第二十四話 聖女の食卓(後編)
【作者より】
本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。
皆様からいただく感想やブックマークは、二人が困難を乗り越え、より遠くへ進むための最高の「ガソリン」になります。
「この先、一体どうなるんだ!?」と手に汗握る展開をお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で見守っていただけると嬉しいです!
「……待て、今、なんと言った? 聞き間違いだよな。耳にカビが生えたか、それともお前の頭の中の神様が狂い出したのか、どっちだ」
丈一郎は、手に持っていた昭和アイドルの写真集を床に落とした。
どさりと鈍い音が響き、中から古ぼけたチラシが滑り落ちる。
だが、今の丈一郎にはそれを拾う余裕すら、一円の価値を惜しむ生活者としての執着すら残っていなかった。
あかりが最後に放った一言「あなたのその汚れを、私の聖域に『展示』したい」という、正気とは思えない宣言が、彼の脳内に響かせていた。
「聞き間違いではありませんよ、環さん。私は極めて真剣に、そして『調律師』としての正当な危機感を持って判断したのです」
あかりは、最後の一切れの厚揚げを嚥下すると、唇の端についた醤油の雫を、あろうことか自らの指で拭い、それを慈しむように見つめた。
彼女の背後では、浄化されたはずの店内の空気が、彼女の昂揚した魔力に呼応して白く発光し始めている。
その輝きは神々しいはずなのに、立ち上る白檀の香りはどこか血の匂いを含んでいるような、狂気的な鋭さを孕んでいた。
「あなたの魂にこびりついたその『生活の汚れ』は、あまりにも強固で、もはや煮浸しやカビ臭い古本程度では、私の中に完全に取り込むことができません。あなたの本質――その、泥の中で藻掻きながらもローンを返し、猫の機嫌を取り、誰にも理解されない生きる絶望。……それを、私の無菌室の日常へ持ち帰る必要があるのです」
「持ち帰るって……まさか、俺を誘拐でもする気か? 断るぞ、俺にはこのボロ店を守る義務があるんだ」
「いいえ、今はまだその時ではありません。ですから、この『器』を一つ、頂いていきますね」
あかりが細い指を向けたのは、丈一郎が長年愛用し、縁が欠け、茶渋ですっかり黒ずんだ、プラスチック製の安物の湯呑みだった。
「ちょっと待て! それは百均で買ったやつだぞ! 十年も使ってて、もう洗っても落ちない汚れの結晶みたいなもんだ。予備もねぇし、俺の朝の茶はそれじゃなきゃダメなんだ、勝手に持っていくな!」
「いいえ、これこそが至高の聖遺物。この器には、あなたが幾度となく啜った安物の茶の記憶と、通帳の残高を見て吐き出した溜息の成分が、地層のように積み重なっている……。私の寺院の、最も神聖な祭壇の中央にこれを据え、朝な夕な、あなたの絶望的な生活臭を拝むことにしましょう。私の清浄な世界を、あなたの残り香で侵食させる。これこそが、私にとっての『祈り』なのです」
あかりが手をかざすと、湯呑みが柔らかな、だが強制力の強い光に包まれ、彼女の手元へと吸い込まれていく。
丈一郎の「世知辛い日常」の欠片が、イカれ女の所有物としてコレクションされるという、精神的な略奪。
それは居座られるよりもある意味で性質が悪く、丈一郎の背筋に「得体の知れない寒気」を走らせた。
この女は、丈一郎という存在を「人間」としてではなく、自分の完璧な旋律を汚すための「最高のノイズ源」として、パーツごとに解体して持ち帰るつもりなのだ。
「……お前、それ、呪いか何かのつもりかよ。それともただの嫌がらせか」
「いいえ、愛の調律です。……さて、お腹も心も、あなたの『毒』で満たされました。これ以上ここにいると、私もあなたのように、明日の献立の心配ばかりする俗物になってしまいそうです」
あかりが満足げに立ち上がると、店内の空間が目に見えて歪み始めた。
彼女がこの場から退散しようとしたその時、それまでカウンターで待っていたモモが、ぬらりと立ち上がった。
その背中が、一瞬だけ本来の土地神としての巨大な影を壁に落とす。
「ナッ(小娘、タダで帰れると思うなよ。我のナワバリを汚した代償は高くつくぞ)」
モモの黄金の瞳が、現世の飼い猫のそれではない深淵を覗かせた。
店の空気が一変し、宙を舞う埃のひとつひとつが重力を持ったかのように、あかりの足元に絡みつく。
彼女の法衣が、見えない力で地面に縫い付けられた。
「……あら。土地の守護神様が、ようやく本性を現しましたか。具なしカップ麺を啜る主のために、私の法力を搾り取るおつもりですか? それとも、その三毛の皮を脱いで、私と力比べでも?」
「ナッ(無礼な。我はこの男が啜る安物スープの、最後の一滴までを見届ける者。お前のような潔癖症が持ち込む『清浄』は、この場所の生態系を乱す。……落としていけ。その懐にある、もっとも『清らかなる力』の種をな)」
モモが鋭い爪を空間ごと引き裂くように立てた瞬間、あかりの法衣の懐から、一粒の真珠のような珠が弾け飛んだ。
それは彼女が長年の修行で練り上げた、純粋な法力の結晶体だ。
「……くっ!? 守護神の分際で、さすが、環丈一郎に飼われているだけのことはありますね。卑屈で、強欲で、最高に醜悪だわ! その執念、嫌いではありませんよ!」
あかりは怒っているのか喜んでいるのか分からない不気味な笑みを浮かべ、弾け飛んだ珠を追いかけることもせず、そのまま霧のように店外へと消えていった。
白檀の香りが急激に薄れ、代わりに雨の予感を含んだ五月の、どこか湿っぽく、それでいて懐かしい生活の空気が流れ込んでくる。
静寂が戻った店内で、モモはその法力の珠を、前足で器用に転がしながら丈一郎を見た。
その目は既に「可愛いペット」のものに戻っている。
「……モモ、お前……今のは格好良かったけどよ。結局、何がしたかったんだ? あの珠、どうするんだよ」
「ナッ(これで明日から一週間、我が啜る水が『最高級の湧き水』と同じ成分に変わる)」
「……いや、わかんねぇ。喋れよ」
丈一郎は床にへたり込んだ。
あかりに「生活の残骸」を略奪され、モモは「聖女の法力」を飲み水のグレードアップに使い、自分だけがただ一人、十年使い込んだ湯呑みを失い、腰痛を悪化させている。
「……ったく。どいつもこいつも、俺の日常を何だと思ってやがる。玩具じゃねぇんだぞ」
丈一郎は、落としたアイドルの写真集をゆっくりと拾い上げた。
聖女の狂った執着と、土地神の現金な欲望。
それらに挟まれたまま、それでも彼は明日、この「汚れた店」のシャッターを、一円を稼ぐために開けなければならない。
結局、嵐が去った後の店内には、中途半端に浄化された白檀の香りと、現世の世知辛い埃の匂いが混ざり合った、形容しがたい奇妙な静寂だけが残された。
丈一郎は、あかりに奪われた湯呑みがあった場所、カウンターの隅の、そこだけ円状に埃が避けている「空白」を、ぼんやりと眺めていた。
十年もの間、自分の指の形に馴染み、数々の安物茶を受け止め、時にはモモが倒した際の衝撃にも耐えてきたあのプラスチックの塊。
それが今頃は、どこか厳かな寺院の祭壇で、最高級の絹の上に置かれ、世界で最も「汚れた聖遺物」として崇められている。
そう思うと、腹立たしさよりも先に、自分の人生の欠片がいかに歪んだ形で他人に執着されているかという事実に、底知れない疲労と薄ら寒さがこみ上げてきた。
「……なぁ、モモ。あいつ、本当にもう帰ったんだよな? 押し入れの中に隠れて、手ぐすね引いて待ってたりしねぇよな?」
丈一郎の問いに、モモはあかりからカツアゲした「法力の珠」を水入れにポチャンと落とし、満足げにその水を啜りながら、尻尾でトントンと不規則に床を叩いた。
「ナッ(案ずるな」
「……ったく、どいつもこいつも俺の私物を何だと思ってやがる。俺はただ、猫と古本に囲まれて、誰にも邪魔されずにローンを完済したいだけなんだよ」
丈一郎は深い溜息をつき、床に散らばったままの「昭和アイドルの写真集」を、一枚一枚丁寧に拾い集めた。
ページを捲れば、あかりが毛嫌いした「情報のゴミ」たちが、色褪せた水着姿で屈託のない笑顔を振りまいている。
今は誰にも顧みられない紙の束。これを検品し、千九百円の値札を貼り、客の来ない店番を続ける。
それが丈一郎にとっての、非日常の戦場から生還した後の、唯一の「平和」という名の報酬だったはずだ。
だが、その平和の前提となる「経済的安定」は、すぐに無慈悲な現世の論理によって打ち砕かれることになる。
「……ああ、そうだ。二百万……いや、戦闘で壊した備品の補填や経費を差し引いて、百八十万か。それを確認して、さっさとローンの引き落とし口座に移さねぇと。今月は固定資産税の支払いもあるんだ」
丈一郎は震える指でノート型パソコンを取り出し、オンラインバンキングの画面を開いた。ログインパスワードを入力する数秒間、彼はその大金で「モモにたまには刺身を買ってやるか」「それとも、あかりに壊された建具を新調するか」などと、ささやかな夢を見ていた。だが、画面に表示されたのは、予定されていた「百八十万」という輝かしい数字ではなかった。
「……えっ? ……三、三万……二千……円……?」
画面には、端数のついた極めて現実的、かつ絶望的な数字だけが鎮座していた。
銀行のシステムエラーを疑い、三度リロードしたが、数字は一円たりとも増えない。
「な、なんでだよ! 振込先は間違えてないはずだ。爺さん、さては非正規雇用の俺を舐めて、盛大にピンハネしやがったか!?」
丈一郎が絶叫に近い声を上げたその時、一通の新着メールが届いていた。差出人は「九重」。その文面は、救いようのないほど容赦のないものだった。
『丈一郎、10年前の借用書がでてきてな。覚えているか?古写本の「私の邪馬台国卑弥呼様」……なんでこんなに高いんだこれ?あ、三万円は、俺からの小遣いだ、無駄遣いするなよ』
パソコンの画面が、丈一郎の血の気が引き、土気色になった顔を無機質に反射している。
「…………昔の俺ぃぃぃぃぃ!! 」
丈一郎の絶叫が店内に響き渡る。その叫びは、五月の爽やかな風に流され、シャッターの閉まったままの隣家の壁に跳ね返り、商店街の閑古鳥の鳴き声に掻き消されていった。
借金は減らず、腰の痛みは増し、十年連れ添った相棒(湯呑み)は消え、手元に残ったのは、中途半端な三万二千円と、最高級の湧き水にグレードアップされたモモの飲み水だけ。
「ナッ(何を騒いでいる)」
「お前ら……どいつもこいつも、俺をなんだと思ってるんだよ……! 俺の財布はもう限界なんだよ!」
丈一郎はカウンターに顔を埋めた。木目の隙間に詰まった埃が鼻をつく。
バングルが、気のせいか「まあ、これが掃除屋の日常だよな。一円も残らないのが、お前にはお似合いだ」と、これまでで一番明るく、そして一番意地悪な光を放ったような気がした。
こうして、狂気と執着を孕んだ死闘は、百円ショップの湯呑みの紛失と、三万二千円という「絶妙に死ねないが、生きるのも辛い」金額と共に、幕を閉じた。
環丈一郎の受難は続く。
あかりという名の「制御不能」が、次の「汚れ」を補給するために、またこのボロい引き戸を優雅に開けるその日まで。
世界を救うよりも、明日の献立と通帳の残高。
古本屋の主人は、今日も埃っぽい店内で、奪われた湯呑みの代わりに、取っ手の取れたマグカップで不味い茶を啜り、明日という名の日常を待つのだった。
死地を潜り抜けて、ようやく手にしたはずの報酬が、過去の自分の無計画な物欲のせいで消えてなくなるなんて。
あの時の自分を捕まえて、延々と一時間くらい説教してやりたい気分だ。
三万二千円で、どうやって今月の固定資産税と、モモの(グレードアップしてしまった)生活水準を維持しろってんだ。




