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第十九話 神様の食卓は高くつく(前編)

 奇跡なんてのは、安売りのスーパーのチラシに載ってる「たまご一パック九十八円」くらいの頻度で起きるからありがたみがあるんだ。

 一晩のうちに家が神殿にリフォームされ、長年連れ添った三毛猫が神々しい光を放ってるなんてのは、奇跡じゃない。ただの「天災」だ。

 ……世の中、神様を敬うってのは、結局のところ「財布との相談」なんだと痛いほど思い知らされた朝だった。


 「……っ、い、痛ぇ……。腰が、腰がバラバラだ」


 丈一郎は、剥げた合板の床に這いつくばったまま、一晩中酷使した筋肉が奏でる悲鳴をBGMに目を覚ました。

 視界に入るのは、見慣れた、そして最高に薄汚い「環古書店」の天井だ。


 昨夜、あかりという嵐が持ち込んだ、あの神々しいばかりの漆喰壁も、幾何学的な曼荼羅模様も、文字通り「夢か幻」のように消え失せていた。

 鼻を突くのは、高級な白檀の残り香ではなく、丈一郎が撒き散らした安タバコの灰と、いつものカビ臭い「古本屋の臭い」だ。


 だが、一点だけ、魔法が解けても元に戻らなかったものがある。


 「……寒ぃんだよ、クソ。あのバカ女め……」


 視線を上げれば、入り口の脇。


 本来なら頑丈な(といっても建付けの悪い)壁があった場所には、人間が一人余裕で通り抜けられるほどの、無慈悲な「穴」がぽっかりと口を開けていた。

 そこからは、早朝の熊本の、少し湿り気を帯びた容赦ない冷気が「おはよう」とばかりに吹き込んでいる。


 お向かいのクリーニング屋の看板が、皮肉なほど鮮明に見えた。

 丈一郎は震える手で、近くにあった段ボールをバラし、養生テープでその穴を塞ぎ始めた。


 「……これが『掃除屋』の末路かよ。怪異を払って、店を壊して、残ったのは筋肉痛とガムテープの山だ。おまけに金は経費でほとんど消える。やってられっか」


 パチ、パチと虚しい音を立てて段ボールを貼り付けていると、背後から「フンッ」という、鼻で笑うような短い鼻鳴らしが聞こえた。

 ゆっくりと振り返ると、そこにはいつもの傷だらけの木製カウンターの上に、行儀よく座る

一匹の三毛猫がいた。


 モモだ。


 見た目は、どこにでもいる少し目つきの悪い、汚れで白の部分がグレーがかった三毛猫である。

 昨夜、絶体絶命の窮地で、凛とした女性の声と共に空間を上書きし、背後に巨大な獣の影を漂わせたあの「神?」としての威厳は、今は霧のように消散している。


 「……おい。お前、昨日のこと覚えてるか?」


 丈一郎が恐る恐る尋ねるが、モモはただ前脚を優雅に舐めるだけで、一言も発しない。

 昨夜のような、あの澄んだ大人の女性の声が聞こえる様子もなかった。


 だが、その黄金の瞳はいつもより冷ややかで、言葉以上の「圧」を放っている。

 モモは、空っぽになった「安物のカリカリ用」のプラスチック皿を、前脚で「カチャリ」と、無言の圧力をもって叩いた。


 「『ナッ(飯だ)』じゃねぇよ。お前が神様だってんなら、少しは金運でも授けやがれ。壁の修理代、いくらかかると思ってんだよ」


 丈一郎が、昨日買い溜めておいた「大袋・お徳用(小魚入り)」の袋をガサガサと鳴らす。

 いつもなら、この音を聞いただけで尻尾を振って寄ってくるはずのモモが、今日はぴくりとも動かなかった。


 それどころか、あからさまに嫌悪感に満ちた表情で鼻を背け、カウンターの端にある古い水入れの縁を「パシッ」と鋭く叩いたのだ。


 (……嘘だろ。こいつ、喋らねぇ癖に、食い物のレベルだけ『神様級』に据え置いてやがるのか?)


 「……断る、ってか。贅沢言うな、こっちは昨夜から一円も稼いでねぇんだぞ。いいから食え。この小魚、お前好きだったろ」


 言い聞かせようとする丈一郎だったが、モモは静かに立ち上がると、丈一郎が一番大事にしている「初版本の棚」の前へと移動した。

 そして、一冊の背表紙にゆっくりと爪をかけ、こちらをじっと見据えた。


 「待て! ストップ! 爪を立てるな、それ売れたら壁が半分直るんだぞ!」


 「ナッ」


 短く、督促状のような冷たいトーンで鳴くと、モモは悠然とカウンターへ戻り、再び皿を叩いた。

 その目は「本を守りたくば、相応の供物を用意しろ」と雄弁に語っていた。


 「……わかったよ。買いに行きゃいいんだろ、買いに」


 丈一郎は、溜息を吐きながら立ち上がった。


 腰の痛みが走るが、神様の機嫌を損ねて店が文字通りの「更地」になるよりはマシだ。


 「その代わり、後でしっかり『ご利益』について相談させてもらうからな。まずはこの店の在庫ローン完済だ。あと、あのあかりの野郎を物理的に出禁にする強力な結界もセットだぞ。わかったな」


 モモは、期待するなと言わんばかりに尻尾をパタンと一振りし、満足げに目を閉じた。

 ヨレヨレの半纏を羽織り、引き戸を開けると、冬の朝特有の、突き刺さるような冷気が顔を打つ。


 昨日までの「ただの貧乏な古本屋」という日常が、モモが(態度は)神様?だと判明したことで、さらに一段階、タチの悪い「世知辛いファンタジー」へと変貌してしまった。


 「……あー、腰が痛ぇ。……鰹節、いくらするんだろうな」


 丈一郎は、自分の朝飯を抜きにすることを心に決め、商店街の魚屋へと続く道を、力なく歩き出した。

 背後で、ガムテープで補強された段ボールが、風に煽られてパタパタと情けない音を立てていた。


 それはまるで、主人の空っぽの財布を笑っているかのようだった。




 「魚松」の店先で、丈一郎は石像のように固まっていた。


 彼の視線の先にあるのは、氷を敷き詰められた発泡スチロールの上で、冬の薄い陽光を浴びて黄金色に輝く「特選・本枯節」だ。


 「……嘘だろ。一本四千五百円? 冗談じゃねぇ、俺の一週間……いや、十日分の安酒とカップ麺が、この木の棒みたいな塊一つで吹き飛ぶってのかよ」


 店主の松じいさんが、首に巻いた年季の入ったタオルで鼻を真っ赤にしながら、ニヤリと下卑た笑みを浮かべる。


 「なんだよ丈さん、朝から景気がいいじゃねぇか。さては、古本屋の地下から埋蔵金でも掘り当てたか? その調子で、溜まってるツケも払ってくれりゃあ、こっちも助かるんだがな」


 「沸かしてるのは、冷や汗と絶望だけだよ……。これ、包んでくれ。現金だ。領収書はいらねぇ、経費で落ちる気がしねぇからな」


 震える指で四枚の千円札と五百円玉を差し出し、丈一郎は凶器のように重たい鰹節を手に取った。

 手に入れたのは最高級の食材だが、財布の中身は文字通り「空」になった。


 この鰹節一本に、今の俺の財産が詰まっている。

 そう思うと、手に伝わる重みが呪いのアイテムのように感じられた。




 だが、その空虚感は、自分の店「環古書店」の前に辿り着いた瞬間、凍りつくような緊張感へと変貌した。


 商店街の寂れた風景の中で、その車は異彩を放っていた。

 時代錯誤なほどに真っ黒で、威圧感のある巨大な高級車。

 その車体からは、排気ガスの匂いではなく、古びた鉄と、空間を強引に圧し潰すような、重く鋭い気配が漂っている。


 「……っ、この気配……まさか」


 丈一郎の左手首が、無意識に服の上からバングルを庇うように動く。

 黄金の環が、微かな共鳴音を立てている気がした。

 後部座席の窓が音もなく滑り落ち、中から現れたのは、仕立てのいい上質なコートに身を包んだ、九重ここのえの爺さんだった。


 「……よぉ、丈一郎。朝から随分と贅沢な買い物をしているじゃないか」


 「……爺さん。わざわざ山を降りてきたのかよ。死神の送迎車かと思ったぜ」


 環九重は、丈一郎のバングル操法の師であり、叔父である。環一族の変人だ。彼が山を降りてくる理由は一つしかない。


 「約束を忘れるような痴呆には、直接取り立てに来るのが一番確実でな。……禁書の写本だ。今すぐ出せ。それを持って、俺はこれから『客』のところへ向かわねばならん」


 丈一郎は溜息をつき、ガムテープだらけのシャッターを開けて師匠を店内に招き入れた。

 店内に入った九重は、四方あかりに壊され、段ボールで無様に補修された壁を一瞥し、深く、軽蔑を込めた息を吐いた。


 「……無様だな、丈一郎。我がお前に叩き込んだ『操法』は、空間を固定する術であって、店をガムテープで補強する術ではないぞ。お前の戦い方は、やはりまだ『暴力』の域を出ておらん。座標を書き換えるだけの、安っぽい手品だ」


 「……面目ねぇよ。相手が、あの『数門すもん』の連中だってのは、爺さんも察してるだろ?」


 丈一郎はレジの奥、厳重に保管していた江戸中期の写本を取り出し、九重の前に恭しく差し出した。


 「数門、か。……ああ、奴らが使う法具のいくつかは、俺が山で叩き直してやったもんだからな。……あかり、と言ったか。その娘の噂は聞いている。数門の中でも『潔癖』で通っている娘だ。一度狂った楽譜は、最後まで書き換えないと気が済まない。彼女にとって、お前という『音』は、一生をかけても消し去るべき不協和音か、それとも別の何かに見えているだろうよ」


 九重は写本を丁寧に風呂敷に包むと、カウンターの上で澄ました顔をして座っているモモに視線を向けた。


 「……ほう、環家が、この土地を博打のカタに取った時から居座っている三毛が、ついに『目覚めた』か。土地の記憶を食いすぎて、腹でも壊したか?」

 

 カウンターの上のモモは、九重の問いかけに言葉で返すことはしない。

 だが、その態度は平時とは明らかに違っていた。


 九重が放つ、研ぎ澄まされた刃物のような「鉄の匂い」が気に入らないのか、モモは短く「フンッ」と鼻を鳴らすと、プイと横を向いて、鋭い爪をカウンターの木目に突き立てた。

 昨夜、凛とした女性の声で「土地神」としての残滓が、モモの黄金の瞳の奥でゆらりと揺れている。


 「……神様気取りか。いいか、丈一郎。勘違いするなよ。この三毛はあくまでこの『土地』の主だ。お前の左腕にある『歪み』を直すための道具じゃあない。三毛とバングルは、いわば水と油……。土地の霊気と、次元の楔を混同すれば、次はお前の腕ごと弾け飛ぶぞ」


 「分かったよ。……あー、クソ。ストーカー気質の聖女に、美食家の土地神。爺さん、あんたまで俺の在庫を毟り取りに来るなんて、今日は本当に厄日だ」


 「だったら、その厄を払う分を稼げ」


 九重は、コートのポケットから一枚の、黒ずんだ羊皮紙を取り出し、カウンターの上に放った。


 「……北の資産家が秘蔵していた『古地図』だ。描かれたはずの街道が夜な夜な胎動し、住人を一人ずつ『存在しない街』へと連れ去っている。……ただのシミ抜きではない。歪みを、そのバングルで叩き直せ。……成功すれば、そうだな……現金で五百万だ。……写本の物納で修理代はチャラにしてやるが、この仕事の仲介料はきっちり頂くぞ。なにせ、俺はこの写本を、今から『日本政府』の幹部に届けに行かねばならんのでな」


 丈一郎は、差し出された古地図の、不気味に脈動するような質感に触れ、思わず指先を引っ込めた。


 「……五百、か。……爺さん、あんたも相変わらず、ろくでもねぇ仕事ばっかり持ってるな」


 「最高の男には、相応しい仕事が舞い込むものだ。……精進しろ、未熟者が」


 九重は不敵な笑みを残すと、漆黒の高級車へと戻っていった。

 再び静まり返った店内に、冬の朝の冷たい風が、壁の穴から吹き込んでくる。


 丈一郎は、手元に残された古地図と、四千五百円の鰹節を交互に見つめ、深く、深い溜息を吐き出した。


 「……あー、腰が痛ぇ。……モモ、お前、先祖の代からいたのかよ。少しは家賃、手伝ってくれてもよかったんじゃねぇか?」


 カウンターの上のモモは、答える代わりに、早く削れと言わんばかりに尻尾で丈一郎の腕をパシリと叩いた。

 あかりの影、師匠の不穏な客筋、そして手の中で蠢く未知の地図。


 丈一郎の日常は、安ビールの泡よりも早く、混沌という名の泥水に呑み込まれようとしていた。

【作者より】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

いかがでしたでしょうか。

ここからさらに密度を増し、物語は熱く広がっていきます。


皆様から届く感想やブックマーク、評価のひとつひとつが、彼らをより遠くへ走らせるための何よりの「ガソリン」になります。

「早く続きが読みたい!」と思っていただけるよう、全開で執筆していきますので、ぜひ物語の同行者としてこれからも応援よろしくお願いいたします!

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