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第二十三話 聖女の食卓(前編)

 平和が一番だ。


 昨夜の死闘だの、五百万の報酬が二百万に目減りしただの、そんな殺伐とした話は一度忘れたい。

 五月の風は爽やかで、商店街のスピーカーからは気の抜けた歌謡曲が流れている。


 こういう日は、客の来ない古本屋のカウンターで、モモの毛並みを整えながら、賞味期限の怪しい羊羹でも齧って過ごすのが正解なのだ。




 「……だから、帰れって言ってるだろ。うちは古本屋であって、炊き出しの会場でもねぇんだ」


 丈一郎は、レジカウンターに突っ伏したまま、泥のような声で毒づいた。

 視線の先には、店の入り口で凛として佇む四方あかりがいる。


 彼女は、あの日丈一郎が「生活の汚泥」で塗り潰したはずの漆黒の僧衣を、塵ひとつない状態にまで完璧に「調律」し直し、まるで初夏の光を反射する大理石のような神々しさを放っていた。


 だが、その瞳だけは、救済を説く聖者のそれではなく、獲物の毛並みを愛でる略奪者の熱を孕んでいる。


 「環さん。そんな冷たい言葉で私を拒絶しても無駄ですよ。あなたのその『汚れ』……この安っぽい合板の床や、カビ臭い古本の匂い。これらすべてが、私にとっては世界で唯一の、愛すべき不協和音なのですから」


 あかりは、ガムテープで補強された引き戸の建付けなど気にする様子もなく、優雅な所作で店内に踏み込んだ。

 彼女が歩くたびに、店の淀んだ空気が「聖域」の力で無理やり浄化され、鼻をつく白檀の香りが充満していく。


 丈一郎にとっては、芳香剤の匂いを通り越した、生理的な頭痛の種だ。


 「おい、勝手に浄化するな。その香りが古本に移ったら、価値が下がるだろうが。……大体、あの後『汚し尽くしてあげる』なんて不吉な予告をして消えたくせに、なんで翌週に『お腹が空きました』って平然とやって来れるんだよ。お前の情緒はどうなってんだ」


 「あら、愛する楽器のメンテナンスに来るのは、調律師として当然の義務ではありませんか? それに、お腹が空くという現象は、人間としての至極真っ当な営みです。……環さん、何か食べるものは? できれば、添加物のない、あなたの執着がこもった清らかなものを」


 あかりは当たり前のようにパイプ椅子を引き寄せると、そこにちょこんと腰を下ろした。

 その潔癖な瞳が、カウンターの上で丸まっているモモに向けられる。


 「ナッ(また来たのか、この執念深い小娘)」


 モモが、半開きの目で不機嫌そうに喉を鳴らした。かつてあかりの術式を「捕食」した土地神の面影はどこへやら、今はただの、ノミ取り首輪を巻いた三毛猫の姿だ。

 だが、その黄金の瞳の奥には、あかりに対する明確な「縄張り意識」が火花を散らしている。


 「……ああ、その不遜な鳴き声。やはり、神様というよりは、ただの食い意地の張った獣ですね。環さん、この子に与えている鰹節、私の祈祷で聖別して差し上げましょうか? 栄養素がすべて光に変わりますけれど」


 「余計なことをするな。モモがまた喋り出したら、俺の精神が持たないんだよ。……大体、お前が座ってるその椅子、埃だらけだぞ。いいのか、その高そうな服が汚れても」


 「構いません。あなたの店の汚れは、私にとっての『勲章』ですから。……さあ、環さん。早く食事の用意を。それとも、私の数珠であなたの胃袋を直接調律して差し上げましょうか?」


 あかりが懐から銀の数珠を取り出し、チャリン、と涼しげな、だが確実に何かの物理法則を無視した音を立てた。

 丈一郎は、胃の辺りがキリキリと痛むのを感じながら、重い腰を上げた。


 「……分かったよ、作ればいいんだろ、作れば。ただし、二百万の報酬はもう、ローンの支払いやらモモの高級カリカリ代やらで消えかかってるんだ。贅沢なもんは期待するなよ」


 丈一郎は店の奥、雨漏りのシミが残る台所へと向かった。

 あかりという「制御不能」が持ち込んだ白檀の香りと、モモの不機嫌な唸り声。


 「……ったく。神様だかストーカーだか知らねぇが、うちの入店規約を三回読み直してこいっつの。……『お一人様一品以上の注文、および過度な神格化はお断り』だ」


 丈一郎は、ガスコンロに火を点けた。


 この女は、この前の戦いで丈一郎がぶちまけた「生活臭」に負けたのではない。

 負けることで、その泥臭さに「依存」することに決めたのだ。


 完璧な静寂の中にいた聖女が、生まれて初めて見つけた不快な、だが中毒性のあるノイズ。 


 それが、環丈一郎という男の日常だった。


 「環さん。その包丁を握る背中、少し丸まっていますよ。……後で私の法力で、背骨の歪みを強制的に矯正してあげましょうか? 音を立てて真っ直ぐになりますよ」


 「……それ、絶対ボキボキに折れるやつだろ。拒否する。俺の腰痛は俺の歴史だ、勝手に弄るんじゃねぇ」


 丈一郎は冷蔵庫から、昨日スーパーの半額セールで手に入れた小松菜と厚揚げを取り出した。聖女の狂信的な執着を、厚揚げの煮浸しでいなせるかどうか。

 黄金のバングルが、気のせいか「そんなもん食わせるなよ」と言いたげに、鈍く、悲しげに光ったような気がした。


 聖女の食卓。


 それは救済の儀式ではなく、丈一郎の胃袋と精神をじわじわと削り取る、終わりなき戦いの始まりだった。




 「……はい、お待ち。贅沢は敵だ、文句を言わずに食え」


 丈一郎がカウンターに乱暴に置いたのは、スーパーの半額シールが剥がれかけたパックから移し替えられた厚揚げと、やや鮮度の落ちた小松菜の煮浸し、そして昨日の残りの冷や飯だ。 


 美食や聖なる供物とは程遠い、生活感の結晶のような茶碗があかりの前に並ぶ。

 湯気と共に立ち上るのは、洗練された白檀の香りを真っ向から否定する、安っぽい醤油と出汁の混ざり合った「家庭の匂い」だった。


 あかりは、その「茶色の塊」を、まるで未知の惑星から飛来した危険な有機体でも見るような、異様なまでの真剣な眼差しで見つめた。


 「……これが、『厚揚げ』というものですか。外側は油という名の試練を潜り抜け、内側は依然として沈黙を守る豆腐の変異体。……環さん、この盛り付けには、あなたの『面倒くさい、一刻も早く帰れ』という負の感情が、見事なまでに不協和音として乗せられています。素晴らしいわ、私の胃壁が早くも拒絶反応……いえ、魂の歓喜に震えています」


 「褒めてねぇだろ。いいから、食うなら食え、食わないならその数珠を持って即座に外に出ろ。俺はこれから、一冊千五十円で買い取った昭和のアイドルの写真集……じゃなかった、貴重な歴史資料の検品をしなきゃならんのだ」


 あかりは、箸を手に取る所作すら、まるで国宝を扱う儀式のように優雅だった。

 彼女が厚揚げを慎重に口へと運ぶ。


 その瞬間、じゅわりと染み出した出汁の塩分と、微かな「スーパーの特売日」の気配が、彼女の纏う高潔な魔力と真っ向から衝突した。


 「……っ!? ……なんという、暴力的な味……。不純物がこれでもかと混じり合い、醤油の塩辛さが、私の高潔な味覚を土足で踏み荒らしていく……。でも、不思議です。……この不快な刺激が、心臓を直接叩かれているようで……もっと、奥まで汚されたいという衝動が止まりません……」


 「怖いこと言うなよ! ただの煮浸しだ! 醤油と砂糖と、俺の投げやりな味付けのせいだっつの。大体、そんな恍惚とした顔で厚揚げを食うんじゃねぇ」


 あかりの陶器のような頬が、微かに、だが確実に上気していくのを、丈一郎は引き攣った顔で見守る。

 その隣で、モモが「ナッ(我には鰹節を寄越せと言っておろうが)」と、あかりの足元をわざと横切り、法衣の裾にわざとらしく三毛の毛を擦り付けていた。

 

 かつて術式を喰らった土地神としての意地なのか、それとも単に「この女より自分を優先しろ」という飼い猫としての露骨な独占欲なのか。


 「……ちょっと、モモさん。私の神聖な法衣に、抜け毛という名の『情報』を植え付けないでください。環さん、見てください。私の純白の裾が、三色で汚染されました。……ああ、でも、この猫の毛すら、今の私には『心地よい汚れ』に感じてしまう……。調律師としての私が、あなたの生活臭によって根底から崩れていく……!」


 「……崩れるなら外で崩れてくれ。モモ、お前もだ。相手にするなと言っただろ。……おい、あかり。お前、さっきから煮浸しを食ってるのか、それとも自分のごうと戦ってるのか、どっちなんだよ。食事が喉を通ってねぇぞ」


 「両方です、環さん。私は今、あなたの提供した『残酷な現実』を摂取することで、自分の中にあった無菌状態の『理想』を破壊しているのです。……ふふ、あはは! 見てください、醤油のシミが、私の指に! これが、あなたが毎日触れている、世界の垢なのですね! 洗っても落ちない、執着の証!」


 あかりは、煮汁が一滴跳ねた自分の指先を、まるで宝石でも眺めるように狂おしそうに見つめている。


 その瞳に宿る光は、丈一郎を戦慄させた「略奪者」のそれだ。

 彼女にとって、このボロい古本店での食事は、聖なる巡礼などではなく、自らを泥に染め、丈一郎という「汚れ」に同化するための、極めて背徳的な儀式に他ならない。


 「……狂ってやがる。二百万の分け前を寄越せって強請られた方が、まだ精神衛生上マシだったぞ」


 丈一郎は溜息をつき、逃げるように店の奥から持ち出した検品用の段ボールを開けた。

 中から出てきたのは、ページが変色した古い冒険小説や、誰かの書き込みが残る実用書。

 あかりの言う「価値のない、ゴミのような情報の残骸」だ。


 丈一郎は古びた紙の匂いを嗅ぎ、指先につくインクの汚れを確認する。その一円にも満たないような泥臭い作業こそが、彼を「神の楽園」から繋ぎ止め、現世に留めておくための錨だった。


 「……環さん。その、紙の焦げたような、カビのような死の匂い。……私にも、嗅がせてください。あなたの脳を支配している、その古ぼけたノイズを、私と共有するのです」


 「来るな! お前の鼻にこの埃を吸わせたら、また店を勝手に浄化しようとするだろ! 立ち入り禁止だ、そこから一歩も動くな!」


 「拒みません。あなたの埃、あなたの汗、あなたの世知辛い家計簿の溜息……すべて、私の旋律に組み込んでみせます。……ああ、次の週末は何を作ってくれるのですか? コンビニエンスストアという場所の『おにぎり』という概念も、一度、私の舌で汚染してみたいものです。海苔のパリパリという音が、私の聖域を切り裂くのが目に見えるようです」


 「来週も来るつもりかよ……! 誰か、この女をどっかの寺に閉じ込めてくれ……!」


 丈一郎の絶叫が、五月の爽やかな青空に空虚に響き渡った。

 カウンターでは、聖女が厚揚げを「禁断の果実」のように慈しみ、三毛猫が不機嫌に尻尾でリズムを刻み、店主は持病の腰痛を抱えながら、終わらない日常と格闘していた。

 

 平和な休日は、あかりという「最強」によって、完全に別の方向へと加速する、世知辛い日常へと塗り替えられていた。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

物語の熱量はいかがでしたでしょうか。

ここからはさらに予測不能な展開へと突き進んでいきます。


すでに単行本一冊分を優に超えるストックがありますが、二人の旅の終着点はまだまだ先。

 皆様の感想や評価、ブックマークが、彼らをより遠く、より高くへと走らせるための最高の「ガソリン」になります。

「更新が待ちきれない!」と思っていただけるよう、全開の熱量で書き進めていきます。

ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として応援よろしくお願いいたします!

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