第二十七話 空間を掴む男(前編)
九重の爺さんが、今朝、また店に現れやがった。
『政府の用件が早く片付いたから、ついでに寄っただけだ』なんて涼しい顔をしてるが、目ざとくガムテープだらけの壁を見つけて鼻で笑いやがった。
この爺さん、俺に空間のイロハを叩き込んだ師匠じゃなけりゃ、今すぐ塩を撒いて追い出してるところだ。
環古書店の朝は、ガムテープの粘着剤が剥がれる不快な音とともに始まった。
昨夜の騒動で壁にブチ開けられた穴。
そこを段ボールと粘着テープで無様に補修している俺の背後に、音もなく、しかし皮膚をヒリつかせるほどの濃密な圧力を伴った影が落ちた。
「……無様だな。政府の連中に見せてやりたいほどだ。環家の末裔が、ガムテープで補修している姿をな」
振り返ると、そこには路地の入り口に漆黒の高級車を横付けし、トレンチコートの襟を立てた九重の爺さんが立っていた。
政府の御用達という肩書きが嘘のように、その佇まいはただの不遜な隠居爺にしか見えないが、そこから放たれる威圧感だけは、周囲の空気を物理的に重く変えていた。
爺さんは俺の返事も待たず、土足で店内へ踏み込んだ。
埃の舞うカウンターの上では、三毛猫のモモが行儀よく座って毛繕いをしている。
爺さんはそのモモを、侮蔑と諦念が混じった目で見下ろした。
「相変わらずの神様気取りか」
「ナッ(不遜な男め)」
モモが低く喉を鳴らして鋭い爪を覗かせる。だが爺さんは眉一つ動かさず、俺の右腕を強引に掴み上げた。
「爺さん、やめろよ」
「黙れ、未熟者が。……丈一郎、この前の騒動を聞いたぞ。お前はこれを、ただの便利な魔法の道具だとでも思っているようだが、本質が何も見えておらん。お前が腕にハメているこれはな、環家の先祖である陰陽師が、現世と常世の境界を縫い止めるために打ち出した『門』そのものなのだよ」
爺さんの節くれだった、鉄のように硬い指が黄金のバングルの表面をなぞる。
「バングルが黄金に輝き、分裂し、自在に形を変えるのは、それがこの三次元の物理法則に縛られた『物質』ではないからだ。これは空間の密度を自在に操り、離れた座標を繋ぎ合わせるための『留め金』。お前が誇らしげにやる環家空間操法も、実際は足りない力をバングルがその場の空間の繊維を強引に掴み、座標が動かないように物理的に縫い付けているだけに過ぎん。お前は今まで、超高性能な外科手術用のメスを、ただの薪割り斧として振り回していたに等しい」
爺さんは、店内の埃の中に迷い込んでいた一匹のハエに、冷徹な視線を投げた。
「未熟な操法で満足しているお前に、操法の真実を教えてやる」
爺さんが、一歩も動かずに右手を突き出した。
それは何かを打つ動作でも、念じる動作でもなかった。ただ空中の見えない何かを「鷲掴む」ように、その太い五指を深く、力強く曲げただけだった。
その瞬間、俺の視界が物理的に「折れ曲がった」。
熱気による陽炎などという生温いものではない。ハエが飛んでいた周囲数センチの空間だけが、まるで巨大な不可視の手で紙をクシャクシャに丸めるように、中心の一点へと収縮したのだ。
爺さんが空中で拳をグイと握り込む。
羽音すら消えた。
ハエがいたはずの場所には、目に見えない強大なプレス機で押し潰されたような、空間の「歪み」の残滓だけが陽炎のように揺れていた。
物質を壊したのではない。
ハエが存在していた空間そのものを握りつぶし、密度を極限まで高めて一点に圧縮したのだ。
「な……んだ、これ。跡形もねぇ……」
「空間とは、壁でも床でもない。我々の手で掴み、形を変え、時には引きちぎることさえできる『布』だと思え。それができないお前は、まだ環家の人間ですらない」
爺さんは、獲物を狙う鷹のような鋭い目で俺を射抜いた。
「道具に頼るな、丈一郎。お前の肉体そのものを、空間を掴むための鍵へと鍛え直してやる。……逃げようとするなよ。失敗すれば、お前の店ごと、その安っぽい人生を握り潰してやる」
叔父であり師匠である男から放たれる、圧倒的な「達人」の威圧感。
その言葉は冗談ではない。
爺さんの指が動けば、俺の頭蓋など空間ごと簡単にひしゃげるだろう。
「……ああ、クソ」
俺はバングルをカウンター奥の仏壇の座布団に上に置いた。
裏路地に差し込む朝日は不気味に歪み、古書店の埃っぽい空気は、九重の爺さんが放つプレッシャーによって凍りついたように静止している。
「いいか、丈一郎。まずは自分の血を意識しろ。空間を動かすのではない。空間の中に、お前の指を『通す』のだ」
爺さんの指導が始まった。
俺に流れる環一族の血が、まるで生き物のように蠢き始める。
空間を掴む、その不条理で、かつ暴力的な感覚の深淵に、俺は今、引きずり込まれようとしていた。
一歩踏み出す。
靴の裏が石畳を叩く音が、奇妙に反響する。
「や、やるか……ふぅぅぅぅぅ」
「おい、遊んでいるのか、丈一郎。お前の指は、女の髪を撫でるために付いているのか?」
爺さんの声は、五月の生温い朝の空気を一瞬で凍土へと変えるような、冷徹な響きを帯びていた。
環古書店の前、俺は手を伸ばしていたが、指先が虚空を捉えるたびに、まるで見えない潤滑油でも塗られているかのように、ズルりと感覚が滑り落ちる。
掴めない。そこにあるはずの「世界の端」が、俺の意志を嘲笑うように逃げていく。
「無茶言うなよ、爺さん……!今までと勝手が違うんだよ、 空間を掴めって言われても、空気は掴めてもその『外側』なんて、どうやって……」
「空気を掴むのではないと言ったはずだ。空気など、空間という器の中に溜まった塵に過ぎん。お前が掴むべきは器そのものだ。この世界という名の布の、繊維の節を指先で探れ。目で見ようとするな。脳で理解しようとするな。お前の掌の震えに、己の血を同調させろ」
爺さんは俺の隣まで歩み寄ると、その節くれ立った、鉄のように硬い掌を俺の右腕に添えた。
「今までみたいにバングルを『道具』として使うのをやめろ。あれは、お前の肉体を、三次元という不自由な檻から外側へと食み出させるための『義肢』だと思え。いいか、指を曲げるのではない。空間を、お前の意志という『握力』で固定するんだ」
爺さんの手が俺の腕を離れた瞬間、再び世界がぐにゃりと歪んだ。
爺さんが指をパチンと弾くと、今度は路地の片隅に積み上げられていた古い空き缶が、空中で静止したまま四方八方に「引き裂かれた」。
物理的な衝撃ではない。
缶が存在していた空間そのものの『東』と『西』が、別々の方向に数ミリだけ強制的にずらされたのだ。
金属の断裂面は鏡のように滑らかで、分子の繋がりさえ無視して空間ごと断ち切られたことを物語っていた。
「……っ、なんだよこれ……」
「驚いている暇があるなら、その裂け目を塞いでみせろ。三秒以内に縫い合わせなければ、この路地全体の位相が狂い、お前の店は次元の狭間に吸い込まれて消滅するぞ。……二。一」
「冗談じゃねぇ!」
俺は必死で右腕を突き出した。
守るべき安っぽい日常が、俺の背中を強引に押し出す。
空間の『繊維』。爺さんが言っていた感覚を、死に物狂いで探す。
目に見える風景を見るな。その裏側にある、世界の骨組みを意識しろ。
指先に、ザラりとした感触があった。
空気を触っているのではない。
まるで古い羊皮紙の表面を指でなぞるような、あるいは分厚い牛革を力任せに手繰り寄せるような、重厚で逃れがたい手応え。
「掴め!」
爺さんの怒号が、耳元で雷鳴のように轟く。
俺は虚空に向かって、五指を深く突き立てた。指先が空間に「刺さった」。
その確かな感触と共に、俺は引き裂かれた座標を、全力で中央へと引き寄せた。
俺の右腕の筋肉が断裂寸前の悲鳴を上げる。
まるで大型トラックの牽引ワイヤーを素手で引き戻しているような重圧。
背骨の髄までが軋み、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
グズリ、と世界が粘土を捏ねるような音を立てた。
歪んでいた景色が、俺の指の動きに合わせて無理やり元に戻っていく。
引き裂かれた空き缶の破片が、見えない磁石に吸い寄せられるように一つの塊へと収束し、路地の地面にカランと乾いた音を立てて落ちた。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ! どうだ、爺さん……。これで、文句ねぇだろ……」
俺は膝をつき、激しく肩で息をした。
九重の爺さんは、落ちた空き缶を一瞥し、鼻を鳴らした。
「……三点。縫い合わせが甘い。断面にズレがある。お前の操法は、やはり雑だ。正確さに欠ける力任せの暴力に過ぎん」
爺さんは、腰をさすっている俺を放置したまま、再び漆黒の高級車へと歩き出した。
その背中は、ただ圧倒的な拒絶と傲慢さを纏っている。
「爺さん! 稽古は終わりかよ! ついでに寄っただけで、これかよ……!」
「続きは、お前がその『掴み』に慣れたころだ。……せいぜいその猫に慰めてもらうがいい。神様気取りの三毛に、俺の文句でも言っておけ」
高級車のエンジンが、野獣の唸りのような重厚な音を立てて目を覚ます。
九重の爺さんは、最後まで俺を認めることも、歩み寄ることもせず、路地の闇へと消えていった。
残されたのは、奇妙に静まり返った路地と、俺の右腕で静かに痺れる感覚だけだった。
俺は痺れる指を握り込み、先ほどの「空間を掴んだ」感触を反芻した。
世界の皮を一枚剥いだその先にある、圧倒的な不条理。
それが、環家という血筋が背負い続けてきた「呪い」であり、あのバングルという「門」が真に繋がっている先の風景なのだと、俺は身をもって理解し始めていた。
「疲れた」
俺は震える足で立ち上がり、埃っぽい店内へと戻ることにした。
だが、棚に並ぶ古本たちの背表紙が、心なしか以前よりも「薄っぺらな書き割り」のように見えて仕方がなかった。
世界の厚みが、俺の指先一つで簡単に潰れてしまうことを知ってしまったからだ。
カウンターで不機嫌そうに尻尾を振るモモと目が合う。
「ナッ(さっさと飯にしろ)」
「わかってるよ……。今日はちょっと、いつもより高級な缶詰にしてやるからさ」
俺は腰をさすりながら、再びガムテープを手に取った。
空間を掴む感覚。
その余韻は、冷めない熱となって、俺の右腕に深く刻み込まれ始めた。
【作者より】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
物語の熱量はいかがでしたでしょうか。
ここからはさらに予測不能な展開へと突き進んでいきます。
すでに単行本一冊分を優に超えるストックがありますが、二人の旅の終着点はまだまだ先。
皆様の感想や評価、ブックマークが、彼らをより遠く、より高くへと走らせるための最高の「ガソリン」になります。
「更新が待ちきれない!」と思っていただけるよう、全開の熱量で書き進めていきます。
ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として応援よろしくお願いいたします!




