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第二十六話 黒歴史(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。


皆様からいただく感想やブックマークは、二人が困難を乗り越え、より遠くへ進むための最高の「ガソリン」になります。

「この先、一体どうなるんだ!?」と手に汗握る展開をお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で見守っていただけると嬉しいです!


 「『俺の……俺の卑弥呼様……』だと? 貴様、今の今までキーマン(鍵)だと思っていたが、まさか本人が、聖域へのパスワードをその身に刻んでいたとは!」


 教祖が、俺が破り取ったページの一節を指差し、身を震わせて狂喜の声を上げた。

 

 違う、そうじゃねぇ。


 それは十年前、現場仕事でミスをして監督に泥水の中で正座させられた夜、孤独と惨めさに耐えかねて「誰か俺を救ってくれ(卑弥呼様でもいいから)」と、トチ狂った語彙で書き殴っただけの、ただの泣き言だ。


 だが、俺のそんな必死の弁明など、狂信者には一滴も届かない。


 その瞬間、黄金のバングルが、俺の意思を完全に無視して咆哮を上げた。

 破り取ったページの「俺の」という文字が、リングの超高速回転に巻き込まれ、インクの染みが黄金の粒子へと変換されていく。


 俺の右腕を中心に、世界の物理法則が「解釈の暴力」によって歪み始めた。


 「う、うああぁぁぁぁぁ!!」


 右腕が、熱い。溶鉱炉の奥底に腕を突っ込んだような激痛が走り、脳内には十年前の自分の、あの情けない、聞くに堪えない「泣き声」が、教祖の法力によって「神聖なる祈りのコーラス」へとデコレーションされて響き渡る。


 バングルのリングはもはや肉眼では捉えられないほどの残像となり、俺の身体を重力から切り離して宙へと吊り上げた。


 「見ろ、これぞ神域への招喚儀式! この無機質な現実の皮を抉じ開ける唯一の楔なのだ! さあ、卑弥呼様の楽園エデンへと続く扉を、こじ開けろ!」


 「やめ……ろ……! 誰が……そんな……高尚なもん……書いたかよ……!」


 抗おうとすればするほど、バングルは俺の「自己否定」という名の負のエネルギーを燃料にして膨れ上がった。


 店の床板が、まるで巨大な怪物の顎に噛み砕かれるようにメリメリと音を立てて剥がれ、重力を失って宙を舞う。

 積み上げられた段ボールが内側から爆発し、中から『卑弥呼様マジ尊い』『お小遣いくらさい』といった、俺がこの世から消し去りたい文字たちが物理的な衝撃波となって店外へ放たれた。


 熊本の夜空が、俺の黒歴史という名の「黄金の汚泥」で塗り潰されていく。

 これじゃあ、明日からこの街で顔を上げて歩けねぇ。


 三万二千円の残高より、この全世界に向けた「公開処刑」の方がよっぽど致命的だ。


 「ハッハッハ! 素晴らしい! 世界が、物語の重圧で崩壊していくぞ! さあ、全てを塗り替えろ!」


 教祖が手にするタブレットが、現実の綻びから溢れ出した「光の文字列」を貪欲に吸い込み、店の中央に巨大な黄金の門を形成し始めた。


 俺の右腕はその門を現世に繋ぎ止める「ボルト」のように固定され、激痛の中で意識が白濁していく。


 その時だった。


 「やかましいわ、この俗物どもが」


 空気が、一瞬で凍りついた。あかりの持つ冷徹な冷気でも、教祖の抱く狂信的な熱狂でもない。


 この土地そのものが、直接喉を鳴らして不快感を表明したような、重厚で有無を言わせぬ「声」だった。

 カウンターの上に座っていた三毛猫が、ゆっくりと四肢で立ち上がる。


 モモの黄金の瞳は、これまでの「餌をねだる飼い猫」の光を完全に捨て、万物を睥睨する深淵のような威厳を湛えていた。


 「モ……モ……?」


 「丈一郎。お前の不甲斐なさは今に始まったことではないが……我が聖地に、これ以上の不純物を混ぜるな。興醒めだ」


 その瞬間、荒れ狂っていた黄金の文字たちが、一斉に石化したかのように動きを止め、虚空で固まった。


 「なっ……猫が、喋った!? まさか、この土地の主か!?」


 教祖が初めてその顔に狼狽の色を浮かべた。だが、モモは一瞥もくれない。


 「黙れ、新参者。貴様の薄っぺらな理屈は、この土地の『重み』に一秒たりとも耐えられぬ」


 モモが、しなやかな動作で宙に浮いた瓦礫を足場にして歩き、俺の右腕へと近づく。


 「お前の『汚れ』も、『恥』も、全てそのまま背負っていけ。それがお前の、この現世に踏み留まるための『重り』だ。重りなき魂に、板一枚の重みなど語れまい」


 モモの柔らかな肉球が、暴走するバングルの中心、もっとも激しく輝く一点に触れた。

 その瞬間、黄金の輝きが漆黒へと反転し、凄まじい逆重力が発生した。


 「ぐ……うぉぉぉぉぉ!」


 黄金の門へと吸い込まれかけていた空間が、モモの放った「真言」によって強引に現世へと引き戻される。


 教祖が形成した物語の門は、内側から爆散するように霧散し、その衝撃で教祖のタブレットには致命的な亀裂が走った。


 「な……馬鹿な! 卑弥呼様の楽園が、なぜ閉じられる!?」


 「楽園など、この世のどこにもない。あるのは、この埃っぽく、救いようのない古本屋だけだ。去れ」


 モモが低く唸ると、浮遊していた家具や本が、一斉に重力を取り戻して床へと叩きつけられた。


 激しい衝撃と共に、俺の身体もカウンターの裏へと無様に落下する。

 空間の綻びは、完全には消えていなかった。だが、モモの力によって「一時的な蓋」をされたような状態になり、店内の狂乱はひとまず収まった。


 「……くっ、今日はここまでか。だがキーマン、聖典はお前の魂に刻まれている。必ず……必ず、卑弥呼様をこの世界に解き放ってみせるぞ!」


 教祖は、死守するように亀裂の入ったタブレットを抱え、文字通り霧に紛れるように、足早に店外へと逃げ出した。

 白檀の香りが急速に薄れ、代わりに俺の汗の匂いと、破れた古本の埃っぽさが戻ってくる。


 俺は床に這いつくばったまま、バングルが嵌まった右腕を見た。

 リングはまだ、微かに「世界の綻び」に共鳴するように、嫌な震えを残している。


 「……モモ。お前、今、喋ったよな? しかも、めちゃくちゃ偉そうに、俺の生き方について説教を……」


 俺の問いに、モモはいつものように「ナッ(何のことだ)」と短く鳴くと、水入れに鼻を突っ込んで無心に啜り始めた。

 先ほどの、神話の主のような威厳はどこへやら、ただの現金で不機嫌な猫に戻っている。


 俺は、床に散らばった『私の邪馬台国卑弥呼様』の残骸を見つめた。

 世界は救われたわけじゃない。ただ、最悪の決壊が、俺の「黒歴史」という名の重石で、モモの力によって辛うじて食い止められただけだ。


 「三万二千円。湯呑みは無し。さらに、床はバキバキだ」


 俺の絶望は、より一層この「泥臭い現実」の底に深く、痛烈に突き刺さっていた。




 嵐が過ぎ去ったあとの環古書店には、暴力的なまでの「静寂」が立ち込めていた。

 教祖が逃げ去ったあとの冷たい夜気が、ひび割れた引き戸の隙間から遠慮なく入り込み、俺のうなじをじりじりと撫でる。

 

 俺は床に這いつくばったまま、しばらく動けなかった。


 右腕のバングルは、もはや熱を失い、ただの冷え切った重い金属の塊として俺の肌に食い込んでいる。

 だが、その鈍い重みだけが、つい数分前までここで起きていた「世界の崩壊」が白昼夢ではなかったことを、嫌というほど証明していた。


 「……ナッ(お前の顔の脂で、床の価値がさらに下がる)」


 モモが、何事もなかったかのように俺の頭を跨いでいった。

 あの一瞬、空気を震わせ、神話の主のように響いたあの「真言」はどこへ消えたのか。


 今のモモは、毛づくろいに余念がない、ただの「態度の悪い三毛猫」そのものだ。


 「モモ……お前、さっきの言葉。あれはどういう意味だよ。『重りなき魂』がどうとか……あれは、俺に向けた言葉だったのか、それとも……」


 モモはぷいと顔を背け、空になったキャットフードの皿をカチャカチャと乾いた音を立てて前足で叩いた。


 ……幻聴。


 そう片付けてしまえれば、どれほど楽だろうか。だが、あの時確かに感じた「土地の重圧」は、俺の魂の芯の部分を確実に捉え、暴走するバングルを無理やり現世に繋ぎ止めていた。

 俺は震える足で、軋む膝をなだめながら立ち上がり、惨状と化した店内を見渡した。


 宙に浮いた家具は本来の位置に戻ったが、配置はめちゃくちゃだ。

 十年前の自分の絶叫と妄言が刻まれた「聖典」は、無惨に引き裂かれ、ページの一部は教祖と共に夜の闇へ消え、残りは床に散らばるただの紙ゴミと化していた。


 「はは……ハハハ……」


 笑うしかなかった。


 二百万という、当時の俺にとっては血を吐くような大金を叩いて買った「呪いの遺物」。

 それを自分の手で引き裂き、最悪な恥部を白日の下に晒した挙げ句、得られたのは「脱出」でも「全能の力」でもなく、ただの、以前よりさらに酷くなった「ボロ屋の片付け」という、反吐が出るほど泥臭い現実だ。


 俺は膝を突き、指先に絡みついた一枚の紙片を拾い上げた。

 そこには『本当の自分は、こんな場所にいるべきではない。いつか選ばれし者として……』という、若さゆえの、そしてそれ以上に深い絶望ゆえの、痛々しい一節が記されていた。

 

 十年前の俺。


 工事現場で泥にまみれ、理不尽な上司に怒鳴られ、将来の不安に押し潰されそうになりながら、それでも「ここじゃないどこか」を夢見ていたあの頃の俺。


 今の俺は、あの頃夢見た場所に立てているんだろうか。


 古本屋の主。


 世捨て人のような隠居生活。


 現実は、ただ場所が変わっただけで、泥の種類が「現場の赤土」から「古本の埃」に変わっただけなんじゃないか。


 「ナッ(過去を食っても腹は膨れぬぞ)」


 モモの冷ややかな、それでいてどこか見透かしたような視線が刺さる。

 俺は、その紙片を無言で握りつぶし、ゴミ箱の奥底へと放り込んだ。


 「……分かってるよ」


 その時、バングルのリングが、チリ……と微かに、氷が割れるような音を立てて鳴った。

 それは警告のようでもあり、あるいは「世界のガタ」が取り返しのつかないレベルまで広がったことを知らせる予兆のようでもあった。


 数門のあの男は、また現れるだろう。

 

 俺の「黒歴史」は、もはや俺一人の胸の中にしまっておける恥部ではなくなった。

 それは世界の綻びを無理やり繋ぎ止める「重り」となり、同時に、あらゆる世界の異常を引き寄せる「歪んだ磁石」となってしまったのだ。


 俺は、店の奥から古びた箒と、錆びついた塵取りを持ってきた。

 何を変えることもできない。何をリセットすることもできない。


 まずは、この床に散らばった「過去の残骸」と「現実のゴミ」を掃き集める。そこから始めるしかないんだ。

 黄金のバングルをはめたまま、俺は無心に床を掃き始めた。


 夜明け前の熊本は、痛いほど静かだった。


 ただ、箒が木の床を擦るカサカサという乾いた音と、時折響く「ナッ」という猫の傲慢な催促だけが、俺の、このどうしようもなく「地続きの人生」を刻んでいた。


【後書き】


 「……おいおい、ちょっと待ってくれ。

 今、スタッフロールみたいな音楽流そうとしなかったか?」

 『めでたしめでたし』なんて顔で締めくくろうとしてるけどよ、


 結局、俺が得たものって何なんだよ。

 

 不審者に店をめちゃくちゃにされて、十年前の『卑弥呼様マジ尊い』とかいう黒歴史を商店街中に撒き散らされて、

 愛猫(の姿をした何か)には『魂が軽い』とか人格否定レベルの説教を食らって……。


 ……ったく。


 卑弥呼様、見てるんなら少しは『神の融資』ってやつを検討してくんねぇかな。

 ……俺の人生、ガムテープと養生テープの層ばっかり厚くなっていく気がするぜ」

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