第二十一話 迷い子(前編)
腰が痛い。
無理な姿勢であかりの放った数珠を受け止めた報いだ。
おまけに朝から四千五百円を「猫の飯」に溶かした。
古本屋の主なんてのは、もっとこう、日の当たる縁側で茶でも啜りながら「漱石の初版が云々」と高尚な話に花を咲かせる商売じゃなかったのか。
現実はカビとヤニと、湿った段ボールの山。
そして、目の前には、現実の地図からは消去されたはずの、狂った場所だ。
あー、早く帰って酒が飲みてぇ。
「キィィィィィィィィン!」
鼓膜を削り取るような高周波が、モノクロームの霧を円形に押し広げた。
丈一郎の体は、慣性の法則を嘲笑うように垂直に跳ね上がっている。
十枚、二十枚と、空中に固定された黄金のリング。それは虚空に打ち込まれた「目に見えない鋼鉄の足場」だ。
眼下では、置いていかれたモモが不満げに鼻を鳴らしている。
だが、丈一郎に構っている余裕はない。
見上げれば、霧の天井を突き破らんばかりの巨躯、街灯のパーツを継ぎ接ぎし、交通標識を鱗のように纏った「門番」が、その巨大な鉄柱の腕を振り下ろそうとしていた。
丈一郎の瞳から温度が消える。
空中、地上から十メートルの地点。彼は何も無い空間にリングを固定して、床でもあるかのように強く蹴り抜いた。
「ドォッ!」
火花が散り、衝撃波が霧を吹き飛ばす。
振り下ろされた鉄柱が、丈一郎がコンマ一秒前までいた空間を無慈避に粉砕した。
「カシャァァァンッ!」と、石畳が爆ぜる音が奈落から突き上げてくる。
もし今の回避が遅れていれば、丈一郎の体は今頃、アスファルトにへばりついた不格好なシミになっていただろう。
空中を滑るように移動し、丈一郎は垂直の壁に張り付くような角度で別のリングを固定し、そこに着地した。
「……危ねぇな、おい」
丈一郎は低く構えた。
周囲の景色を、脳内の演算回路がミリ単位でグリッド状に切り分けていく。
右前方の石畳、三度。左後方の霧、二度。
そこにあるのは「捩れ」だ。この異界では、目に見える距離が正解とは限らない。
一歩踏み出せば、数キロ先に飛ばされることもあれば、無限に同じ場所を歩かされることもある。
「街そのものが、自分の存在を証明しようと足掻いてやがる」
丈一郎は、左手首のバングルを指先で弾いた。黄金の環がバングルから音もなく滑り出し、彼の周囲を衛星のように低速で回転し始める。
丈一郎は空中から地表へと、重力を無視して斜めに突き進んだ。
着地と同時に掌を地面に叩きつける。
カシャン、と小気味よい音が四回重なった。分裂した四枚のリングが、四方十メートル先の地面へと深く、杭のように突き刺さる。
その瞬間、不気味に蠢いていた周囲の石畳が、まるで巨大な重石を置かれたようにピタリと静止した。
丈一郎を中心とした半径十メートルだけが、この狂った異界から強引に切り離された「確定した現実」へと固定されたのだ。
「……ふぅ。これでようやく、足元を気にしなくていい」
丈一郎はヨレヨレの半纏の襟を正し、鼻をすすった。
対峙する標識の化け物は、自分の「領土」を侵食されたことに憤るように、顔面の「進入禁止」を毒々しく点滅させた。
おびただしい数の標識が擦れ合い、金属の鳴き声が霧に反響する。
その体表に埋め込まれた「一時停止」や「徐行」の看板が、丈一郎の動きを呪縛しようと、空間そのものに圧力をかけ始めた。
「ナッ」
モモが、丈一郎が固定した安全地帯の内側で、悠然とあくびをした。
昨夜のあかりとの一戦、そして先ほどの高級鰹節の摂取。
こいつに手伝う気など一ミリもないらしい。
「……黙ってろ。今からこいつを片付けて、五百万の領収書を切るんだ。……鰹節どころか、お前の寝床を金糸のクッションにしてやるよ」
丈一郎は、手の中で脈動する「古地図」をチラリと見た。
地図に描かれた墨が、黒い血のように滲み出し、丈一郎の指を汚している。
この化け物は、地図の核、空間のズレそのものだ。こいつを「掃除」しなければ、この街から出ることは叶わない。
「さあて……」
黄金の環が、攻撃的な輝きを帯びて回転を加速させる。
異界の静寂を、バングルの唸り声が切り裂く。丈一郎は一歩、踏み出した。
その足音が石畳に響く瞬間、周囲の霧が恐怖に震えるように霧散した。
「一円の妥協もなしだ。……いくぞ、看板野郎」
丈一郎の構えが、静から動へと転換する。黄金のリングが、彼の意思に呼応して空間の断層を切り刻み始めた。
世知辛い家計簿を背負った男の、慈悲なき蹂躙が、今まさに幕を開ける。
「進入禁止」の赤い光が、霧を切り裂く脈動となって爆ぜた。
それを合図に、モノクロームの街そのものが丈一郎を噛み砕こうと牙を剥く。
歪んだ電柱が、物理法則を無視して鞭のようにしなり、丈一郎の頭上から不気味な質量を持って振り下ろされた。
「……ちっ、一括解体かよ」
丈一郎は吐き捨て、地面を滑るような低い歩法で踏み込んだ。
頭上から降り注ぐコンクリートの破片。彼はそれを見上げることさえしない。
左腕のバングルから放たれた三枚の環が、彼の背後で精密な正三角形の陣形を組み、空中の三点を強引に「静止」させた。
「キィィィィィン!」
鼓膜を刺す高周波が響き、固定されたリングが防壁となって、瓦礫の雨を激しい火花と共に弾き飛ばす。
火花の一粒一粒が、モノクロームの異界に黄金の軌跡を描いた。
その隙に、丈一郎は看板野郎の懐へ、文字通り潜り込んでいた。
巨躯に似合わぬ速度で、化け物の右腕、無数の標識を継ぎ接ぎした巨大な鉄柱が、真横から丈一郎の脇腹を狙って薙ぎ払われる。
丈一郎は膝を深く折り、独楽のような回転でその衝撃をいなした。
回転の最中、彼の視界には敵の構造が透けて見えている。
どこを支点にすれば、この巨体をひっくり返せるか。家計簿の計算よりはるかに複雑な、だが彼にとっては慣れ親しんだ演算だ。
「カシャンッ!」
回転の遠心力を利用し、分裂したリングを敵の肘関節にあたる接合部へ、スライドするように連結させる。
黄金の環が「籠手」のように敵の鋼鉄の腕を締め付け、そこに現実の重力を無理やり発生させた。
「……重ぇんだよ」
丈一郎は敵の腕を支点に、慣性を無視して真上へと跳ね上がった。
宙空で身を翻し、重力に従って落下する速度を、空中に固定した新たなリングを「踏み台」にすることで、さらに二倍、三倍へと加速させる。
「ドォッ!」
空気を踏み抜く重低音が異界に轟き、衝撃波が霧を円形に吹き飛ばした。
「徐行」と書かれた敵の胸部に、丈一郎の鋭い膝蹴りが突き刺さる。鉄がひしゃげる鈍い音。
だが、手応えは岩のように硬い。化け物は怯むどころか、体表に張り付いた「一時停止」や「追い越し禁止」の看板を一斉に振動させ、精神を掻き乱すような不協和音を放った。
「グ、……ゥ、進入、禁止……止まれ……速度……落とせ……ッ!」
化け物の喉から、掠れた古い拡声器のような声が漏れる。
直後、丈一郎の足元、先ほど黄金の杭で固定したはずの地面が、真っ黒なヘドロのように融解し始めた。
「強制上書きか……!」
丈一郎の顔に、今日一番の険しさが走る。四方に打ち込んだ「楔」が、異界の圧倒的な圧力によって一本、また一本と、耳障りな音を立てて弾け飛んでいく。
現実を繋ぎ止めていた黄金の光が霧散し、絶対的な足場が消える。
丈一郎の体が、底なしの闇へと沈み込もうとしたその時だ。
「ナッ!」
背後で、モモの声が響いた。
それは甘えた猫の鳴き声ではない。地鳴りのような、低く響く叱咤の音。
彼女が前足で石畳を叩いた瞬間、融解しかけていた空間が「元のボロさ」を伴って強引に再構築された。
泥の沼が、カビ臭いアスファルトと、丈一郎が毎日掃き掃除をしているはずの湿った石畳に、物理的な質量を持って回帰する。
土地の神が、侵略者に対して「ここは私の家だ」と宣言したのだ。
「助かる。後で鰹節、もう三掴み追加してやるよ。……あー、いや、三掴みは多いな。一つまみだ」
丈一郎は着地と同時に、止まることなく次の一歩を刻んだ。
今度は、逃がさない。左腕のバングルが、限界を超えた共鳴音を立てて熱を持ち始め、半纏の袖を焦がす。
分裂したリングが、不規則な軌道で看板野郎の四肢を包囲し、それぞれの空間座標を強引にロックしていく。
「止まるのは、お前だけで十分だ」
丈一郎の瞳が、さらに深く、冷徹な青へと沈む。化け物は再び鉄柱を振り上げるが、黄金の鎖となったリングがその可動域を奪い、空間に釘付けにする。
丈一郎は拳に三枚のリングを纏わせた。
火花を散らしながら、一分間に数万回転という超高速で回り始める黄金の穿孔。
「……いくぞ。これ以上は、俺の集中力の在庫切れだ」
丈一郎の体が、光の矢となって看板野郎の胸角へと突き進む。
激突の瞬間、異界の空が、黄金の火花と鉄が焼ける匂いで真っ白に染め上げられた。
【作者より】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
物語の熱量はいかがでしたでしょうか。
ここからはさらに予測不能な展開へと突き進んでいきます。
すでに単行本一冊分を優に超えるストックがありますが、二人の旅の終着点はまだまだ先。
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「更新が待ちきれない!」と思っていただけるよう、全開の熱量で書き進めていきます。
ぜひこれからも、二人の旅路の目撃者として応援よろしくお願いいたします!




