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第十八話 神様お断り(後編)

【作者より】

本日も数ある作品の中から本作を開いていただき、ありがとうございます。

丈一郎とモモの旅路はさらに加速し、物語は熱を帯びて広がっています。


読者の皆様からいただく感想やブックマークこそが、僕がペンを走らせるための最高の「ガソリン」です。

「この先の展開も気になる!」と思っていただけるよう全力で執筆していきますので、ぜひ二人の旅の同行者として、末永く応援していただけると嬉しいです!


 あかりは、砕け散った翡翠の茶碗の破片を、感情の読み取れない瞳で見つめていた。

 やがて彼女はゆっくりと視線を上げ、丈一郎を射抜いた。


 その瞳には、もはや「迷える子羊を導く」ような慈悲の色はない。


 代わりに宿っていたのは、極上の楽器が自分の意図しない音を奏で、あろうことか演奏者を否定し始めたことへの、冷徹な「調律」の意志だった。


 「……残念だわ、環さん。あなたのその『汚れ』への執着は、もはや救いようのないやまいね。聖なる静寂を拒み、自ら濁流に身を投じて、その汚泥こそが自分の居場所だと叫ぶ……。ならば、一度その魂を粉々に砕いて、塵ひとつない状態から組み直すしかないようね。それが私の、あなたへの最後の慈悲よ」


 あかりが静かに立ち上がると、店内の「聖域」が彼女の怒りに呼応するように激しく咆哮した。

 純白の壁から無数の銀色の数珠珠が浮き上がり、弾丸のような速度で丈一郎をめがけて射出される。


 一つ一つが空間を穿つほどの高密度な呪力を帯びた、物理的な「拒絶」の雨だ。

 触れれば骨ごと粉砕され、その痕跡すら浄化されて消え去るような、容赦のない攻撃。


 「モモ、隠れてろ! 巻き込まれたら鰹節どころじゃ済まねぇぞ!」


 丈一郎は叫び、左腕を前に突き出した。


 真っ黒に淀んだ黄金のバングルが、丈一郎の「生活の意地」を吸い込み、ドロリとした重低音を響かせながら猛烈に回転する。

 射出された数珠珠がバングルの周囲に展開された不可視の「淀みの膜」に触れた瞬間、パチパチと不快な音を立ててその光を失い、ただの鉛の粒となって床に転がった。


 「舐めるなよ、あかり! あんたの神様は、確定申告の苦しみも、カップ麺の底に溜まった粉末スープの不味さも知らねぇんだからな!」


 「ギギ……ギギギギギ……ッ!」


 霊木が悲鳴を上げる。


 あかりが無理やり着せ替えた「神聖な皮」が、内側から膨れ上がり、ボロボロと剥がれ落ちていく。

 棚の奥底に眠っていた、誰にも読まれず、ただそこに在ることで歴史を積み重ねてきた数万冊の古本たちの『退屈な叫び』。


 それが丈一郎のバングルを介して増幅され、あかりの聖域を物理的に腐食し始めた。


 「……私の術式が、浸食されている? 嘘よ、こんな……価値のない、ゴミのような情報の残骸に、私の旋律が汚されるなんて!」


 あかりが初めて、その完璧な表情を崩し、屈辱に顔を歪めた。

 彼女が誇る「高潔な旋律」は、あまりに洗練され、無駄を削ぎ落としすぎていた。ゆえに、丈一郎が撒き散らす「意味を持たない、ただそこにあるだけの汚れ」という圧倒的な物量の無秩序カオスに対して、どう対処していいか術式が判断を放棄し始めていたのだ。


 正論は、屁理屈と生活臭の暴力には勝てない。


 「価値があるかないかを決めるのは、あんたじゃない! この店で汗水垂らして、埃に塗れて働いてる俺だ!」


 丈一郎は一気に踏み込んだ。


 足元の黒檀は、彼の足音一つごとにヒビが入り、その下からいつもの、安っぽくてあちこちが剥げた合板の床が露出していく。

 その「馴染んだ感触」こそが、丈一郎に確かな力を与えていた。


 彼は、あかりの胸元、すべての術式の核となっている銀の数珠を真っ向から指差した。

 バングルから放たれた黒いノイズの奔流が、ドリル状に渦を巻き、あかりの周囲に展開された「絶対的な静域」を強引に削り取っていく。


 「『強制現状復帰』だ!! 俺という存在の壁は厚いんだよ、覚えておけ!!」


 それは、もはや「技」ですらなかった。


 借りたものは返し、壊したものは元通りにする。社会人として、そして先祖への不義理を死ぬほど恐れる店主としての「切実すぎる義務感」が、あかりの超越的な魔術を物理的に上書きしていく。生活者の怒りは、神の裁きよりも重いのだ。


 「……やめて! 来ないで! 私の、私の完璧な音が……生活の匂いで汚される……!」


 あかりが叫び、数珠を両手で包み込んだ。


 だが、丈一郎の放った「生活の重圧」は、彼女の指の隙間をすり抜け、銀の数珠の一つ一つに、まるで「頑固な油汚れ」をつけるようにドロリとした執着をこびりつかせた。

 

 パリン!!


 店内の中心で、何かが決定的に割れる音が響いた。

 純白の漆喰が、まるで古い皮膚が剥けるように一斉に剥がれ落ち、その下から、雨漏りのシミが残る、いつもの、どうしようもなくダサい壁紙が姿を現した。

 屋久杉の大扉は、カップ麺の汁を吸って少し歪んだ、いつものガタつく木製の引き戸へと戻っていく。

 霊木の棚は、あちこちに傷がついた、安物のベニヤ板の棚へと「退化」した。


 あかりの周囲を包んでいた神々しい光は霧散し、店内に戻ってきたのは、冬の朝の、少し鼻を突くような冷たくて湿ったカビの匂い。


 「……はぁ、はぁ、はぁ……。……戻った、な。……地獄へ、お帰りだ」


 丈一郎は膝をつき、激しく肩で息を吐いた。


 全身の血管が、あかりの魔力を強引に汚した反動で、焼き切れるような熱を持っている。

 左腕のバングルは、役目を終えたように元の、傷だらけのくすんだ金色の環へと戻っていた。


 目の前では、あかりが呆然と立ち尽くしていた。


 彼女の漆黒の僧衣には、丈一郎がぶちまけた灰が白くこびりつき、その端正な顔にも、埃がひと筋、汚らしく線を引いている。

 

 「……私の、聖域が。私の、最高の楽園が……。こんな、カビ臭い……ただの箱に……」


 あかりは、震える指先で自分の顔についた埃を拭った。

 その指先には、もはや聖者の輝きはなく、ただの「汚れ」がついているだけだった。

 彼女という完璧な作品に、丈一郎という染みが一つ、刻まれた瞬間だった。


 「……勝ったぞ、あかり。……ここは俺の店だ。あんたの神様も、あんたの天国も……うちの入店規約に反してんだよ」


 丈一郎は、汚れた床を愛おしそうに見つめながら、不敵に笑った。

 それは勝利の笑顔というよりは、ようやく自分の「汚れた日常」を取り戻した、底辺の男の安堵だった。

 だが、あかりの反応は、丈一郎の予想を遥かに超えたものだった。

 

 「……フフッ。……ふふふ……アハハハハハハ!!」


 あかりは突然、顔を覆って笑い出した。


 その笑い声は、清らかな鈴の音ではなく、狂気と歓喜が混じり合った、剥き出しの「執着」の響きを伴っていた。

 彼女という完璧な調律師が、人生で初めて「制御不能なノイズ」に出会った喜び。


 「……面白い。面白いわ、環丈一郎。……これほどまでに私の音を汚し、私を地面に引きずり下ろした男は……あなたが初めてよ。……ああ、やっぱり、あなたは壊す価値がある。……一から作り直すなんて、もったいないわね。……この泥にまみれたあなたのまま、私がじっくりと……その魂の髄まで、汚し尽くしてあげるわ」


 彼女の瞳に宿った光は、もはや「救済」ではなく、獲物を執拗に追い詰める「略奪者」のそれへと変質していた。

 丈一郎は背筋に、氷を流し込まれたような寒気を感じた。

 

 彼は勝ったはずだった。


 だが、目の前の女は、負けたことでさらに深く、暗く、丈一郎という「汚れ」に恋をしてしまったのだ。

 あかりの笑い声が、修復不能なまでに汚れた店内に反響する。それは勝利の凱歌ではなく、終わりなき執着の幕開けを告げる不協和音だった。


 丈一郎は立ち上がろうとしたが、全身の筋肉が激しい痙攣を起こし、視界がチカチカと明滅する。

 バングルを通じた過剰な「拒絶」の代償が、心臓を直接鷲掴みにしていた。


 「……っ、笑ってんじゃ、ねぇ……。さっさと、お引き取り、願おうか……」


 その時、あかりの瞳に宿る狂気が、さらに一段、色を濃くした。

 彼女は懐から、先ほど丈一郎が床に転がした「銀の数珠」とは比較にならないほど強烈な光を放つ、一個の結晶を取り出した。


 「環さん、あなたのその『音』を、私の純粋な音の中に閉じ込めてあげるわ。二度と、私以外のノイズがあなたに触れないように。……それが、私からあなたへの、永遠の誓約よ」


 あかりが結晶を握り締めると、店内に「絶対零度の静寂」が満ちた。


 それは先ほどのリフォームなどという生易しいものではない。空間そのものを凍結させ、丈一郎の存在そのものを「一編の楽譜」の中に閉じ込めようとする、数門の禁忌術式。


 丈一郎の呼吸が凍り、思考が白濁していく。


 意識が真っ白な虚無に呑み込まれようとした、その瞬間だった。


 「……あーあ。静かすぎて、耳が痛いじゃないか」


 それは、この店で聞き慣れたはずの、甘えた「ニャー」ではなかった。

 凛としていて、それでいてどこか退屈そうな、芯の通った大人の女性の声。


 カウンターの残骸の上。


 三毛猫のモモが、ゆっくりと四肢を伸ばして立ち上がっていた。

 彼女の周囲だけ、あかりの絶対的な静寂が物理的な「ヒビ」を立てて剥離していく。


 「モ……モ?」


 丈一郎が酸素を求める魚のように口をパクつかせながら呟く。

 モモは、あかりの放つ神聖な圧力など微塵も感じていないかのように、前脚を一振りした。


 パクッ、パクパク。


 信じがたいことに、モモはあかりが展開した極限の結界を、まるで空中に浮いた綿菓子でも食べるかのように、無造作に「食い破った」のだ。


 「な……!? 術式を、捕食したというの……!? ありえないわ、それは数門の理を根底から否定する……」


 あかりの顔から余裕が消え、初めて「恐怖」に似た戦慄が走る。


 モモは、あかりを黄金の瞳で静かに見据えた。


 「小娘。環の血筋は、代々高潔で、我が力を持ってしてこの地を清め、尊ばれてきた。……だというのに、この代の男はどうだ。心根は卑屈、バングルは傷だらけ、挙句の果てに土地神である私に、具なしのカップ麺を分け与える始末……。おまけにローンを抱えて毎日溜息ばかり。歴代の主たちが知れば、あまりの情けなさに卒倒するだろうな」


 モモの言葉の一つ一つが、言霊となって店内の埃を震わせる。

 丈一郎は「うるせぇよ、俺の勝手だろ」と返したかったが、声が出ない。


 「……だがな。その『生き汚い人生』こそが、どのご先祖様よりも騒がしく、心地よい。……丈一郎。お前の自由を、こんな女の綺麗な指先で止めていいはずがないだろう。……この場所は、お前がその汚れた手で一円ずつ積み上げてきた、最高に醜くて愛おしい、我らの家なのだからな」


 モモの毛並みが、一瞬だけ神々しい白銀の輝きを放ち、その背後に、巨大な獣の影が揺らめいた。

 あかりの「聖域」の残滓が、モモが放つ圧倒的な「土地の重み」によって、一瞬で塵へと変わる。


 「……素晴らしいわ。環さん、あなた。猫(神)さえも、その泥臭い執着で共犯者に仕立てていたのね……。ふふ、あはは! 調律しがいがあるわ……その神ごと、私が私の一部にしてあげる!」


 あかりは、畏怖を狂気に変換して笑った。

 だが、モモの「神としての時間」は、あまりに短かった。


 「……チッ。やはり、この安物のカリカリでは、器を保つ燃料が足りぬか……。おい、丈一郎。あとは……適当に、やって、おけ……。それと、明日は……鰹節の量を、三倍に……しろ……」


 凛とした声が、急激に掠れていく。


 銀色の輝きが消え、モモの体がぐらりと揺れた。

 丈一郎が咄嗟に両手を伸ばすと、腕の中に落ちてきたのは、先ほどまでの威厳が嘘のような、ただの温かくて少し重い三毛猫の塊だった。


 「モモ……? おい、今の、お前だったよな? 喋った、よな……?」


 「……ナァ」


 モモは丈一郎の腕の中で、いつもの気の抜けた声を出し、彼の半纏に顔を擦り付けた。

 その隙に、あかりは白檀の香りを夜風に漂わせ、満足げに微笑んで身を引いた。


 「また会いましょう、私の愛しい楽器さん。次は、その神様の喉笛を、私の数珠で飾ってあげるわ。……うふふ、楽しみね」


 あかりが闇に消え、店内に残されたのは、ボロボロの店主と、爆睡を始めた三毛猫だけだった。


 丈一郎は、元の「ダサい壁紙」と「汚れた床」を見渡し、深く、長い溜息をついた。


 「……はは。神様、だぁ? ……喋ったよな、こいつ。絶対に、美人の声で喋ったよな」


 だが、モモはもう夢の中だ。

 

 「……ったく。神様なら、宝くじの一等でも当てさせてくれりゃいいものを……。結局、残ったのは壁の穴と、空っぽの財布かよ」


 彼は、カウンターの端に置かれたままだった、ぬるくなったビールの缶を一口煽った。

 驚くほど不味く、驚くほど鉄の味がした。

 だが、その不快な味こそが、彼が「神様」の救済を拒み、この泥臭い現世にしがみついた勝利の証だった。


 「……明日は、特売のカリカリだぞ。あかりに貰った金粉入りのやつなんて、二度と食えると思うなよ、モモ」


 膝の上で丸くなるモモの背中を、丈一郎は乱暴に、だが愛おしそうに撫で回した。

 夜の商店街に、古書店のガタつく引き戸を閉める音が、小さく響いた。


 明日は朝から、ホームセンターへ行ってコンパネとガムテープを買わなくてはならない。

 そんな世知辛い日常が、今は何よりも尊かった。


 あー、結局。


 俺の家が神棚だったのか、それとも俺が猫の飼い主じゃなく「神の給仕係」だったのか。どっちにしろ、世知辛いことに変わりはありません。 

 あかりの奴が残した「白檀の香」が、どうしても鼻について取れません。

 掃除しても、換気しても、どこかにあの女の執着が染み付いている気がしてならない。


 あー、ストーカー様お断り。

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