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第二十ニ話 迷い子(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。


皆様からいただく感想やブックマークは、二人が困難を乗り越え、より遠くへ進むための最高の「ガソリン」になります。

「この先、一体どうなるんだ!?」と手に汗握る展開をお届けしていきますので、ぜひ引き続き二人の旅を特等席で見守っていただけると嬉しいです!


 丈一郎の拳に纏った三連の環が、看板野郎の胸部にある「徐行」の鋼鉄板を粉砕した。


 「ガッ、シャァァァンッ!」


 超高速回転が生み出す摩擦熱が、鉄を飴細工のように赤く焼け落ちさせ、爆ぜた火花がモノクロームの霧を黄金色に焼き払う。


 だが、手応えが軽すぎる。


 粉砕された胸部の空洞から溢れ出したのは、生命の証である血ではなかった。

 それはドロドロとした黒い墨のような、濃縮された「迷い」の感情そのものだ。


 「……チッ、中身はただの不法投棄物かよ。分別もされてねぇな」


 丈一郎は空中で身を翻すが、化け物はその空洞から、今度は無数の「一方通行」の矢印を触手のように突き出してきた。

 鋭利な金属の先端が、逃げ場を塞ぐように全方位から丈一郎を包囲する。


 「キィィィィィン――!」


 丈一郎は即座に五枚のリングを自分の周囲に球状に展開し、それらを瞬時に連結させる。


 「カシャンッ!」


 黄金の幾何学模様が「盾」となり、金属の触手を受け止める。

 だが、衝撃までは殺せない。凄まじい質量に押され、丈一郎の体は固定された空間ごと後方へと弾き飛ばされた。

 石畳をバウンドしながら転がる丈一郎。


 「……っ、ハァ……ハァ……。腰が、マジで爆発しそうだ……」


 冷徹な瞳の奥で、世俗的な苦痛が火花を散らした。意識が遠のきかけるが、鼻を突く「焼けた鉄の匂い」と、背後で悠然と座る三毛猫の放つ、あの傲慢な気配が彼を現実に繋ぎ止める。

 前方を見れば、看板野郎の姿が完全に変貌していた。


 胸の空洞から溢れ出した墨が、周囲の瓦礫を飲み込み、さらに巨大な「座標の渦」へと膨れ上がっている。

 もはやそれは個体の化け物ではない。


 この「存在しない街」そのものが、巨大な一つの意思となって丈一郎を圧殺しようとしていた。

 周囲の建物が、まるで洗濯機の中に放り込まれたようにグニャリと捩じれ、丈一郎の全方位から迫りくる。


 逃げ場はない。


 上も下も、もはや座標としての意味を成していない。


 「ナッ(終わらせろ。腹が減った)」


 背後で、モモが退屈そうに喉を鳴らした。

 彼女は、崩壊し始めた異界の真ん中で、まるで陽だまりにいるかのように悠然と座っている。


 モモの足元だけは、どんな座標の歪みも通さない「絶対的な土地の真実」が、黄金の光を帯びて踏み止まっていた。

 丈一郎は、血の混じった唾を吐き捨て、ゆっくりと、だが確実に立ち上がった。


 「……五百万だ。五百万の仕事だぞ。……ここで死んだら、モモに鰹節一袋も買えねぇじゃねぇか。環家の恥だ」


 彼の瞳から、最後の人情が消えた。


 バングルに残された全エネルギーを、一点に集中させる。


 空中に漂っていた数千のリングが、丈一郎の頭上に集結し始めた。

 それらは連結され、巨大な、物理法則を度外視した「鐘」の輪郭を形作っていく。


 「……環家伝来の空間操法見せてやるよ」


 丈一郎が、地を蹴った。


 リングを足場にするのではない。彼は「空間そのものを掴む」ように、空を切った。


 「ドォォッ!」


 背後で空気が爆ぜ、その推進力だけで丈一郎は音速を超えた。

 巨大な座標の渦の中央、看板野郎の「核」に向けて、丈一郎は一直線に突っ込む。


 迫りくるビルの一部、しなる電柱、降り注ぐ標識の刃。

 それらすべてを、彼は拳のリングを盾にするのではなく、最小限の体捌きだけで「いなして」いく。


 「キィィィィィン」


 リングの鳴き声が、ついに一つの澄んだ和音に変わった。

 丈一郎の拳が、敵の核、「存在しない街」の起点となっている、一枚の古びた『番地プレート』を捉える。


 「お前の住所は、ここじゃねぇよ。ゴミ箱だ」


 拳に纏った三枚のリングが、一気になだれ込み、敵の核を物理的に「握り潰す」ように噛み合った。

 一分間に数万回転する黄金の穿孔が、異界の意思そのものを貫通し、無理やり「現実」の座標へと書き換えていく。


 瞬間、世界が静止した。


 看板野郎の巨大な腕が、丈一郎の鼻先数ミリで動きを止める。


 次の刹那。


 「ドォォォォォォォンッ!」


 異界を構成していたすべての質量が、内側から爆発した。

 黄金の閃光がモノクロームの世界を真っ白に塗り潰し、あらゆる歪みを「元の空白」へと叩き戻していく。


 真っ白な閃光が網膜を焼き、強烈な浮遊感が丈一郎を包み込んだ。

 平衡感覚が仕事放棄を決め込み、胃の腑がせり上がるような不快感が喉元まで迫る。

 

 だが、その最悪の感覚こそが、彼にとっての「帰還」の合図だった。


 「……げほっ、……ごほっ! クソ、鼻の奥が焦げ臭ぇ……。鉄を焼いた後の、あの嫌な匂いだ」


 目を開けると、そこはモノクロームの異界ではなかった。

 鼻を突くのは、カビ臭い古本の匂いと、安タバコの染み付いたヤニの香り。


 そして、早朝にガムテープで塞いだはずの段ボールの隙間から吹き込む、五月だというのに妙に冷ややかな熊本の隙間風だ。


 「……戻った、のか。……五月晴れなんて、俺には縁のない空だな」


 丈一郎は、剥げた合板の床に大の字になって横たわっていた。

 全身の筋肉が鉛のように重く、特に腰は、誰かが中で金槌を振り回しているのではないかと思うほどの激痛を訴えている。


 左腕の黄金のバングルは、使い古された電球のように鈍く曇り、すっかり熱を失っていた。


 「ナッ(遅いぞ、下僕)」


 すぐ耳元で、冷ややかな、だが聞き慣れた鼻鳴らしが聞こえた。

 視線を動かせば、そこには一ミリの汚れも増えていない三毛猫が、当然のような顔をしてカウンターの上に戻っている。


 モモだ。


 異界で放っていたあの神々しいまでの威圧感はどこへやら、今はただの「腹を空かせた、目つきの悪い居候」にしか見えない。


 「……お前、よくもまあ、ちゃっかり戻ってきやがって。……少しは主人を労わるとか、そういう殊勝な心掛けはねぇのかよ」


 丈一郎は這うようにして上半身を起こし、カウンターの隅に置かれた、埃を被った黒電話へと手を伸ばした。

 受話器を持ち上げると、指先にずっしりとした、時代遅れの鉄の重みが伝わる。


 ダイヤルを回すたび、ジコジコと古めかしい機械音が、静まり返った店内に響き渡った。


 『――俺だ』


 「……爺さん。……掃除は終わったぞ。ゴミ箱に、不燃ごみとして叩き込んどいた」


 『おお、丈一郎か。ご苦労だったな。なかなかの難物だったろう? あのレベルの書き換え能力を持つ怪異なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃない』


 「難物なんてレベルじゃねぇよ。腰がいかれた。……で、例のブツだ。五百万、きっちり振り込んでくれるんだろうな?」


 電話の向こうで、爺さんが楽しそうに、そして極めて不吉に喉を鳴らす気配がした。


 『もちろん、約束は守る。だが丈一郎、世の中には「諸経費」という言葉があってな。今回の案件を回した私の仲介料が三割で百五十万。それから、お前が「どうしても必要だ」と言って落札させた、あのボロボロの古写本の代金が百二十万。さらに……』


 「……おい、待て。ちょっと待て。……計算がどんどんおかしくなってるぞ。おい、爺さん!」


 丈一郎は震える手で、レジ横の裏紙に数字を書き殴った。

 五百万。そこから仲介料が引かれ、借金の返済が引かれ、さらに過去のツケやら何やら。


 「……手元に残るの、二百万切ってんじゃねぇか! あの死闘の報酬が、これかよ!」


 『はっはっは、何を言う。その二百万があれば、当分の猫の飯代と、お前の安酒代には困らんだろう? 』


 ガチャリ、と一方的に電話が切れた。


 丈一郎は、受話器を握ったまま白目を剥いた。二百万。確かに大金だが、今回の「掃除」で負った精神的ダメージと、あまりにも割に合わない。


 「……モモ。あの発禁古写本「幕末美少女街角百人」を売るべきかな?」


 カウンターの上で、四千五百円の最高級鰹節をガツガツと食っているモモに問いかけるが、当然、返事はない。

 ただ、満足げに尻尾を振り、一粒の無駄もなく平らげているだけだ。


 丈一郎は、最後の一本になった安タバコに火をつけた。


 「……二百万か。……まあ、いい。壁の修理代を払っても、少しは貯金に回せる……」


 「あ、……ッ、げほっ、ごほっ!」


 丈一郎は煙に咽せ、激しく咳き込んだ。


 「モモ、おい、ご利益はどうした、土地神スペシャル御利益!!」


 モモは、皿を綺麗に舐め終えると、一言「フンッ」と鼻で笑い、さっさと二階の万年床へと避難していった。


 「……あー、クソ。腰が痛ぇってのに、休む暇もありゃしねぇ」


 丈一郎の怒声が、五月の青空の下、寂れた商店街に虚しく響き渡る。



 ああ、五百万……

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