第二十八話 空間を掴む男(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
皆様からいただく感想やブックマークは、二人が困難を乗り越え、より遠くへ進むための最高の「ガソリン」になります。
「この先、一体どうなるんだ!?」と手に汗握る展開をお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で見守っていただけると嬉しいです!
急に俺の右腕を、これまで経験したことのない異様な衝撃が突き抜けた。
「……っ、がはッ!?」
心臓が一度、大きく跳ねた。
腕の血管がまるで意志を持つ飢えた捕食者のように俺の腕を締め上げる。
熱い、などという生温いものではない。
かといって冷たいわけでもない。
温度という概念そのものが消失し、ただ「存在の拒絶」という根源的な恐怖が、指先から肩、そして鎖骨を抜けて背骨の芯へと、冷酷な錐のように突き刺さったのだ。
「あ、ぐ……、あああああッ!」
石畳に膝をつき、俺は自分の右腕を左手で必死に押さえた。
視界が激しく明滅する。
先ほど、爺さんに言われるがままに無理やり「空間を掴んだ」代償が、今になって物理的な質量を伴って押し寄せてきたのだ。
俺の右腕の皮膚が、細かく、不自然に振動している。
実体と虚像の境界線が曖昧になり、俺の腕というパーツが、この三次元の安定した世界から切り離され、どこか遠い異次元へと剥がれ落ちようとしていた。
自分の腕なのに、そこに「ある」という感覚がない。
代わりに、俺の右腕の形をした「虚無」が、周囲の空気を無尽蔵に吸い込み続けているような感覚。
俺の指先がわずかに動くたびに、周囲の景色が陽炎のように歪み、視界の端にある電柱や路地の壁が、まるで液体のようによじれて見えた。
「モ、モモ……助け……っ」
掠れた声で助けを求める。いつの間にか、店の入り口にモモが立っていた。
三毛猫の姿をしたその「土地神様」は、普段の傲慢な態度はどこへやら、金色の瞳をこれまでにないほど鋭く光らせて俺を睨みつけている。
その背中の毛は逆立ち、尾は太く膨らんでいた。
「ナッ、ヌゥ、ナッ(愚か者が。身の程を知れと言ったはずだ)」
「ナ(助けぬ)」
モモは冷たく言い放つと、ふいと背を向けて店の中へ戻ろうとした。
だが、その足取りはいつになく重い。
俺は必死に手を伸ばしたが、床を掴もうとした左手の指先までもが、石畳をすり抜けて地面の下へと沈んでいった。
物理法則が死にかけている。俺が先ほど掴んだのは、空間の繊維などという便利なものではなく、世界の理そのものの「喉笛」だったのだ。
一度その味を覚え、禁忌を犯した肉体は、もう普通の人間という枠組みには収まりきらない。
仏壇にある、バングルから発せられる共鳴音が、次第に「声」のように聞こえ始めた。
それは歴代の環家の人間たちが、空間の狭間に消えていった時の断末魔か、あるいはバングルという「門」の向こう側に蠢く、名もなき異形の囁きか。
耳を塞いでも脳内に直接書き込まれるその音は、俺の精神を確実に削り取っていく。
脳裏に、九重の爺さんの冷徹な横顔が浮かぶ。
『お前の肉体そのものを、空間を掴むための鍵へと鍛え直してやる』
あの言葉は比喩でもなんでもなかった。
「……ざけんな、よ……。俺は、ただの……古本屋だ……」
泥を噛むような思いで、俺は地を這っていた。
視界の端で震える自分の指先が、酷く遠いものに見える。
朦朧とする意識の底から、不意に、忌々しくも懐かしい「あの頃」の記憶がせり上がってきた。
親父に連れられ、標高さえ定かではない山奥へ放り込まれたあの日。
叔父の情け容赦ないシゴキに明け暮れた、地獄のような日々。
初めて、舞い落ちる木の葉を空中に「固定」できたときの感覚。
指先に世界が引っかかるような、あの奇妙な手応えに若い俺はただ無邪気に喜んでいた。
それが、今の自分を縛る呪いになるとも知らずに。
陰陽師の末裔だか、政府の御用達だか知らねぇが、勝手に……。
勝手に俺の日常を壊すな。
「う、おおおおおおおおッ!!」
俺は渾身の力を込め、腕の血管が放つ狂った振動を、無理やり自分の心拍数へと叩き込んだ。
外側の深淵へ向かおうとする力を、己の意志という鎖で強引に内側へ。
空間を掴む指ではなく、今この瞬間に消えかかっている自分自身の「存在」を、力任せに掴み取るために。
共鳴したバングルが砕け散らんばかりに激しく発光し、俺の意識は、純白の閃光の中に飲み込まれた。
……。
どれくらいの時間が経っただろうか。
気がつくと、俺は古書店の入り口で大の字に寝転んでいた。
右腕を苛んでいた激痛は嘘のように引き、バングルもいつもの大人しい、鈍い黄金の輝きに戻っている。
だが、何かが決定的に、修復不可能なほどに変わっていた。
目の前を、一匹の小さな蚊が飛んでいる。
以前なら、ただの鬱陶しい羽音を立てる虫にしか見えなかったはずだ。
だが今の俺には、その蚊が羽ばたくたびに、周囲の空間がまるで水面に落ちた雫のように微細に波打ち、空気の層が幾重にも重なり合っているのが、残酷なほど鮮明に「視えて」しまう。
まるで、世界という精巧なジオラマの、裏側の汚い配線や継ぎ目が丸見えになってしまったような、耐え難い違和感と吐き気。
俺は震える手で、近くに転がっていた空き缶を手に取った。
軽く、本当に軽く指先を添える。
力を入れたつもりはない。ただ、先ほどの「空間の厚み」を意識しただけだ。
パキィィィッ!!
硬いスチール缶が、まるでお菓子のモナカのように脆く、一点に向かってひしゃげた。
潰れたのではない。
そこに存在していた「容積」そのものが、俺の指の動きに合わせてこの世界から消失したのだ。
「……あはは。これ、もう、普通に生活できねぇじゃん」
俺は乾いた笑い声を上げた。
九重の爺さんが置いていったのは、稽古なんて生易しいものじゃない。
俺の日常を根底から握りつぶし、書き換えてしまうための、二度と戻ることのできない「門」の鍵だった。
ふと視界の端に、ガムテープで補修したはずの壁が映った。
そこには、俺の眼にしか見えない漆黒の「裂け目」が、蛇のようにうっすらと走り始めている。
俺が空間を掴んだ反動か、それとも「門」が開いた影響か。
「モモ……これ、どうすりゃいいんだよ」
カウンターの奥で丸くなっている三毛猫は、一度だけ短く、哀れむような声で鳴いて、二度とこちらを見ようとはしなかった。
朝焼けが空を染め始める中、環古書店は、もはや元の現実には存在していないような、奇妙で恐ろしい浮遊感に包まれていた。
「……いい加減にしろ、この阿呆が」
その声は、鼓膜を震わせたのではない。俺の脳の最深部、理性の檻を突き破って、脊髄の奥底に直接打ち込まれたような、重厚でいて鈴の音のように冷徹な響きだった。
俺は、崩れかけた壁の前で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
指先一つで、物質としての「容積」をこの世から抹消してしまった恐怖に、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出している。
そんな俺の前に、ゆっくりと、しかし一歩ごとに石畳を沈み込ませるような圧倒的な重圧を伴って、三毛猫のモモが歩み寄ってきた。
モモの全身からは、陽炎のような淡い黄金色の光が立ち昇っている。
いつも俺の腕を甘噛み(という名の本気噛み)し、高級な缶詰を要求してはカウンターでふんぞり返っている、あの我儘な三毛猫の面影はどこにもない。
金色の瞳は縦に深く裂け、その奥には銀河の渦、あるいは数千年の時間を凝縮したような無限の深淵が渦巻いている。
「モ、モモ……?」
モモが、ゆっくりと前足を一歩踏み出した。
その瞬間、店内の埃っぽい空気の粒子一つ一つが、強制的に整列させられるような感覚に陥った。
九重の爺さんが去り際に残していった、あの肌を刺すような、死を予感させる寒気。
それが、モモから放たれる「圧倒的な生命の熱量」によって瞬時に上書きされ、霧散していく。
歪んでいた空間の裂け目が、モモが歩くたびにパチパチと音を立てて物理的に修復され、ガムテープだらけの無様な壁が、本来の「静止した物質」としての安定を取り戻していく。
「九重の老いぼれ……。あの男は相変わらずね。世界の外側の肉質を見せ、その万能感という名の狂気に酔わせる。丈一郎、貴様もあやつと同じ、ただ力を振り回すだけの獣になるつもりか?」
モモの瞳が俺を射抜く。
その視線に、俺は物理的な圧力で金縛りにあったように動けなくなった。
右腕のバングルが、明確な意思を持って「恐怖」しているのが伝わってくる。
俺の腕に絡みつく黄金の鎖が、モモの放つ神格の威圧感に耐えかねたように細かく震え、その輝きを失っていく。
これがあの、不遜を絵に描いたような九重の爺さんですら「神様気取り」と毒づきながらも、決して手を出そうとしなかった存在の正体なのか。
「俺は……別に、こんな力が欲しかったわけじゃない。ただ、爺さんに言われるがままに……」
「言い訳はおよし。空間を掴んだ時、魂は確かにその全能感に歓喜していた。己の指先一つで世界を捻じ曲げ、不快な存在を消し去る愉悦。それは、人が神の領域を侵す時に抱く最悪の毒だ。一度その味を覚えた魂は、腐敗し、やがて空間の歪みに自らも飲み込まれる」
モモが俺の目の前で止まり、その小さな、しかし神聖な鼻先を、俺の右腕のにそっと触れさせた。
世界が噛み合うような気がした。
その瞬間、俺の右腕を苛んでいたあの不快な感覚が、嘘のように消え去った。
俺の肉体を現世へと繋ぎ止める、重力という名の安心感が戻ってきた。
「我がこの土地に根を張り、このカビ臭いボロ店に居座っているのは、何も貴様の供物(缶詰)が目当てではない。環の門が開きすぎ、この世界の皮が剥がれぬよう、重石となって楔を打っているのだ。……丈一郎、心得よ。空間を掴むとは、己の心を掴むことだ。力を振るうのではない、力を『御する』のだ。それができぬなら、次こそは我がお前の存在ごと、この世界から追放してやろう。……いや、それもまた九重の思うツボか……」
モモの姿が、次第に眩い光の中に溶け込み、元の小さな三毛猫へと戻っていく。
黄金の光は消え、店内に満ちていた峻烈な空気は、再びいつもの埃っぽい、古本と湿った紙の匂いへと塗り替えられた。
「……モモ。お前、本当は……」
「……ナ。ナッ(腹が減った。隠している特選の鰹節を出せ)」
聞こえてきたのは、いつもの、傲慢で慈悲のない不機嫌な鳴き声だった。
俺は、全ての力が抜けてその場にへたり込んだ。
右腕には、まだあの「世界の喉笛を鷲掴んだ」不条理な感覚が、熱い澱のように残っている。
だが、それはもう俺を壊そうとする暴走する「毒」ではなく、俺という未熟な人間の一部として、静かに沈殿していた。
外からは、街が動き出す喧騒が聞こえ始めていた。
爺さんは、政府の用件ついでに、俺に「世界の触り方」を教えにきた。
そしてモモは、その壊れかけた世界で「人として、古本屋として生きる方法」を、その尊大な沈黙と一喝をもって示したのだ。
俺は震える手で、カウンターの奥から最高級の猫缶と、隠していた鰹節を取り出した。
俺の全財産からすれば、これはもはや死活問題の贅沢だ。
だが、世界の崩壊を食い止めてくれた「神様」への対価としては、あまりに安すぎるのかもしれない。
「はい、どうぞ。モモ様。今日のところは、これで勘弁してください」
「ナッ(遅いぞ、この無能)」
モモは満足げに喉を鳴らし、差し出された皿にかぶりつく。
その姿は、どこからどう見てもただの食い意地の張った猫にしか見えない。
俺は自分の右腕を見つめた。
これから先、九重の爺さんがもっと恐ろしい歪みを持ち込んでくるかもしれない。
あるいは、あのバングルを狙う、もっと質の悪い連中が現れるかもしれない。
だが、この尊大で、食いしん坊で、恐ろしく口の悪い神様が隣で飯を食っている限り、俺はまだ、この薄っぺらな書き割りのような世界で、「環丈一郎」という名の古本屋として生きていける気がした。
俺は腰の痛みに顔を顰めながら、今度こそ、心を込めて新しいガムテープを壁に貼り付けた。
世界の裂け目を塞ぐのは、大層な空間操法や古代の秘術ではなく、案外こういう、日常を維持しようとする地道で滑稽な努力なのかもしれない。
夜明けの光が、環古書店の埃っぽい空気を白く染め上げ、俺と一匹の神様の影を、長く、頼もしく地面に映し出していた。
……ま、いいさ。爺さんの『毒』よりは、あの猫の『傲慢』の方が、まだ俺には合ってる。
さて、腰を叩きながら開店準備でもするか。
今日のお客さんは、空間の裂け目じゃなくて、まともな古本を探しに来てくれることを切に願うね




