第二十五話 黒歴史(前編)
三万二千円。
この数字を前にすると、五月の爽やかな風すらも、俺の懐を冷やす嫌がらせにしか思えねぇ。
あかりという名の「制御不能女」に、十年連れ添ったプラスチックの湯呑みを略奪され、モモはカツアゲした法力の珠で飲み水をエビアンか何かにクラスチェンジさせてやがる。
……しけったタバコの煙を吐き出し、俺は古びたレジカウンターに突っ伏した。
カビと埃の匂いだけが、裏切ることのない俺の日常。
だが、その日常の根底を揺るがす「最悪の種」が、押し入れの奥底で脈打っていることを、この時の俺はまだ知る由もなかった。
【前書き】
三万二千円。
この数字を前にすると、五月の爽やかな風すらも、俺の懐を冷やす嫌がらせにしか思えねぇ。
「……なぁ、モモ。俺は一体、いつどこで道を間違えたんだろうな」
カウンターに顔を埋めたまま、俺は隣で優雅に「聖水」を啜っている三毛猫に問いかけた。
モモは「ナッ(知るか)」と短く鳴くと、濡れた口元を丁寧に前足で拭い、それから心底蔑むような目で俺を見た。
その視線は、残高三万二千円の男に向けられる正当な評価そのものだった。
「九重の爺さんも、よりによってあの本を掘り出してくるなんてよ……。二百万だぞ? 庶民が血を吐きながら、十円単位の特売チラシと格闘して貯めるような大金を、俺は十年前、何に、どう使ったってんだ……」
記憶の霧を振り払うように、俺は重い腰を上げた。
山で鍛えた体も、精神的な虚脱感には勝てない。膝がパキパキと不吉な音を立てるのを無視して、俺は店の奥にある押し入れに手をかけた。
襖を開けると、そこには客に売る価値すらない「情報の残骸」が詰まったダンボールが積み重なっている。
その最下段。
十年物の湿気を吸い込んで、今にも底が抜けそうな一箱。
俺はそれを、黄金のバングルを無駄に使って慎重に引きずり出した。
「……これだ。俺の人生における、最大の汚点」
箱の中から現れたのは、和綴じの装丁がボロボロに剥げ、ところどころにコーヒーのシミがついた一冊の古本だった。
表題は、下手くそな毛筆体でこう記されている。
『私の邪馬台国卑弥呼様』
十年前。若かりし頃の俺は、仕事で訪れた寺の古物整理中にこれを見つけ、その「何かとてつもない可能性」に当てられてしまった。
いや、正直に言おう。
ただの徹夜明けのテンションだった。
当時の俺は、この本に記された支離滅裂な内容を「真の歴史への鍵」だと勘違いし、九重の爺さんに頭を下げて、とんでもない金利のローンを組んでまで手に入れたのだ。
ページを捲る。
そこには、俺が若気の至りで書き込んだ「注釈」という名の、あまりにも痛々しい独り言が並んでいた。
『卑弥呼様、マジ尊い。この一節、超弦理論の歪みに通じてる(気がする)』
『お腹空いた。卑弥呼様、マジ愛してるからお小遣いくらさい』
『今日も現場で怒られた。世界、一回再起動しないかな』
「……う、うわぁぁぁぁぁ!!」
俺は思わず本を叩きつけ、頭を抱えてのた打ち回った。
死にたい。今すぐバングルのリングを首に巻き付けて、過去の自分を物理的に消滅させたい。
これは「知識の探求」でも何でもない。
ただの、将来に絶望した二十代後半の独り言、デジタルタトゥーならぬ「和紙タトゥー」だ。
「ナッ(何をしている)」
モモが呆れたように鼻を鳴らす。
「モモ、見てくれよこれ。俺はこんなゴミに、人生の十年分を捧げちまってたんだ。卑弥呼様マジ尊い、だぁ? 尊いのは俺の通帳の残高だよ、ちくしょう!」
俺は絶叫しながら、その本をゴミ袋に放り込もうとした。
だが、その瞬間だった。
店内に、あかりの放つ「凛とした冷気」とも、モモの放つ「古き神気」とも違う、異様な熱量が流れ込んできた。
それは、空気そのものが「特定の文字列」に書き換えられていくような、不自然な震動だった。
バングルが、キィィィンと耳鳴りのような高音を奏で始める。これは敵意ではない。
だが、もっと性質の悪い「狂信的な呼応」の音だ。
ガラリ、と。
十円単位の客しか通さないはずの、建て付けの悪い引き戸が、まるで自動ドアのように滑らかに開いた。
「……聞こえる。聞こえるぞ、十年の時を経て、ついに『最初のコード(聖句)』がこの地上に再誕した音が!」
現れたのは、高価な白檀の香水と異様な男だった。
仕立ての良い法衣を崩して着こなし、手にはタブレット端末、首からは不気味な光を放つ数珠を下げている。
「……誰だ。うちは今、閉店作業中だ。三万二千円しかない店主をカツアゲしに来たんなら、隣のコンビニでも当たってくれ」
俺は本を背中に隠しながら、精一杯の拒絶を込めて言った。
だが、その男は、こちらの言葉など最初から「解釈」するつもりがないようだった。
「三万二千? 素晴らしい。三十二という数字は、卑弥呼様が愛用した鏡の破片の数と同じ……。貴様、キーマンだな!」
男の目が、狂気的な輝きを帯びて俺の背後を射抜く。
俺の世知辛い日常が、過去の自分という名の「呪禁」によって、ついに取り返しのつかない破滅へと加速し始めた。
「待て、話を聞け!」
俺の叫びは、男が掲げたタブレットから放たれる、「言葉の光」によって、虚しく掻き消されていった。
「いいか、よく聞けハイテク坊さん!!その本はな、十年前の俺が、深夜のノリで書き殴っただけの『落書き帳』なんだよ!」
俺はバングルのリングを三つ同時に回転させ、黄金の障壁を張った。
教祖が掲げたタブレットから放たれる、電子的な数珠つなぎの文字列「光り輝く卑弥呼の御霊」という浮遊するフォントが、障壁に当たって火花を散らす。
「無駄だ、キーマン! 貴様が吐き出すその『否定』すらも、聖典の余白を埋めるための尊きお言葉! 見ろ、このタブレットの波形を! 貴様のその『恥』にまみれたエネルギーは、量子力学的に見れば、次元の壁を穿つための純粋な熱源なのだ!」
「何が量子力学だ! 専門用語で俺の黒歴史をデコレーションするんじゃねぇ!」
男の背後で、店内の古本たちがガタガタと震え始めた。
あかりの時のような「浄化」ではない。これは「変質」だ。
教祖がタブレットをスワイプするたびに、店内に漂う埃が文字の形を成し、空中を這い回る。
『尊い』『愛してる』『再起動』俺が十年前に和紙に刻んだ、あの救いようのない言葉たちが、実体を持って俺を包囲していく。
「ナッ(実に滑稽な眺めだ)」
モモが、聖水を飲み干した器を前足でひっくり返しながら、他人事のように鳴いた。
「笑ってんじゃねぇよモモ! 助けろ!」
「ナッ(我は今、忙しい)」
「この……守銭奴猫が!」
俺はバングルを振り抜き、迫り来る『尊い』の一文字を黄金の閃光で粉砕した。
だが、粉砕された文字は消えることなく、さらなる小さな『尊い』に分裂し、蚊の群れのように俺の耳元で囁き続ける。
精神攻撃だ。
十年前の自分の、あの浮ついた、根拠のない万能感と、その裏側にある凄まじい劣等感が、文字を通じて脳内に直接流し込まれる。
『世界、一回再起動しないかな』
その文字が、店の古びた引き戸の隙間に潜り込んだ瞬間、ガタついていた戸が「完璧な金属製の自動ドア」に変質した。
「なっ……!?」
「はーっはっは! 見ろ! 聖典の注釈が、この低俗な現実を『上書き』し始めた! これぞ卑弥呼様による世界の再起動! 」
「勝手にうちの店をリフォームするんじゃねぇ! ……あれ?あのドア良くねぇ?」
腑に落ちない顔で浮遊する文字の包囲網を潜り抜ける。
バングルのリングを右拳に集中させ、黄金の質量兵器へと変える。
「とりあえずタブレットを叩き割ってやる!」
俺の拳が、教祖の顔面まであと数センチに迫った。だが、彼は不敵に笑い、首から下げた数珠の一個を指先で弾いた。
「『お小遣いくらさい』――発動!」
カチリ、と絶望的な音が響いた。
俺のバングルから、黄金の光が「コイン」の形になって霧散し、教祖の数珠へと吸い込まれていく。
「なっ、なんだ!」
「貴様自身の言葉だ。卑弥呼様に『お小遣い』を求めたのは貴様自身! 故に、貴様のバングルが生成するエネルギー(資産)は、すべて聖なる奉納金として回収されるのだ!」
バングルの出力が急激に低下する。
リングの回転が止まり、俺の腕に重い、ただの鉄の感触が戻ってくる。
膝から崩れ落ちそうになるのを、気合だけで踏みとどまった。
「ぐっ……お前、その格好……あかりと同じ『数門』の関係者か?」
俺は荒い息を吐きながら、男の法衣を睨みつけた。仕立ての良さや、纏っている空気の質こそ違うが、その合理性を突き詰めたような宗教服の意匠には見覚えがあった。
「フハハ、あかり? ああ、あの融通の利かない古風な調律師のことか。彼女は現実を『整理』しようとするが、私は違う。私は、現実を『最適化』するのだ!」
男がタブレットを横に薙ぐ。
すると、俺が背後に隠していた『私の邪馬台国卑弥呼様』が、強力な引力に引かれるように宙に浮いた。
「待て、返せ! それは……それは俺の、俺だけの地獄なんだよ!」
「地獄ではない、これこそが真の経典だ! さあ、続きを読み上げよう! ……ほう、『明日仕事に行きたくない、全部爆発しろ』……。素晴らしい、純粋な破壊の祈りだ!」
男が画面上の「爆発」という単語をタップした瞬間、店の棚に並んでいた死蔵品の古本たちが、一斉に内部から膨れ上がった。
「おい、冗談じゃねぇぞ! 商品が、俺の在庫が!」
ポン、ポンと、乾いた音を立てて絶版の冒険小説や、誰にも見向きされない実用書が弾けていく。
中から飛び出した紙片は、空間を舞いながら教祖のタブレットへと吸い込まれ、新たな「言葉の弾丸」へと精製されていく。
俺の商売道具が、俺の過去に燃料として使われる。これ以上の皮肉があるか。
教祖の法衣の裾が、膨れ上がる魔力で不自然に揺れている。
その模様、やはりあの忌々しい『数門』の紋章だ。
あかりのようなストイックさとは対極にある、欲望を最新技術でパッケージしたような禍々しさ。
「これ以上はさせねぇ!」
俺は地面を蹴った。
バングルに頼り切った戦闘ではない。
これは、現場で何年も培ってきた動きだ。
空中の『尊い』を左手で薙ぎ払い、指先に残るわずかな黄金の余熱を全開にする。
教祖がニヤリと笑い、タブレットに「強制終了」という文字を打ち込もうとする。
「遅せぇんだよ!」
俺は、教祖の胸元にある本物の「和紙」の束、タブレットが参照している原典そのものを狙った。
「お前の解釈なんて知るか! 」
俺の指が、湿気を帯びた忌まわしい経典の表紙に食い込んだ。
和綴じの糸が悲鳴を上げ、俺の十年前の「恥」が、バリバリという音と共に空間に剥き出しになる。
「貴様、何を……! 聖典を損壊するなど、正気か!」
「正気でこんな本が買えるかよ! 二百万もしたんだぞ、これ!」
俺は思い切りページを破り取った。
その瞬間、店内の自動ドアが元のガタつく木製に戻り、空中の文字たちが一斉にインクの雨となって降り注いだ。
だが、まだ終わらねぇ。
俺が破り取ったページには、よりにもよって俺が一番消し去りたい一節が、太いマジックで記されていた。
『俺の……俺の卑弥呼様だ!』
その文字が俺の指先の黄金に触れた瞬間、バングルがそれまで聞いたこともないような不快な共鳴音を上げた。
「……ナッ(あーあ、火がついたぞ)」
モモの声が、遠くで聞こえたような気がした。
俺の視界が、恥ずかしさで真っ赤に染まったのか、それともバングルの暴走か、どす黒い黄金色に塗り潰されていく。
【作者より】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
物語の熱量はいかがでしたでしょうか。
ここからはさらに予測不能な展開へと突き進んでいきます。
すでに単行本一冊分を優に超えるストックがありますが、二人の旅の終着点はまだまだ先。
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「更新が待ちきれない!」と思っていただけるよう、全開の熱量で書き進めていきます。
ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として応援よろしくお願いいたします!




