の「門」そのものを食らい、自分という不安定な怪異をこの現世に完全固定するための「いかり」にしようとしているのだ。



 

 「この阿呆が! 触れられるなと言ったはずだ!」




 モモが鋭い爪を立てて宙を舞い、男の顔面に一撃を見舞った。

 土地神の神格を帯びた一撃が男の文字を一時的に散らすが、男は痛みを感じる様子もなく、即座に新しい文字が傷口を埋めていく。


 モモの影が背後で巨大な獣へと膨らもうとするが、先日、丈一郎の腕を修復するために神気を使い果たしているせいか、その影は陽炎のように弱々しく、すぐに霧散してしまった。


 「……クソ……っ、……命まで、持っていかれて……たまるか……よ……!」


 俺は奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、逆流してくる数万の悪意の囁きに耐えながら、焦熱を放つ右腕をさらに深く、男の懐へと突き入れた。


 生物は掴めない。


 生きているものは、固定できない。

 

 ならば、この男が無理やり繋ぎ合わせ、自分の一部として取り込んでいる「この世界の外側の残滓」を。


 俺は激痛で感覚が消えかけた指先を、男の肉体そのものではなく、男の周囲でドロドロに溶け、男の皮の一部として機能してしまっている「歪んだ空間の断片」へと突き立てた。

 

 古い羊皮紙を、全力で引き裂くような、生々しく重厚な手応え。

 

 「掴……めッ!! 逃がすかよ……ッ!!」


 俺の咆哮と共に、バングルが限界を超えて砕けんばかりの黄金の閃光を放ち、古書店の空気を物理的に「凍結」させた。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

物語の熱量はいかがでしたでしょうか。

ここからはさらに予測不能な展開へと突き進んでいきます。


すでに単行本一冊分を優に超えるストックがありますが、二人の旅の終着点はまだまだ先。

 皆様の感想や評価、ブックマークが、彼らをより遠く、より高くへと走らせるための最高の「ガソリン」になります。

「更新が待ちきれない!」と思っていただけるよう、全開の熱量で書き進めていきます。

ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として応援よろしくお願いいたします!

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